万葉集の成立と作品について ~日本最古の和歌集~

万葉集といえば防人歌を思い浮かべる人も多いのでは?皇族や貴族ではない庶民が詠んだ歌には、脚色なく当時の事が書かれています。約4500首が収録されている万葉集の成り立ちや読み解き方、有名な和歌についてまとめて見ていきましょう。

 

万葉集とは何か

元暦校本万葉集
元暦校本万葉集/Wikipediaより引用

万葉集とは7世紀後半に編纂が開始され、8世紀後半に成立したとされる日本最古の和歌集です。収められている歌の多くは7世紀前半から8世紀後半、飛鳥時代前期から奈良時代後期の作品とされます。誰が編纂を始め、誰の手によって完成したか、等については諸説ありますが、現在の形に纏め上げたのは大伴家持(おおともいえもち)だとされます。収録されている歌の数は4500首以上であり、最も多く収録されているのは大和国、今で言う奈良県で詠まれた歌とされています。その他には東国で詠まれた東歌や防人歌などが収録されています。当時の暮らしや歴史上の出来事、学術的には万葉仮名の用法や方言の使い方などを詳細に知ることができる貴重な資料として、現代に至るまで多くの専門家による研究がなされています。

 

万葉集の書名の由来

万葉集、もしくは萬葉集という書名の由来には諸説あり、歌を葉っぱに準え、多くの歌が集う様を表したという説、万の言の葉、よろずの言の葉の集まりとする説、「古事記」の序文に倣って「葉→世」と解釈した、万の世に伝えるべき歌集、とする説などがあります。当初は「万の言の葉」の説が有力視されていましたが、その根拠が記されている「古今和歌集」は万葉集よりも後世の書物であることから現在においては信憑性が低いとされます。現在において信頼性が高いのは「古事記」を論拠とする「葉→世」の説であるとされます。

 

万葉集、全20巻の遍歴

万葉集は全部で20巻から構成される和歌集ですが、その全てが纏まった時期に編纂されたわけではありません。開始から成立までに1世紀以上の長い期間がある事から、時代ごとに複数人の手によって巻ごとに編纂されたという見方が有力です。編者としては、既に16巻まで存在していた歌集を全20巻まで追加して纏めなおしたのが大伴家持であるとされます。原型が出来てから完成までの歴史を大まかに表すと、全四回にわたる加筆があったとされます。

その原型は1巻の全84首のうち53首を纏めたものであり、天智天皇、天武天皇、柿本人麻呂などが編纂または作品に携わっています。第2回は1巻の残30首程度と2巻の約150首を追収録したものです。当時の天皇であった元明天皇が編纂に関わっており、2巻には天智天皇の子息である草壁皇子を悼む挽歌が多く収録されているのが特徴です。第3回は最も大規模な収録であり、3巻から16巻序盤までの3500首以上が編纂されています。編纂には大伴家持、元正天皇、大伴坂上郎女などが関わったとされています。

この16巻を序盤ではなく短い最終巻だと考える説も存在します。20巻完成以後に15巻までしか目録のない写本が著されていたり、16巻までに対して17~20巻が世に出るまでの時期が大きく開いているなどから大伴家持が個人的に付けた私家集だと江戸時代の仏僧、契沖が提唱しています。

但し、この説においては信憑性が低いとされます。論証として、政治の場における家持は幾度となく謀反への参加や関与を疑われて地方へ左遷される憂き目を見ています。家持が没した直後の785年に藤原種継暗殺事件が発覚し、この計画に家持も関わっていたとされて家財が検められます。その際に初めて16巻以降の増補分が人の目に触れますが、家持が恩赦を受けた806年まで世に広まらなかったという説が有力です。

 

万葉集の歌の詠み人の特徴

万葉集は天皇や貴族に限らず、様々な身分の人による歌が収められているのが特徴です。中でも有名なものとして、地方の兵役につく防人が詠んだ防人歌、東国の庶民が詠んだ東歌があります。その他有名な歌人も数多く見ることができ、三十六歌仙である柿本人麻呂、山部赤人、在原業平、大伴家持などによる歌が収められています。編纂された時期ごとに詠み人の傾向に特徴があり、巻を追って行くと、当初は天皇・貴族の文化であった和歌がだんだんと官吏へ広がり、やがて庶民にも至ったという流れを見ることができます。

 

東歌と防人歌

庶民の歌として、東歌と防人歌があるのは先述した通りです。その特徴として、率直かつ剛健な歌風が挙げられます。江戸時代中期の歌人である賀茂真淵は、この歌風を「ますらをぶり」と評したとされます。これは屈強な男を表す際に用いる「益荒男」から命名された呼称であるとされます。東歌は14巻の名称にもなっており、この巻に約240首が収録されています。

東国の具体的な範囲としては、上総、下総、常陸、信濃、陸奥、駿河といった現代における太平洋側の地域が主となっています。単に己の思い付きを詠んだ”譬喩(ひゆ)歌”や風景を詠んだ”雑歌”においては先述の地域が主ですが、離れた地にあって互いの消息や心情を詠んだ”相聞歌”については比較的地域を問わず収録されています。

防人歌は東国から都の防衛として招集された防人が詠んだ歌です。東歌と同様に14巻にも収録されていますが、その大半は20巻に収録されています。主に故郷に居る親族や故郷の事について詠まれており、招集を受けてから都までくる費用や武器についても防人の側が負担していたという厳しい状況の中で詠まれたという成り立ちがあります。

収録の背景としては、防人が詠んだ歌を東国の兵役担当に纏めて上進させ、佳作が収録されたとされます。選別の過程において約半数が弾かれていますが、佳作については国名、言葉遣いなどが殆ど校正されずに収録されています。このため、方言の研究において貴重な資料的価値が認められています。

 

万葉仮名について

当時は平仮名やカタカナがなく、全て漢字で表現されていました。万葉集に収録されている
歌も全て漢字表記ですが、読み方としては21世紀の日本語と同じく、書いてある順番通り
読めば意味が成立するように書かれていました。この時に用いられた表記方法を万葉仮名と呼称します。この万葉仮名の用例として、大伴家持の作品の一部を引用して解釈しますが、「剣太刀(つるぎたち)」を「都流藝多知」と書き換えています。

この場合、3文字目以外は単純な漢字の音読みや訓読みを流用したものであり、3文字目は、藝、という漢字の持つ技能・技量といった意味合いから音をあてたと思われる2種類の使い方が見られます。万葉仮名が歴史的資料とされている理由として、独特な考え方に基づき、高度に体系化された文字である事が挙げられます。朝廷の公的文書などにも万葉仮名は頻繁に用いられており、和歌などの日常的な事柄において使う文字や女性が使うものとされる平仮名を「女手」と呼称したのに対して万葉仮名は「男仮名」と呼称されています。

万葉仮名の成立自体は万葉集より古い時代とされています。当初は単純に漢字の音訓を借りて置き換えたものが主流でしたが、そのうち使い手の心情に基づいた絵画的な性格を持つ文字が多くなります。この傾向は奈良時代後期に最も顕著となります。具体数においては諸説ありますが、万葉仮名の用法は全部で1000通り近くあったとされています。神楽声(ささ)馬聲蜂音(いぶ)といった漢字三文字、または四文字で読みは二文字という用法も存在し、現代に残る北海道以南の難読地名には、例として鵠沼(くげぬま)彼方(おちかた)等、万葉仮名が基になっているとされるものもあります。

それ以後は過剰な芸術性を疑問視する流れなどもあり、奈良時代後期から字体の簡略化が行われています。平安時代には読みやすさや書きやすさの追求が更に進み、万葉仮名の一部分を取って簡略化した片仮名や万葉仮名を極度に走り書き、草書化した草仮名、後における平仮名へとつながっていきます。

 

古典としての万葉集

かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。17世紀末(江戸時代後期)
かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。17世紀末(江戸時代後期)/Wikipediaより引用

万葉集は後世においても多くの学者や歌人に文学的資料として研究されています。歴史的に有名な事象だけではなく、一般の人が当時の一幕を切り取った民俗学的な価値があります。
その他にも、万葉仮名を読み解くことで他の歴史研究への応用が期待出来たり、優れた歌人の発想や着眼点を知れる万葉集は、後世の歌人にとって優れた資料といえます。

 

万葉集の古典物語への影響

万葉集に収録された和歌には、”竹取物語”や”浦島太郎”の基になったといわれるものが存在しています。竹取物語については万葉集16巻に「竹取翁の歌」と表題された詠み人不詳の長歌が収録されています。翁が仙女を見出すところは後世の竹取物語にも通じています。概要としては仙女たちの寛ぐ場に居合わせた翁が焚火の番を頼まれては一緒に寛ぐ、といったものであり、この歌の中に現れる翁が平安時代に創作されて現代に伝わる竹取物語のモデルになったとされています。浦島太郎については万葉集より以前の”丹後国風土記”が初出とされていますが、浦島太郎の物語は複数回にわたる改編を経て現代の形になっています。

そのうちの1回として高橋虫麻呂の長歌が9巻に収録されています。その概要を解説すると、釣りに興じる浦の島の男、つまりは太郎が抜群の釣果を挙げ、気を良くするあまり時間の流れを忘れます。1週間以上も家に帰らず舟を漕ぎ進めるうちに海神の娘と出会い、たちまち相思相愛となって海神の住む常世の国で共に暮らす、といった序章となっています。現代にも残る部分として、常世の国では時間の流れが現世と違うこと、玉手箱を開けたら若者が翁になるという部分は高橋虫麻呂の長歌が初出とされます。

 

万葉集の歌風から見る時代背景

万葉集は1世紀以上にわたる編纂期間を持つ事は先述しましたが、当時の時代背景によって
収録された歌にも傾向が見られます。編纂開始直後は個人による自由な創作の誕生期でもあるため、純粋に風景などを讃える雑歌が多く見られます。このときの代表的な歌人としては天智天皇、有馬皇子、藤原鎌足等が居ます。2巻が編纂される頃には表現技法が洗練され、優れた技量を讃えて和歌の仙(ひじり)、歌仙と称される人物も現れ始めます。

太平の世において和歌が成熟した時期であり、明るい相聞歌が多く見られます。この時期の著名な歌人としては柿本人麻呂、持統天皇、天武天皇などが居ます。3巻以降、最も多くの歌が編纂された奈良時代初期においては、山辺赤人や大伴旅人といった独自の感性を持った歌仙が数多く登場しています。

自分の心情を表したものから第三者的な視点で表現する作風の転換がみられる時期でもあります。奈良時代後期から平安時代直前の頃になると後の特徴である感傷的な作風が主となります。この時期の著名な歌人としては大伴家持、湯原王、大伴坂上郎女などが居ます。

 

写本制作の歴史

万葉集は後世においていくつかの写本が制作されています。片仮名や平仮名が一般に用いられるようになり、写本を作るにあたっても万葉仮名の置き換えが行われました。その解読作業は平安時代に端を発し、総4500首のうち9割以上が、村上天皇によって組織された和歌所の担当である「梨壺の五人」によって、漢字に訓読を付けられたとされています。梨壺の由来は和歌所の庭に梨の木があったためです。

具体的には大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文の5人を指し、いずれも本人もしくは親族が三十六歌仙に名を連ねる優れた歌人であったといいます。残る約500首においては、平安時代から鎌倉時代中期における多くの歌人たちによって解読されています。訓読の付された時期によって本の系統が異なり、収録されている和歌の年代順に書くと廣瀬本、寛元本、文永本といった系統に大別されます。

このうち万葉集の読解を行う際に最も参考にされているのは文永本であり、中でも多くの歌が記録されている西本願寺本は現代において最も有力な写本と言われています。

 

万葉集の作品を紹介

大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)
大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)/wikipediaより引用

万葉集には非常に多彩な様式の和歌が収録されています。文字数においては一般的ともいえる五・七・五・七・七の五句短歌の他にも、五・七を何回か続けた後に五・七・七で締めくくる長歌、長歌のあとに補遺、補足などの意味で加えられる反歌、頭の五七七を二度繰り返す旋頭歌があります。

詠った分野についても分類があり、相手の消息を案ずる心境を詠んだ相聞歌、去った者を悼む挽歌、町や宮廷での日常などを詠んだ雑歌などがあります。万葉集に収録されている約4500首の内、9割以上にあたる4200首以上は短歌です。長歌は260首ほど、旋頭歌は数十首です。その代表的な作品をいくつか紹介していきます。

 

編纂者、大伴家持の作品

大伴家持は万葉集の最終的な編纂者であり、総収録数4500首の1割以上にあたる473首が家持の歌であるとされます。とくに17巻から20巻は殆ど家持1人の手で編纂されている事からも、成立に尽力しているといえます。歌人として有名な3首を次に挙げます。
『春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも』
『我が屋戸のいささ群竹むらたけふく風の音のかそけきこの夕へかも』
『うらうらに照れる春日はるびにひばりあがり心悲しも独りし思へば』
以上の3首を総括して「春愁三首」と呼称することがあります。

この歌が詠まれた背景として、幾度となく反乱や陰謀への関与を疑われ、官位が揺らいでいた家持の憂いがあります。まず最初の和歌については、春の霞がかった、悲しい印象を受ける夕闇にウグイスの鳴き声が響く…といった率直に悲しさが表現された和歌となっています。

次の和歌については、家持の居宅の前にある些かの群竹を揺らす微かな風の音が聞こえる今日の夕べ…と夕暮れ時の雰囲気を表現した和歌となっています。3つ目の和歌は、麗らかに照りつける春の日差しの中、ひばりが飛んでいく。その鳴き声を聞きながら物思いをしていると、どこか物悲しくなってくるな…という、和やかな風景において悲しい胸中が表現されている、やるせなさを表現した和歌となっています。

いずれの和歌も、のどかな風景に対して物悲しい胸中を詠っているものであり、奈良時代後期における繊細な歌風が表されています。

 

皇族、貴族による歌

和歌という文化は天皇及び貴族に端を発します。万葉集も天皇の歌を最初に編纂しており、
その後も代々の天皇や貴族、その縁者が様々な歌を残しています。以下、いくつかの和歌と
その概要、詠まれた背景などを解釈していきます。
『籠もよ み籠持ち 掘串もよみ 掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも』(雄略天皇)
上記は万葉集において最初に登場する歌です。雄略天皇は強い専制君主であったとされ、その御製歌が収められた位置からも、その権勢は窺い知れます。和歌の意味を現代的に言い換えると、雄略天皇が丘で菜を摘む者に声をかけ、籠や箆といった持ち物を賞賛してから名前や家の場所を聞き、そこから己が大和国を治めていることを披露している、といった意味になります。

当時において名前を聞くことは相手への好意を明らかにする意味があり、自らの肩書きを伴って言い寄る雄略天皇の開放的な人柄が窺えます。もっとも、こういったことが続くような平和な国家であれ、との願いも込められており、軽妙な歌風も当時の世相を反映したものと解釈できます。『香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき 神世より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき』(天智天皇)
この歌は、神代ほどの昔から香具山と耳梨山は畝傍山を巡って争っていたという。なので、今においても人間は配偶者を巡って争うのだろう、という意味になります。

上記の3つの山は奈良県にあり、大和三山とも呼称されています。山が争う、というのは神代日本における「八百万の神」の考え方に基づくものと思われます。歌の題材としては太古の伝説を詠っていますが、この伝説は信憑性が高いものとされ、らしき、という結びは実際にあったことを回顧するように使われています。

 

著名な歌人、歌仙の作品

万葉集全20巻の内、第2巻が編纂される頃になると柿本人麻呂、山上憶良といった後世に伝わる、特に優れた歌人を歌仙と呼称するようになります。時代に伴って様々な歌人が現れ、3巻以降が編纂される頃には様々な歌仙によって万葉集の最盛期がもたらされます。
『天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ』(山上憶良)
この歌は有馬皇子を偲ぶ山上憶良が詠んだ挽歌です。この歌は2巻に収録されていますが、有馬皇子が謀反の疑いを掛けられた中で詠んだ2首の後に挽歌が3首続けて収録されています。

この辺りから、有馬皇子とその関係者たちの無念が見られるように思えます。歌の意味としては、皇子の霊は天を翔けながら此方を見ているのか。人には分からないが松の木には分かる事だろう。というものになります。人の目には見えていないが、霊の存在は感じ取っている、と皇子に語りかけるように詠まれています。
『玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ 神の御面と 継ぎ来る 中の水門ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波さわく 鯨魚取り 海を恐み 行く船の 梶き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑の島の 荒磯面に いほりてみれば 波の音の 繁き辺べを 敷栲の 枕になして 荒床に 自伏す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは』(柿本人麻呂)
柿本人麻呂は特に優れた歌人を指す「歌聖」の1人であり、公卿である藤原公任によって三十六歌仙にも選ばれています。

技量の高さ、長歌の分量とも、万葉集に収録されている歌人の中でも指折りの人物とされています。この歌も長い挽歌ですが、流暢に語られています。
讃岐のどれだけ見ても飽きない風景を称える内容から始まっており、人麻呂が近海を渡るさなかに沖合は荒れており、浜辺を見れば白波がさざめいている。この辺りに島は数多くありますが、一先ず手近な狭岑島に船を落ち着けた。その先で行き倒れた者を見出します。彼の者の住処を知っていれば自分が知らせに行くし、この者の妻が知れば駆けつけて言葉のひとつも述べるだろう。しかし、美しい鉾を立てる道も判然としないので、ただ待ち焦がれているのだろう、君の妻は…といった意味だと思われます。

鉾を立てる、というのは道を示す、と近い意味を持ち、倒れているところまで来る道も分からないだろう、という意味になります。当時において旅は長距離を歩くものであり、大きな危険を伴うことでした。旅の途中で倒れた者を見出した場合、その無念を鎮めるために挽歌を捧げる慣例がありました。この長歌も倒れた者を鎮めるような言葉が使われています。
『高光るわが日の皇子の万世に国知らさまし島の宮はも』(草壁皇子の舎人)
最初に、舎人とは皇族や貴族に仕え、主に雑用を担当した者を指します。草壁皇子は天武天皇の子息であり、皇太子の地位に就きながら陰謀への関与や権力争いの相手に呪詛を送ったなどの嫌疑を掛けられ、草壁皇子が失意の中に没した事に際して柿本人麻呂ならびに草壁皇子の舎人が多くの挽歌を寄せ、万葉集にも収録されています。

この歌は心情が実直に表されており、草壁皇子が晩年の拠点としていた島の宮から何時までも国を治めてほしかったという率直な願いと嘆きが伝わってくる挽歌となっています。

 

民衆による歌

万葉集の14巻、および20巻に見られる東歌、防人歌は民衆が詠んだ和歌がほぼ手つかずで収録されています。地方から160首ほどの東歌が寄せられましたが、収録にあたっては編纂者たちが目を通し、その結果、秀作ではないと判断された約80首ほどが収録されていないとされます。その分、当時の基準において優れた和歌は手つかずで収録されています。当時の事が脚色されずに書かれている為、史料的価値は高いです。以下に2首程挙げます。
『夏麻(なつそ)引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり』(上総国より)
東歌は詠み人の具体名が分かる場合は詳細に記録されていますが、当初から詠み人不明である作品が数多く存在します。

この和歌は14巻の最初に収録されており、内容としても簡易にして明瞭な作品です。刈り取った麻を積んでいるが、海上潟の沖にある島へ船を泊める。もう夜も遅いから…という意味となっています。東歌は素朴で実直な歌風を特徴としており
そういった意味で、この作品には東歌の特徴がよく表れています。『筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも』(常陸国より)
この歌の内容としては、筑波山から採れた新しい絹糸で作られた着物も魅力ですが、貴方の纏った着物がどうしても着たい、といったものになっています。歌風としては相聞歌であり率直に好意を詠った東歌となっています。

 

万葉集に由来を持つ名前

万葉集は後世においても色々な場所及び分野に名残があります。先述した全国にわたる難読地名の他にも、大伴家持が訪れた地である富山県の路面電車に「万葉線」という路線があります。藤原京のあった奈良県には万葉集に関する資料を集めた「奈良県立万葉文化館」が建てられており、国内外から親しまれています。

他にも奈良県内には「桜井線」という路線があるのですが、それの愛称として「万葉まほろば線」という名称が用いられています。他に関連のある施設としては、万葉集において多く詠まれている植物を実際に植え込み、鑑賞できるようにした「万葉植物園」と総称される植物園が全国各地に存在します。歌集に登場する植物は150種類以上に及び、植物園としても1年を通じて楽しむことが出来ます。

現地では植物と共に用いられた歌が掲示されており、当時の歌人に近い心境や着眼点を持つことが出来ます。その他としては、子どもの命名に万葉集の言葉遣いや読み方を引用してくる、といったことも行われているようです。

 

万葉集における四季折々

万葉集には日本の草花や四季を詠った和歌が特に多く収録されています。特に多いのは草花
についての和歌であり、万葉集に収録されている和歌の3割以上に登場しています。その中でも多いのが萩と梅で、何れも100首以上が詠まれています。それぞれ好まれた理由としては、日本において萩は古来から生命力の象徴であり、繁栄と豊穣を願った和歌が多いためとされます。

また、万葉集が編纂された飛鳥時代から奈良時代は梅が日本に伝来した時期と重なり、主に貴族の間で梅の花を楽しむ習慣が根付いていた為とされます。和歌の題材として有名な桜は万葉集においては然程多くなく、特徴的な時代背景を見ることができます。

自然の事象で多いのは月、風、海、雪などであり、太陽や青空といった事象についてはかなり少ないです。風については1年を通して触れる時間が多く、季節の変化を実感しやすい事象であるためと思われます。月と海は時の移ろいを表すものであり、日によって違う顔を見せる楽しさが詠まれています。又、故郷や故人など遠い所を想う際に多く用いられています。雪は冬の象徴であり、同じく冬の花である梅と併せて詠まれた和歌も多いです。

又、富士山に積もる雪化粧を讃えた和歌も詠まれています。季節については秋が数的に突出しており、黄葉についての歌が多くを占めています。この時代の表現として、秋に葉の色が赤または黄色に変わることを総称して、黄葉と表現します。

 

まとめ:日本最古の和歌集、万葉集は現代でも読み継がれる

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万葉集はその収録数や万葉仮名という表記形式もあり、読みやすい書物であるとは言えません。実際、万葉集が古典と言われる時代になってからの写本の作成や然るべき部分の平仮名への置き換えなどに、専門家たちが頭を悩ませた伝承が散見されます。そういった先人達の努力もあり、現在は読みやすく整えられた訓読を見ることが出来ます。

自力で原文を読み解く事から始めるより、先ずは概要を理解した方が興味を持ちやすいと思われます。これは万葉集に限った話ではありませんが、日本最古の和歌集であり、特に多くの和歌が収められている万葉集を読解するにあたって重要な観点だと思われます。

 

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