毛利元就の生涯について ~長州藩のルーツといわれる戦国武将~

現在の山口県には、かつて周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)を領国とする大藩、長州藩がありました。その始祖といえる人物こそ、毛利元就です。この記事では、そんな毛利元就の生涯についてご紹介します。

 

毛利元就の生い立ちまとめ

毛利元就
毛利元就/Wikipediaより引用

長州藩のルーツである戦国武将・毛利元就。策略家で人望も厚い武将で、ゲームやドラマなど現在でも多くの作品に登場する人気の武将です。そんな元就の生涯について、学んでいきましょう。

 

誕生~元服するまで

毛利元就は、1497年3月14日に、鈴尾城において安芸の国の国人領主であった毛利弘元と、その正室との間の次男として生まれました。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)といいました。
1500年、隠居した父弘元は、長男(松寿丸の兄)である毛利興元(おきもと)が家督を相続しました。次男の松寿丸は、多治比猿掛城に移り込みますが、翌年には母が、9歳のとき(1506年)には父・弘元が酒毒、今でいうところのアルコール中毒のために亡くなりました。

松寿丸は所領を横領した家臣の井上元盛によって多治比猿掛城を追い出されてしまいます。生活は困窮しますが養母である杉大方(すぎのおおかた)によって支えられ、1511年に兄・興元の許可を得て元服、多治比元就と名乗りました。

 

有田中井出の戦い

1516年に、兄・興元が酒毒によって急死すると、毛利家の家督を継いだ兄の息子である幸松丸(こうまつまる)の後見人になりました。弘元、興元の相次ぐ死によって動揺する家中は、武田元繁によって有田城を攻められ、元就は幸松丸の代理として、有田城救援のために初陣を飾ります。有田中井出の戦いとよばれるこの戦では、武田軍の先鋒であった熊谷元直の軍を撃破する武勲を立てています。
有田中井出の戦いの後、甥の幸松丸が9歳で死去すると、重臣たちの推挙により毛利家の家督を相続します。27歳のときのことでした。またこの年、妻・妙玖との間に、長男の少輔太郎(のちの毛利隆元)が生まれています。

 

相合元網の討伐~大内氏との和睦

毛利弘元の直系とはいえ、分家の人間が家督を継承するということに不満を持った一部の家臣たちが、元就の異母弟である相合(あいおう)元網を擁して元就を暗殺する計画を立てます。しかしこれは、元就の家督相続を推挙した重心の一人である志道弘良(しじ・ひろよし)らの支援によって元網とその一派を討伐することに成功しています。
この暗殺計画に肩入れしていた尼子経久と敵対し、ついには関係を断って大内義興(よしおき)の傘下に入ることになりました。勢力拡大の第一歩として、相続争いで相合元網に与していた高橋氏の一族(当主:高橋興光)を討伐し、安芸~石見を領土とします。
宿敵であった尼子氏が大内氏と和睦している間に、元就は大内氏との関係強化を図ります。1533年に大内義興の推挙によって従五位下右馬頭の位に任ぜられました。1537年には嫡男である少輔太郎を大内義隆(義興の嫡男で、義興の死去により大内氏の当主となった)に人質として預け、元服させ「隆元」と名乗らせています。

 

吉田郡山城の戦い

元就の嫡男・少輔太郎が元服したのと同じ年、尼子氏では尼子詮久(のちの尼子晴久)が家督を継いでいました。詮久は血気盛んな人物で、大内氏と大友氏が和解したのを受けて、大内氏との和睦を解消し、1540年に元就の本拠地である吉田郡山城に攻め込み、吉田郡山城の戦いが始まりました。

3万の尼子軍に対し、わずか3千の寡兵で尼子軍に立ち向かうことになった元就は、苦しい籠城戦を強いられます。しかし、大内義隆が彼の重臣である陶隆房(すえ・たかふさ)の1万人の援軍を得て、尼子軍を撤退させることに成功しました。

 

第一次月山富田城の戦い、妻との死別

1542~43年、元就が従属する大内義隆が総大将となって、尼子氏の本拠地である月山富田(がっさんとだ)城を攻めたことで起こった第一次月山富田城の戦いに、元就も従軍します。

大内軍は力づくで月山富田城を攻めにかかりますが、攻略することはできず、さらには吉川興経(大内氏の家臣)の裏切りや兵糧不足により、大内軍は撤退。敗走している時は、元就も死を覚悟したといわれています。1545年に妻の妙玖と、養母の杉大方を相次いで亡くす不幸にも襲われました。

大寧寺の変~折敷畑の戦い

1551年に、大名・大内義隆の家臣である陶隆房が謀反を起こしました。義隆は長門大寧寺に追い込まれて自害(これを大寧寺の変という)、養子である大友晴秀(のちの大内義長)が擁立されました。陶隆房は「晴賢」(はるかた)と改名し、大内氏の実権を握ることになります。
元就はこの謀反に賛成していたとされ、陶晴賢の家臣となり、また安芸国の義隆を支持していた国人衆を攻め、平賀家を実質毛利家の傘下に収めるなどしています。
1554年に吉見正頼(石見国国人、大内氏、毛利氏の家臣)が反旗を翻したことで三本松城の戦いが起こります。吉見氏と陶晴賢の両方から出兵を求められていた元就は、挙兵して安芸国の陶晴賢の勢力を一掃(防芸引分)しました。
謀反を起こした吉見正頼の軍に手間取っている間に、元就も陶晴賢に対して反旗を翻しました。晴賢は家臣の宮川房長に元就の攻撃を支持します。両軍は安芸国の折敷畑(おしきばた)山で衝突し、この戦は元就の勝利に終わりました(折敷畑の戦い)

 

厳島の戦い~大内家を滅ぼす

1555年、折敷畑の戦いでの家臣の敗戦を受けて、今度は陶晴賢自らが挙兵して厳島にあった元就の宮尾城を攻めました(厳島の戦い)。兵力では圧倒的に毛利氏が不利であったものの、元就の巧みな策略と、村上水軍(厳島周辺の制海権を持つ海賊衆)が毛利方についたことなどにより、敗戦した陶晴賢は自刃しました。これによって大内氏はどんどんと衰退していきます。
翌1556年には2万5千人もの兵を率いる尼子晴久と、尼子氏と手を組んだ小笠原長雄が大内方の山吹城を攻撃、元就は迎撃しますが忍原(おしばら)にて「忍原崩れ」と呼ばれる大敗を喫し、石見銀山を領有されてしまいます。
しかし翌年、大内義長を討って大内氏を滅ぼすと、周防・長門を支配し、安芸・備後と合わせて4ヶ国を支配する大名になりました(防長経略)。

 

第二次月山富田城の戦い~尼子氏との決戦

1556年、尼子氏に山吹城を攻撃されて以来、石見銀山の支配権を失ったままでしたが、1560年に宿敵尼子氏の当主である尼子晴久が死去します。尼子氏の動揺をついて元就は、1562年より出雲進攻を開始しました(第二次月山富田城の戦いの始まり)。

尼子晴久の嫡男で、新しい当主となった尼子義久は、難攻不落とされる月山富田城(がっさんとだじょう)に籠城し、毛利氏を迎え撃ちます。そのさなかに元就の嫡男であった隆元が急死するという出来事が起こりました。

その深い悲しみを乗り越えて、弔い合戦として尼子氏の支城であった白鹿城を2ヶ月で攻略すると、月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込み、ついに籠城を継続できなくなった尼子義久を降伏させることに成功しました。

 

晩年の戦い~毛利元就の死去

尼子氏を滅ぼした後も、元就の戦いは続きます。
尼子一族の尼子勝久を擁した山中幸盛率いる尼子の残党軍が、山陰から侵入して攻めてきたり、大友宗麟などの敵対勢力に苦しめられました。
特に山中幸盛率いる尼子の残党軍との戦いは、数年にわたって続きました。高齢で病気がちであった元就は、吉田郡山城にて、戦の結末を知ることのないまま、老衰または食道がんのために75歳で没しました。

 

<まとめ>毛利元就の生涯を振り返る

毛利元就

毛利元就/Wikipediaより引用

いかがでしたか。幼いころに父と兄を次々に酒毒で亡くし、武将として戦の世界に飛び込んでいった元就の生涯は、戦に次ぐ戦の中に生きたものであったといえます。戦においては策をめぐらせて相手を倒す策略家であったようです。また、朝倉宗滴(越前国の武将)は元就の政務や家臣の心を掴む能力を、高く評価していました。
長州藩のルーツとみなされることの多い毛利元就は、現在でも小説やアニメ、ゲームなどにも取り上げられることのある、人気の武将となっています。この記事を読んで、少しでも毛利元就に興味を持っていただけたのなら幸いです。

 

<戦国時代の関連記事>

織田信長の年表完全まとめ!本能寺の変など、重要トピックを解説!

織田信長のゆかりの城をまとめ!滋賀県に位置する安土城の特徴は?

知る人ぞ知る天下人!豊臣秀吉が天下をとるまでを年表で見てみよう!

広告