平城京ってどんな都市だったの?遷都の経緯と京の特徴を解説!

平城京は、現在の奈良県にかつて存在した日本の都でした。後の平安京の歴史と比べれば、平城京の歴史はとても短いものでしたが、華やかな天平文化が栄えました都市でした。その平城京はどんな都だったのかを、この記事では紹介します。

 

平城京とはどのような都だったのか

平城京跡
平城京跡/Wikipediaより引用
平城京は、今から1300年ほど前に完成した都です。平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれています。
では、平城京はどのような特徴を持った都だったのでしょうか。以下で見ていきましょう。

 

平城京の歴史

平城京に遷都以前は、都は藤原京にありました。その藤原京からの遷都の審議が707年に始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出されました。そして710年に平城京への遷都が完了します。しかし、平城京に遷都された当時は、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、その後段階的に整備されていったと考えられています。
恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されますが、745年には、再び平城京に遷都され、その後784年に長岡京に遷都されるまで政治の中心地でした。

 

平城京の名称

平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論があります。戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていました。その後、少なくとも1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになりました。
これは平城天皇が「へいぜい」と読むことや、漢字音で「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られています。

 

平城京の都市計画

平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられています。東西は約4.3km、南北は約4.8kmの長方形の東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約2,500ヘクタールあります。
都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびるメインストリート・朱雀大路は幅約74mもあります。この朱雀大路の西側を右京、東側を左京といいます。碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていたといわれています。

 

平城京の建築物

寺院建築が非常に多く、京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称しました)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものです。東大寺は、聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により765年に創建されました。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称します。この他、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがありました。

 

平城京の発掘・調査

北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年『平城宮大內裏跡坪割之図』にまとめました。さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年に発表しました。
棚田嘉十郎によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われました。 1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しています。

 

平城京以後の都はどこ?

平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)
平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)/Wikipediaより引用
平安京は784年になると、桓武天皇によって長岡京に遷都され、都としての役割を終えました。しかしその長岡京も10年ほどしか都として機能せず、遷都の10年後である794年には、平安京へ遷都されます。以後、1000年以上の長きに渡り、平安京は日本の都となるのです。

 

平安京に遷都後の平城京

平安京に遷都後の平城京は、ほとんどが田畑になってしまいました。その遺構が土の下に埋まっているため、いまでも平城京は発掘作業が続いています。
このような理由で、今も研究者の手によって発掘が進められているわけですが、復元されている建築物もいくつかあり儀式場だった「第一次大極殿」や、平安京にもあった「朱雀門」、外京の南半分側にあったとされる皇太子の宮殿(の庭)「東院庭園」などが再現されています。他にも発掘現場そのままの状態を見ることができる「遺構展示館」などもあります。

 

平安京に遷都の理由

平城京は710年から784年まで、日本の都でした。784年になると桓武天皇の命により、長岡京に遷都され、その10年後の794年には平安京に遷都されました。そして平安京は1000年以上の長きに渡り、日本の都となりました。ここで疑問に思う方も居ると思います。
なぜ長岡京はたった10年で都の座を明け渡してしまったのでしょうか。そこには以下の理由があります。桓武天皇は奈良時代まで続いた天武天皇の血筋を絶って即位した天皇です。そのため天武天皇の子孫たちが築いてきた奈良の平城京から飛び出し、新しい都を造ろうとしました。桓武天皇はこれまでの、しがらみをリセットするために遷都を決断したのです。
ここでもう1つのしがらみとして仏教が挙げられます。平城京は仏教都市でもあり、政治にしばしば仏教勢力の口出しがありました。そうしたしがらみを一掃するために、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都の命を下します。しかし長岡京への遷都はうまくいきませんでした。
長岡京を建設する最中に、桓武天皇の周りに多くの不幸が訪れます。この相次ぐ不幸を鎮めるため、桓武天皇は再び遷都を決定します。こうして平安京が誕生し、現在の京都市の原型ができあがったのでした。

 

まとめ:短くも華やかに栄えた平城京

 平城宮跡大極殿(復元)
平城宮跡大極殿(復元)/Wikipediaより引用
いかがでしたか?平城京の歴史を見てきました。平城京は平安京の歴史の長さと比べると、どうしても見劣りするため、平安京の影に隠れがちです。しかし平城京は奈良時代という一時代の象徴でもあります。奈良時代は律令国家を完成させるなど、日本が飛躍的な進歩を遂げた時代でした。
また奈良時代は天平文化が大いに栄えました。天平文化とは平城京を中心にして花開いた貴族・仏教文化です。この天平文化はとても華やかで、唐の文化を積極的に取り入れたものでした。奈良時代は短い時代でしたが、このよう華やかな天平文化が日本の隅々まで浸透していきました。
「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京。関西へ旅行の際は、奈良を訪ねて在りし日の平城京に思いを馳せてはいかがでしょうか。

 

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