鎌倉幕府について学ぶ ~人気観光地のバックグラウンド ~

観光地鎌倉。現在では名所となる要素はいろいろありますが、やはり鎌倉幕府の存在がなければ今日の鎌倉はあり得ません。世代により「いいくに(1192年)」と習ったり「いいはこ(1185年)」と習ったりと、成立年までも解釈が様々であるともいわれる鎌倉幕府についてご紹介します。

 

鎌倉幕府の歴史上の流れ

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)/Wikipediaより引用

鎌倉時代には鎌倉幕府が朝廷と並んで全国を統治していました。それまでの豪族、貴族による統治に代わって(あるいは並立して)武家による政権が初めて確立した時代です。
鎌倉幕府は源頼朝が鎌倉に創設し、新田義貞により滅ぼされるまで150年近く続きました。ここでは、鎌倉幕府がどのようなものであったのかご紹介した上で、鎌倉幕府の興亡を時系列で見ていきます。

 

「幕府」とは

そもそも「幕府」とはなんでしょうか。これまでの歴史においては鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府という3種類の幕府が成立しましたが、歴史上に幕府が出現したのは鎌倉幕府が最初です。
「幕」は陣を張るときの幕を表し、「府」は役所を意味します。武力を背景に成立している役所、といったところでしょうか。総じて武家の最高権力者(征夷大将軍など)を中心とする武家政権を意味します。また、その首長の居館も意味する場合があります。現在でいう総理官邸のようなものですね。

 

鎌倉幕府成立へ向かって

平安時代末期、保元の乱、平治の乱という政争が武力によって解決した例により武士の地位が向上、特に有力武家である平氏、源氏が台頭してきました。鎌倉幕府の創設者である源頼朝は平治の乱で平氏に破れ、伊豆に流されていた流民でした。
朝廷により源氏に対して平氏追討の命が下されると、頼朝は3万騎の軍勢を率いて鎌倉に入り、以後ここを本拠地とします。西国からの平氏軍とたびたび戦いつつこれに勝利し、1183年には東国を支配下に置きます。
そして1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させ、全国に守護(地方行政官、軍事指揮者)と地頭(徴税官、警察官)を置いて支配するようになりました。

 

鎌倉幕府全盛期

1185年が鎌倉幕府成立年と言われるのは、源頼朝が鎌倉の居館を中心として全国支配を開始した年だからです。その後、対立していた実弟、源義経の逃亡先である奥州藤原氏を討ち果たすと1192年に朝廷から征夷大将軍として任ぜられます。もともとは源頼朝個人による東国支配という性格の強かった鎌倉幕府ですが、頼朝が征夷大将軍の地位を得ることで名実ともに鎌倉幕府は政治の中枢をなすこととなったのです。
源氏の将軍は源頼朝からたった3代で断絶してしまいましが、その後の幕府は執権という形で北条氏が事実上の指導者となりました。北条氏による政治は長く続きましたが、次第に陰りを帯びるようになってきます。

 

衰退と滅亡

第8代執権の北条時宗の時に、モンゴル、当時の元による日本侵攻である元寇(げんこう)が発生します。2度におよぶ元寇は自然条件に味方され、西国武士の奮戦もあって撃退に成功します。しかし、その後の元の襲来に備えるために軍備増強を続けていたところ、この負担に対して諸国の武家の反発が高まってきます。
こうした気運に乗る形で当時の後醍醐天皇が討幕運動をおこしました。各所での戦いを経て討幕側の新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉各所でも激戦が繰り広げられました。戦跡は現在も鎌倉市内各所に残っています。この戦いの中で14代執権北条高時一門が自害して果て、鎌倉は陥落しました。鎌倉幕府は滅亡したのです。

幕府滅亡後、鎌倉には鎌倉府がおかれて東国支配の拠点となり、東国の中心地として商工業も盛んでした。しかし、鎌倉府の長官が京都の将軍と対立して東国は西国より一足早く戦国の世に入り、この中で鎌倉は衰退していくことになります。

 

鎌倉幕府の政治

建長寺山門、神奈川県鎌倉市
建長寺山門、神奈川県鎌倉市/Wikipediaより引用

鎌倉時代に幕府が行った政治はどのようなものだったのでしょうか。当時の政治や統治の構造を見ていきましょう。

 

幕府と朝廷の関係はどうだったのか

鎌倉幕府成立まで権力の中心であり続けていた朝廷と鎌倉幕府の関係については、名目上は朝廷を背景としつつも、実質的な権力を握っていたのは幕府であるとするのが一般的な見方です。
しかし、中には朝廷とそれぞれ補完しつつ政治運営を行っていたという考えや、朝廷を中心とした西国に対して幕府を中心とした東国が国家として実態としては独立していたという考えもあります。

 

御成敗式目の制定

幕府成立当時は公家に対する法律である律令は存在していたものの、武家に対してその行動を定める明文化された法令がありませんでした。北条氏による執権政治が安定してくると武家の行動規範である「御成敗式目」が定められます。
御成敗式目は鎌倉幕府滅亡後も廃止されることはなく、江戸幕府による「武家諸法度」が定められるまで武士の基本法として存在しつづけたのです。北条氏による執権政治では御成敗式目をもとにして合議制による政務、裁判を行っていました。

 

御恩と奉公について

鎌倉幕府が武士を支配する仕組みはどうなっていたのでしょうか。支配する側の幕府が従属する武士に対して領地を保障したり、新しい領地を与えることを「御恩」と呼びました。武士が戦時において幕府のために戦ったり、平時は各所の警備についたりする役目を負うのが「奉公」です。
この「御恩と奉公」という互いの利益供与の仕組みによって幕府と武士との間に強固な主従関係が成立していました。「御恩と奉公」の仕組みは室町幕府や江戸幕府でも続いています。
武士は奉公の役を果たすため、鎌倉の有事には「いざ鎌倉」と、いち早く駆けつけることとされていました。いざ鎌倉のために各地から鎌倉へ向けて通ずる道が整備されました。これらの道を鎌倉街道といい、現在も鎌倉街道や「かまくらみち」という名が残っている道路が関東各所に存在します。

 

仏教を推奨 禅宗の保護

鎌倉幕府は北条氏による執権政治時代に、当時最先端であった禅宗を手厚く保護しました。現在の北鎌倉付近を中心として禅宗の寺を多く建立もしました。鎌倉市内に名刹が多いのはこういった理由によるところも多いのです。鎌倉五山のうち四寺までが北条氏による創建で、鎌倉(および京都の)五山という禅寺の格付け制度自体も北条氏によるものです。
禅により悟りを得ようとする禅宗の考え方は、日々の修練により己を磨くことを自らに課していた武士たちに支持され浸透していきました。
鎌倉随一の観光スポットとなる高徳院の大仏も鎌倉時代につくられました。ただ、高徳院は今でも開山・開基が誰であったかが不明な状態です。したがって、大仏鋳造のいきさつも不明と仏像自体はとても有名であるにもかかわらず、開山・開基に関しては多くの謎が残されています。

 

鎌倉幕府の地理的要素

鎌倉市中心部周辺の空中写真
鎌倉市中心部周辺の空中写真/Wikipediaより引用
旅番組などで紹介される際に、アクティビティとして寺社めぐりやグルメなどとともにハイキングも紹介されることも多い鎌倉。また、夏は海水浴場も多くの人々でにぎわいます。実はこの海あり山ありの地形が鎌倉幕府の軍事的強固さを支える大きな要因でした。

 

鎌倉の地形的特徴

鎌倉は南側を海、それ以外の三方を山に囲まれています。外側との連絡は海路か山越えに限られるということで、防衛には大変適した土地でした。
周囲の山体の主な構成物は鎌倉石と呼ばれる凝灰岩です。鎌倉石は比較的やわらかくて削りやすいため、山を切り開いた切通しと呼ばれる道が整備されました。切通しはトンネルのように山を掘りぬかず、溝を深く掘るようにしてその底を交通路とするイメージです。
鎌倉の切通しは幅広くはひろげられず、防衛機能を重視した形になっています。外部と結ぶ切通しは7か所あって鎌倉七口と呼ばれており、半数程度は現在も趣を残しています。
鎌倉幕府を陥落させた新田義貞が鎌倉に攻め入った際も、当初は極楽寺坂切通しの突破を図りましたが、険しい切通しで幕府軍の待ち伏せにあい、幹部が戦死するなどしてあきらめています。
その後、南にある稲村ケ崎に回り、愛刀を海に投げ込んで潮が引くことを龍神に願うと潮が引いて干潟ができたため、進軍が可能になったと伝えられています。稲村ケ崎周辺の砂浜は砂鉄成分が多く黒っぽいのですが、ここに砂鉄成分が多いのは義貞の刀が変じたものという言い伝えまであります。

 

鎌倉幕府が実際にあった場所

幕府は武家の最高権力者の居館という意味がありますが、実際に幕府があったのはどのあたりでしょうか。鎌倉幕府を創設した源頼朝は大倉に屋敷を構えました。大倉は現在の鎌倉市雪ノ下で、海側から鶴岡八幡宮を見て右奥の方にあたる地域です。
その後、北条氏の第3代執権である北条泰時は幕府を宇都宮辻子(うつのみやずし)に移動しました。宇都宮辻子は鶴岡八幡宮の参道である段葛の鶴岡八幡宮に向かって右側に位置します。さらに北条泰時は幕府を移動し若宮大路幕府とします。
若宮大路幕府は宇都宮辻子幕府とほとんど同じ場所であったともいわれており、詳細はわかっていないものの、大佛次郎邸のすぐそばには若宮大路幕府跡の石碑が立っています。

 

鶴岡八幡宮

源頼朝の居館は大倉にありましたが、頼朝は鎌倉入りした際に鶴岡八幡宮を現在の場所に移しました。そして本殿を中心に幕府の中枢施設を造ったため、鶴岡八幡宮も重要な政治拠点でした。
現在舞殿が建っている場所では源義経が愛した静御前が舞ったと言われていますし、平成22年に倒れてしまった大イチョウは源公暁が源実朝を暗殺した(これにより源氏の幕府支配が終結してしまっています)際に隠れていたと伝えられています。このように鶴岡八幡宮は鎌倉幕府と切っても切れない位置づけにあります。
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路といいます。由比ガ浜の海岸から八幡宮本殿に向かってまっすぐ伸びる、当時としては非常に幅の広い道でした。若宮大路は海抜が低く、水浸しになり歩きづらくなることが多々あったため、中央部には段葛と呼ばれる一段高くなった道が設けられました。
段葛は海側から本殿側に向かってだんだん幅が狭くなるように作られており、目の錯覚を利用して実際よりも長く荘厳に見せる効果を得ています。

 

まとめ:日本遺産「いざ、鎌倉」

鎌倉大仏
鎌倉大仏/Wikipediaより引用

ここまで鎌倉幕府について一通り見てきましたがいかがでしたでしょうか。
鎌倉を観光する際も少し史実を思い出したり、ハイキングの時に切通しなどの構造を意識してみたりすることでより一層興味深く見ることができるのではないでしょうか。

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