田沼意次の功績と人格にせまる ~賄賂政治家ではなく、立派な経済人?~

田沼意次といえば、わいろを連想する方が多いと思われます。しかし実際は経済改革で多くの実績を残した人物です。この記事では田沼意次の老中になるまで、なった後の実績を紹介します。

田沼意次の経歴

田沼意次
田沼意次/wikipediaより転載

田沼意次は江戸時代の人物であり、旗本から大名、老中になった経歴を持ちます。父親が紀州藩の出身であり、紀州藩の者を重用する徳川吉宗の方針もあって幼少時から一定の地位を得ます。次に将軍に就く徳川家重の世話人として小姓に選ばれますが、小姓は直江兼続や井伊直政といった有力者が数多く通った道であり、重要な役どころです。
16歳で旗本になってからは将軍家からの代々にわたる厚い信頼を受けて石高を増し、50歳の時に老中へと昇進します。以降は数々の商業を重視した政策を打ち出し、幕府の財政再建に貢献しました。のちに贈収賄のイメージが付き、潔白を掲げる松平定信によって失脚するという流れは有名です。

 

田沼意次が生きた時代の時代背景

先述したように当時の幕府は財政難であり、その原因として商業が体系化されていない事などが挙げられます。徳川吉宗の代に起こった天保の飢饉などもあり、政策として農業重視、年貢の量の統一などが優先されていました。
そこで田沼意次は、高い収入が見込める鉱山業や高級食材の貿易に目をつけて財政を再建していきます。

 

田沼意次、大名へ出世

9代将軍、家重の就任を契機に田沼意次は昇進を始めます。就任当初は600石の旗本でしたが、それ以降数年ごとに石高を加増され、就任から約10年で10倍の6000石まで到達します。参考として、1石は1人の大人が1年間生活できる量の米に相当します。
この頃には将軍の側近である御側御用取次の地位にありました。更にその3年後、大規模な百姓一揆である「郡上一揆」を裁くにあたって徳川家重から抜擢され、この功績によって石高が1万石に増え、1万石以上の者が名乗れる「大名」へと昇進します。郡上一揆は長期化していた問題であり、若年寄や老中といった重役が喚問に応じず、事態は停滞していました。
田沼意次は将軍の信用を得て解決にあたり、若年寄である本田忠央に不当な年貢法改正への関与を認めさせます。これにより事態が動き出し、農業にこだわる従来の派閥が軒並み処分されます。この時に田沼意次は功績を認められ、解任された本田忠央の領地を受ける形で大名へと昇進します。
また、これを機に農業を重視する派閥が衰退したことにより、商業を重視する田沼意次らに時代の主流が移っていきます。

 

田沼意次、老中への昇進

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その後も田沼意次は将軍家からの信頼のもと、順調に出世を重ねていきます。郡上一揆の収束から8年後、老中の側近である側用人へ昇格します。その後早々に2万石へ到達し、相良城の所有を許可されました。そしてその2年後、石高5万7000石を数える藩の大名に昇格します。
同時に老中を任じられ、幕府の税制改革に乗り出します。一連の石高増、昇任劇は格別の早さであり、徳川家の田沼意次への信頼が推察できます。余談ですが、田沼意次の領地は今で言う関東地方から近畿地方にかけて横へ長く伸びており、領地が特定の一地方に固まっていないという状態でした。

 

田沼意次の政策

従来の農業重視政策の不振により、幕府の財政は悪化の一途をたどっていました。郡上一揆以降の流れとして、幕府は商業重視による財政再建を掲げます。田沼意次を中心とした、幕府の諸閣僚は様々な政策を打ち出します。
代表的なのが現在における株式会社と似た仕組みを持つ株仲間の再編です。特殊な市場という発想自体は織田信長の頃から存在していますが、少数の商人が物流を独占する形態は商人が増長し、仕組みを悪用する懸念から中止されていました。再編は商業の組織化による物価の統一や物流の安定といった利点を重視した形になります。
ほかの経済政策としては、貨幣発行量の増加による貨幣制度の定着および財政の回復といったものがあります。さらに国力増強を意図した外交政策として、長崎における外国との貿易枠の拡大を行い、より多くの海外製品と技術の獲得に努めました。輸出品目としては新たに開発した鉱山からの貴金属や高級な海産物を用いました。
それに伴い、オランダの学問である蘭学を奨励し、杉田玄白や平賀源内による学問の開拓が進みました。当時は鎖国のただなかであり、その状況に新たな学問を広めた功績は大きいです。こういった全体的に積極性の高い考えのもと財政再建を進め、老中就任から3年後には江戸幕府において約60年ぶりの好景気を実現します。

 

松平定信との対立

経済政策によって貨幣制度が定着したことで物価は明確となり、財政は安定に向かいましたが、欠点も明らかになります。当時の基準においては明確で手近な誠意を表現する手段として、賄賂が横行します。これが田沼意次に対する主だった悪印象の要因となっており、実際に収賄疑惑によって失脚する原因となっています。
この背景には政策失敗によって飢饉への対応が後手となったことや、米の不作による各地の大名の困窮、それによる年貢の上昇からくる庶民の幕府への反感などがあります。こうした流れの中で第11代将軍徳川家斉が就任し、老中の主座に松平定信が就任します。
松平定信は田沼意次の方針を否定しており、従来の農業重視主義を良しとする清廉な思想の持ち主でした。実際に飢饉へ対応して諸藩を立て直した実績があり、これを評価されての就任でした。このとき既に田沼意次は失脚していますが、この原因として松平定信が幕府の権力者に賄賂を贈り、田沼意次の政策を否定するように差し向けたため、との説もあります。
そうして徳川家治の死去から間もなく、老中の身分や所領、城に至るまで殆ど全てを没収されます。他の老中が辞任した時と比べて非常に重い処罰であり、松平定信を始めとした反体制派に強く敵視されていた結果と推測されます。

 

松平定信との比較

田沼意次は松平定信と対比されることが多く、取った方針が真逆に近いため、田沼意次といえば金に執着して市井を軽く見る悪人といった印象が強いです。二人の対照的な施政を風刺した歌として、以下のような狂歌があります。
『田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水』 『白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき』
このうち前者は、潔白を掲げて改革を始めた松平定信を歓迎するものでしたが、改革が進むにつれて盲目的に倹約を強要する松平定信を疎み、不健全であったとしても自由な田沼意次を懐かしんだものが後者の狂歌となります。
実際のところ、田沼意次の悪評の多くは松平定信などによる誇張、あるいは流言によるものだという説があります。郡上一揆における不正の積極的な追及や財政改革による通貨制度の普及実績などは後世で高く評価されており、特に相良城主であった頃の政治は貿易拠点の整備や防火できる瓦屋根の奨励・整備など的確に町の事を考えた政策を打ち出していたとされます。
商業主義者となった理由においてはそれまでにおける農業重視主義の失敗、中でも徳川吉宗の施策を見て、米による収入は水物であると体感した事が切っ掛けとなります。事実、田沼意次の後に老中となった松平定信は再び農業重視・質素倹約による財政改革を試みましたが、財政改善という面では然程の成果を上げられませんでした。
後世に向けた施設整備用の基金を積み始めた等の功績はありますが、庶民への配慮や分かりやすさという点においては田沼意次の方が上であったと思われる等実際のところは一長一短であったと思われます。

 

田沼意次の人物像

田沼意次は消費を抑制するというよりは、収入を増やして支出も増やすといった庶民受けの良い政治を終始行っています。郡上一揆での事態悪化の原因をよく知っていたこともあり、農民に対しても米より養蚕業による絹糸や製塩業による収入増加および特産品としての拠出を提案するなど、互いが得する仕組みづくりが得意であったといえます。
そういった政策によって立身出世を果たすのですが、その成果のみを見た庶民からは、田沼意次は金によって成り上がったと曲解され始めます。株仲間の再編においても、確かに物流は安定しましたが、株仲間に入る条件が「組合に一定額の金銭を納めること」なので、一様に健全な仕組みとは言えません。
また、これはどちらかというと農民側に問題があるように思うのですが、貨幣獲得の風潮に乗るあまり稲作を行わなくなり、結果として食糧難に陥ったことが失脚の遠因となっています。この頃の食糧難には浅間山噴火や後世に残る江戸の大火事、明和の大火など苛烈な災害が相次いだことも大きく関わっており、これを不運とみるか強引な政治に禍福の禍が回ってきたと見るかは一部の間で意見が分かれています。
急速に改革を進めすぎた事が問題であり、近現代においてはその政治能力や着眼点の良さを再評価する動きも出てきています。当時においても徳川将軍家からの信用は厚く、中でも9代将軍徳川家重は今でいう小間使いである田沼意次を大名へ取り立てています。
徳川吉宗の紀州藩重用の流れに則ったとも取れますが、信用されていた証拠とも言えます。この立身出世の出発点は将軍家と縁のあった父の領地600石を継いだことであり、父である意行が子息の息災を願ったという七面大明神に田沼意次も信仰を寄せて家紋を七曜紋に変えたと言われています。

 

まとめ:田沼意次の生涯

田沼家の家紋・七曜紋
田沼家の家紋・七曜紋/wikipediaから引用

 

田沼意次は悪い意味で覚えやすい印象が強い人物ですが、稲作のみを重視する時代に商業主義を吹き込んで財政再建にこぎつけた実績を持っています。利益重視のあまり市民の間で賄賂が横行する世間を作り出したのは事実ですが、田沼意次自身の収賄についてはむしろ少ないほうであったとされます。
財政改革以前から有力者に金銭で便宜を図る風習は存在し、田沼意次が始めた悪習ではない事は留意が必要です。金銭関係以外にも目を向けると様々な実績を知ることができて面白い人物だと思われます。

 

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