室町時代の変遷について紐解く!足利家の時代のまとめ

室町時代は当初から南北朝時代が並立していたり、応仁の乱以後は戦国時代に含める説もあるなど複雑な時代です。しかし230年以上の存続期間は江戸幕府に次ぐものであり、多くの文化的・経済的成長を遂げた時代でもあります。この記事では室町時代について解説します。

室町時代について

後醍醐天皇御像
後醍醐天皇/wikipediaより引用

室町時代とは、西暦1330年代半ばから1573年において足利家による室町幕府が成立していた時期を指します。成立当初から約60年にわたる南北での分裂を南北朝時代と称する事もあり、全国各地に複数の指導者が擁立されていました。
室町時代、という名称は、幕府が京都の室町にあった事が由来とされます。室町幕府が開かれたのは1336年ですが、初代将軍である足利尊氏が征夷大将軍へ任命されたのが1338年であり、室町時代の開始を1336年と1338年のどちらと考えるかは意見が分かれています。
230年以上幕府が存続しており、江戸幕府と同数である15代将軍まで代を重ねている長期政権ですが、応仁の乱が終結した1477年以後は幕府の権勢が衰退しています。応仁の乱が開始された1467年、または下剋上の機運を高める明応の政変が起こった1493年以後を戦国時代に分類する意向もあります。

 

室町時代の始点、建武の新政

鎌倉時代から室町時代に移行するまでの約3年において、後醍醐天皇による建武の新政が行われます。後醍醐天皇は就任当初から後継ぎ問題で他の皇族、および鎌倉幕府と対立しており、権力の一本化と自家の安泰を目的に討幕を計画していました。
この計画は露呈し、1331年の時点で隠岐島へ封じられます。計画を引き継ぐ形で後醍醐天皇の子息である護良親王が討幕の号令を発し、有力な守護大名であった赤松則村が応じて挙兵します。
則村に続く形で新田義貞や足利尊氏といった幕府側の有力武将が朝廷へ寝返り、大規模な反幕府勢力が形成されます。1333年には後醍醐天皇が隠岐島から脱出し、これを契機にした攻勢によって北条氏ならびに鎌倉幕府は滅亡に追い込まれます。
翌1334年には元号が「建武」に改められ、旧来の領地区分の無効化及び再配置や徳政令の発布など体制の再構築が試みられます。しかし、多くの功労者に対する恩賞の配分や幕府機関の乱立による権限の衝突など問題が続出し、建武の新政の拙速さが明らかになります。

 

足利家と後醍醐天皇の対立

建武の新政を経て足利尊氏が室町幕府を開いてからも、後醍醐天皇との対立は続きます。大規模な戦乱を経て、当初は足利方の勝利という形で和睦が成立していましたが、のちにこれを否定した後醍醐天皇が京から吉野国へ脱走し、吉野朝廷を設立します。
これ以降、位置関係から幕府を北朝、朝廷を南朝と称して、両朝が争う南北朝時代が始まります。戦闘は当初から北朝有利に進み、南朝方は有力武将の相次いで戦没し、1339年には後醍醐天皇が病没します。
状況は北朝側に大きく傾いていましたが、これまで軍功を重ねてきた高師直と、実権を持っている足利直義が今後の方針をめぐって対立します。この対立は激化し、両者の支持層同士が激突する全国規模の戦闘へと拡大します。
内乱の過程で高師直、足利直義の両者が没する事となり、北朝が混乱している間に南朝が勢力を回復したことによって戦乱は長期化します。

 

足利義満の就任

南北朝時代の開始から約30年後の1367年、3代目将軍となる義満が就任します。この時すでに多くの有力武将が幕府側に投降しており、幕府側が有利な状況でした。若い義満を補佐するため、細川頼之が管領となって幕府の体制安定に尽力します。
領内での宗教勢力同士の対立の平定から配下である守護の権限拡大まで多岐にわたる政務が行われ、幕府の権力基盤には細川家が大きく関わっていたとされます。この時期に義満が直接行った政務としては、各地の守護大名の他に将軍家直轄の武力として奉公衆を組織した事と、幕府の法律担当である奉行衆の制度改革を行ったことが挙げられます。
奉公衆は平時から将軍領の管理を担当し、管理地の治外法権や現地の税収を幕府の所得とする権限などを認められていました。税収は現地の守護大名によって管理されるものであり、守護大名を通さずに徴税する事は特権と言えます。奉行集については鎌倉時代から法律機関として存在していましたが、義満の時代に奉行の性質が大きく変更されます。
従来の奉行は、それまで引付と呼ばれる裁判機関における書記や恩賞の管理、領地の詐取などが起こった際の再配置と元領主の名誉挽回などを少人数で総合的に担当していました。義満の時代においては引付が解体され、従来の法律業務に加えて警察権や軍事権を持つようになります。その分、担当業務ごとに人員を割いて分業するという近代的な体制に変更されたのが大きな差異であると言えます。

 

康暦の政変

義満が将軍となってからも内乱は続き、1379年には管領である細川頼之と対立する守護大名によって義満の邸宅が包囲されます。このとき邸宅を囲んだのは斯波義将と土岐頼康と、その手勢とされます。2人は頼之の解任と追放を要求し、義満は要求を受諾します。2人に対しても幕政に参加させるなどの恩恵を与え、頼之に対しても追討部隊を派遣しています。
しかし追討は1度の敗北を理由に切り上げており、翌年には幕府の要職として頼之を復帰させています。その後、土岐氏を代替わりの混乱に乗じて攻め滅ぼしており、斯波義将においては実際に登用していますが、細川家と対立する義将を重用することによって、幕府の内部に緊張感をもたらすため、ひいては有力な守護大名である斯波氏を細川氏の監視下に置く狙いがあったとされています。
この一連の政変は「康暦の政変」と呼称されますが、これは義満ひとりでも幕政を行える、という事を頼之に主張する狙いで拡大させた政変であるという説があります。

 

明徳の乱

当時の室町幕府は中央集権体制ではなく、全国の管理を各地の守護大名に委任している状態でした。室町幕府の持つ権力も相対的に弱いものであり、長期政権の為には幕府の基盤を強化する必要がありました。康暦の政変や奉公衆の組織などによって幕府の体制を整えた足利義満が次に行ったのは、残る有力大名である山名氏の切り崩しでした。
山名氏は所領の問題などで内部抗争が起こっており、義満はこれに介入する事を計画します。まず幕府に対して不遜であることを理由に、領地を所有した山名時熙、氏之の討伐を山名氏清、満幸に命令します。この戦闘に敗北した時熙と氏之は権力を失います。
残る2人と直接対決を行うため、時熙と氏之の赦免要求に前向きであるという噂を流して氏清と満幸を混乱させたり、公領地の私物化を理由に満幸を京都から追放したりするなどの対応を行っていきます。
この結果として山名氏が挙兵し、義満の狙いは的中します。そうして始まった合戦は総勢1万5000騎以上による乱戦であり、山名氏清の奮闘や時熙の参戦などによって形勢は揺れ動きましたが最終的には義満率いる奉公衆5000騎によって趨勢が決し、幕府軍が勝利をおさめます。

 

南北朝合一

北朝が内乱によって混迷している間に南朝が勢力を伸ばすことで勢力が拮抗し、南北朝時代は長期化していました。しかし、1381年辺りから南朝側の支柱的存在であった懐良親王、北畠顕能などが相次いで没し、その権勢は大きく衰退します。これに乗じて足利義満が南朝方の領地管理を行い、実質的な戦力も殆ど削減されます。
そして1392年には足利義満が対話を開き、自らの支持する持明院の血統と南朝の支持する大覚寺の血統の両方を天皇に据える事、大覚寺側に国の所領を与える事、その代わりに朝廷を象徴する三種の神器を返還する事を要求します。南朝の後亀山天皇は要求を受諾し、北朝に三種の神器を返還します。これによって南北朝が合一され、60年近く続いた南北朝時代が終結します。

 

応仁の乱

足利義満が将軍である間は中央集権制でしたが、1408年に義満が没して以降は旧来の合議制に逆戻りし、再び幕府の権力は弱まっていきます。将軍家衰退の決定的要因となったのが8代目将軍、義政の後継者問題です。義政自身は弟の義視を指名しましたが、後に子息の義尚が生まれて養育担当となった伊勢貞親に意見されます。
貞親は義視が謀反を企図していると義政に流言しますが、反発した義視が細川勝元に頼り、すでに貞親を敵視していた山名宗全からの同時証言もあり、詭弁が露呈します。貞親は失脚し、側近が虚言で失脚した義政自身の権威も失墜しました。
これを機に細川勝元と山名宗全が全面的に対立し、互いの支持者が東西全国から京都に集結して起こった戦乱を、応仁の乱と呼称します。この戦乱は11年にわたって続きますが、明確な勝者もなく只管に都の街並みと幕府の権威を灰燼に帰したのみで自然消滅的に終結します。

 

戦国時代への移行

応仁の乱以後も戦場を全国に移して紛争は続いており、将軍家と各地の武家の衝突が繰り返されていました。中でも室町幕府終焉の起点となったのが1493年の明応の政変であり、ここで起こった細川家と将軍家の対立に細川家が勝利し、将軍家の有する室町幕府の機能は完全に失われます。
後に細川家は内部崩壊しますが、それに代わる有力者が表れるまでには若干の空白を要しました。1568年には足利義昭が織田信長の支援を受けて上洛を果たしますが、方針の違いから対立した結果として1573年に義昭は京を追い出されます。この一件を室町時代の終わりとみなす説が有力です。

 

室町時代の文化

金閣寺-舎利殿
金閣寺-舎利殿/wikipediaより引用

 

室町時代は経済振興が進み、豊かさを象徴する独特の文化や芸術が表れた時代として有名です。中でも足利義満の築いた鹿苑寺金閣と足利義政が築いた慈照寺(銀閣寺)は有名です。他にも鉱山業や貨幣経済の発達による物流の増加、街道や関所の整備等が推し進められた時代でもあります。
また、1549年にはイエズス会が伝来して日本にキリスト教を広めたことは有名な出来事です。各分野における具体的な成果を振り返っていきます。

 

経済的な発達

室町時代には常設店舗や品目ごとの卸売市場などが出現し、それに伴って物流網の整備が進められました。売買を行うにあたって貨幣経済が一層発達しましたが、支払いには宋銭や明銭など外国の貨幣が用いられました。
理由としては国内の貨幣品質が悪く、支払いを外国貨幣に限定する商人が多かった為とされます。貨幣は貿易で輸入していましたが、頻繁に貨幣不足となっては粗悪な私鋳銭の押し付け合いが行われたとされています。
純粋に向上した面としては、都市間の交易が発達したことによる長距離移動に伴う宿場町の設立や、所持品の検分と関税の徴収を行う関所の設置などがあげられます。室町時代後期においては大阪の堺など自治権を持つ大規模な商業拠点も現れています。

 

芸術面の発展

室町時代の芸術文化において金閣、銀閣は有名ですが、どちらの寺院にも成立時期に沿った特徴があります。金閣寺は室町幕府が隆盛をきわめた時期に建立されたものであり、構造としても貴族の住居として用いられる寝殿造を基調に外壁を金箔で覆うなど絢爛な装飾が施された寺院となっています。
対して銀閣寺は武士が台頭する時期に建立されたものであり、武士の住居として実用性が重視された書院造が基調としています。外壁に銀箔は使用されていませんが、漆が用いられており高級な意匠に変わりはありません。
また、五七五七七のリズムを持つ連歌は室町時代に大成しており、身分を問わず詠みあって楽しんだとされています。

 

室町時代の気風

室町時代は経済の発達、振興によって民衆が多くの金銭を所有したとされており、外国との貿易も盛んに行われていた開放的な時代といえます。衣食住の充足は文化の発展を促し、水墨画や能楽といった芸術の大成や禅宗を基本とした学問が庶民まで普及するなど生活の底上げが行われた時期といえます。

 

<まとめ>戦乱の続いた室町時代

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室町幕府は成立時から戦乱が続き、南北朝時代の全国的な戦役や応仁の乱の勃発など乱世であったと言えます。しかし戦乱に限らず全国的に多くの変革がもたらされた時代でもあり、旧習を打ち破ろうとした足利義満の思想がのちの戦国時代に繋がっていった重要な変革期でもあります。
室町幕府というと足利尊氏と義満が集中的に注目されますが、義政など他の将軍にも目を向けると室町時代をより深く理解できるかと思います。

 

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