寧々の生涯についてご紹介 ~豊臣秀吉の正室~

一般には北政所という名称を持つ、寧々。豊臣秀吉の妻(正室)となり、寧々は、とても人望があり、仕えた女性達、秀吉の家臣や織田家の周辺までも、みんな寧々に協力しました。
そんな、人望の厚い寧々について解説していきます。

 

「寧々」とはどういう人物?その生涯とは?

『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)
『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)/wikipediaより引用
寧々は別名「肝っ玉母さん」と呼ばれるように、家臣への面倒見が良く、温かい性格の人物です。その生涯は、夫である秀吉が出世を重ねるごとに、波乱に満ちたものになります。
その寧々の生涯について、幼少期から出来事を通じて紹介します。

 

寧々の幼少期

1549年生まれ、尾張国の杉原定利の娘(次女)で、母は朝日殿。兄弟は木下家定、長生院、杉原くまがいます。生まれてすぐに、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝の養女になります。普段は温厚な性格ですが、ここぞという時は一歩も引かない芯の強さを持っていました。
また、勝ち気な性格でもあり、後に夫となる豊臣秀吉とは尾張弁でざっくばらんに喋っていて、周囲からはまるで喧嘩をしているんじゃないかと思われたそうです。また、寧々は織田信長に気に入られる程、美人で気さくな性格でした。

 

寧々、豊臣秀吉との結婚

1561年8月に、織田信長の家臣、豊臣秀吉(25歳)と結婚しました。当時としては珍しい、恋愛結婚でした。当時の寧々の年齢はなんと14歳。
周囲に反対されたことと、秀吉の身分低さから、結婚式は質素な物でした。しかし、二人は非常に仲が良かったようです。かかあ天下で、秀吉は常に寧々には頭が上がらない様でした。
しかし、秀吉は女癖が悪く、沢山の女性に声をかけてしまうため、寧々は織田信長に対して告げ口をして、心温まる手紙をもらったというエピソードがあります。
その手紙には「あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど素晴らしい女性を得られるはずがないのだから、あなたは奥方らしくおおらかにかまえて、軽くヤキモチなどをやいてはいけません。この手紙は秀吉にも見せてやりなさい。」と書いてありました。
そんな、織田信長からも絶賛の寧々は結婚当初、秀吉の大胆な行動に、肝を冷やすことも多いようでしたが、回を重ねるごとに肝が据わって来たようです。
二人の間に子供が無かったため、寧々は、加藤清正、福島正則等の秀吉や自身の近親者を養子や家臣として、母のように育てあげることで、家臣の信頼を得ることが出来ました。

 

北政所の照合を獲得

秀吉と共に大阪城に移り、秀吉が関白になったことにより、北政所の称号を得ました。その当時は従三位という位で、天下人の妻として、朝廷との交渉を一手に引き受け、かつ人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担いました。
人質といっても、この人質は身代金目的で使われるものではなく、友好関係を結ぶ証として送られた、後に大名になる子供や大名の妻や母達でした。
そこでも、寧々は肝っ玉母さんぶりを発揮し、親身になって世話をして、豊臣家に親愛の情をもつように育てることで、これらの人達からの信頼も得ていきました。
その働きが認められ、従一位という位まで出世するのです。また秀吉から所領を、平野荘や天王寺などに合計約1万石も与えられたそうです。

 

豊臣秀吉の死後

豊臣秀吉の死後、豊臣家臣団同士の対立や織田信長姪、淀姫との溝が深まっていきました。そこで、寧々は豊臣家は私と秀吉によって築き上げたものとし、大阪城を離れ、京都の三本木に隠棲しました。隠棲後は、出家をして「高台院」と呼ばれるようになりました。
また、豊臣家では天下を治める事は厳しい事を考え、徳川家康に天下泰平の世の悲願を託しました。さらに一説によると、「関ヶ原の合戦」で、西軍の小早川秀秋が東軍(徳川家康側)に寝返ったのも、この寧々が促したものではないかと言われています。

 

寧々と淀姫との関係

淀殿 (茶々)
淀殿 (茶々)/Wikipediaより引用

寧々について知るのに良く、淀姫との関係が挙げられます。人格者の寧々に対して、わがままな淀殿の構図はありますが、寧々と淀姫の関係は決して不仲では無いと伝えられています。
しかし、豊臣家の存続を考えた「秀吉の妻」寧々と、秀頼が天下人で無くてはならないと考える「秀頼の母」淀姫という立場の違いが袂を分かつ事になり関ヶ原の戦いに繋がっていきました。
最終的には淀姫の考えが、徳川家康との摩擦を生み、大阪の陣を経て、豊臣家の滅亡という運命を辿りました。

 

まとめ:寧々の生涯

高台寺
高台寺/Wikipediaより引用
寧々の生涯はいかがでしたでしょうか?秀吉の妻となり、秀吉が出世するにつれ、自分も出世を重ね、内助の功として秀吉を常に支え続けた寧々。
家臣達が寧々に対して信頼を置いていたのは、寧々の包容力の高さから来るものでしょう。また、秀吉の死後には高台寺という寺を秀吉をともらうために建てたことからも、秀吉を愛しており、優しい性格である事がわかります。
そんな心優しい寧々のお墓は、彼女が最後に過ごした、その京都東山の高台寺にあります。一度参拝してみてはいかがでしょうか?

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