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織田信長の家紋の完全まとめ!7つの読み方、意味、由来を簡単解説!

家紋というと皆様、何を思い浮かべますか?皇室の菊の御紋などは有名ですが、現代の日本に生活する我々はあまり意識しないで生活していますね。この家紋、戦国武将にとってはとても重要な意味を持っていたんです。織田信長はなんと7つもの家紋を使い分けていました。いったいどんな風に使っていたのでしょうか?

織田信長の家紋は全部で7つ

家紋とは各家を紋章の形で表現し、衣類や小物などにあしらって使うものです。

三つ葉葵の家紋は時代劇などで特に有名になっていて、誰でも知っている事と思います。身分素性を隠していた黄門様が、最後の段階で印籠を取り出すと、印籠にあしらわれた三つ葉葵の家紋を見て、ならず者達が徳川御三家の水戸家のご老公であることに気づき、急にひれ伏して一件落着となる場面を見て視聴者は胸をなでおろすわけです。

家紋は日本固有の文化で、平安時代にはじまり、鎌倉時代の武士の多くは家紋を備えていました。日常や戦闘などあらゆる場面に使われていたようです。

戦国武将達も皆、家紋を持っていましたが、その中でも織田信長は7つもの家紋を持っていました。7つもあるとむしろ周囲に覚えて貰えないのではないか?という疑問が沸きます。いったいどういう経緯で7つもの家紋を持つに至ったのか見ていきたいと思います。

信長が最も使用した 織田木瓜(おだもっこう)

 

織田家を象徴する家紋として最も有名なのがこの織田木瓜の家紋です。織田家の戦闘や行事などあらゆる場面で使われていました。この家紋は当時としては一般的なもので、由来には瓜の断面や花の形といった複数の説がありますが明確に分かっていません。そのデザインから子孫繁栄を願ったともいわれています。木瓜は外側の花びらのようなものの数によりさまざまなバリエーションがあるのですが、織田家の家紋はそれが5つあるものです。

次の天下は平氏が! 揚羽蝶(あげはちょう)

平氏の家紋「揚羽蝶」の高精細フリー画像。

揚羽蝶は平氏、つまり源氏と平家のうちの平家の家紋です。織田信長は自分を平氏の流れを組んでいると主張していた関係でこの家紋を使っていました。根拠に欠けた主張でしたが、当時源氏と平氏の流れをくむものが交代で世の中を支配するという「源平交代思想」という考えがあり、足利氏が源氏系統だったので次の支配者への野望を抱いた信長はこの家紋を使っていました。波を連想させる美しい文様の家紋です。

中国で使われていた通貨の紋  永楽通宝(えいらくつうほう)

永楽通宝はもともとは15世紀、明代の中国で使われていた銅製の貨幣でした。それがに日本に輸入され、信長の居城の尾張では特に良く流通していました。信長はこれを家紋とし、特に旗印として用いていました。信長と言えば楽市・楽座にみられるような新しい経済政策を導入したことは有名です。経済に関心のあった信長にとって、貨幣をそのまま家紋にすることも自然だったのかもしれません。こうした点にも信長の発想の大胆さ、斬新さが表れているように思います。

足利義昭のからの恩賞 五三桐(ごさんのきり)

五三桐は信長が足利義昭が将軍になるのを助けた褒賞として賜った家紋です。もともと皇室の家紋だったものを、足利家が譲り受け、それをさらに信長が譲り受けたという、きわめて格式の高い家紋です。当時信長と足利義昭は協力関係にあったので家紋を譲り受ける事も出来たのですが、その後関係は悪化し、信長は義昭を排除することになります。五三桐は桐紋と呼ぶこともあります。桐の葉をモチーフにした美しい家紋で、有名な信長の肖像画の両肩の下のあたりに家紋を確認できますね。

足利家に代々伝わる紋 丸に二引両(まるににひきりょう)

丸に二つ引き

丸の中に横棒が2つひかれた図柄の丸に二引両の家紋もまた、足利義昭から譲り受けた家紋です。もともとの由来は足利家が代々伝えてきたもので、五三桐にくらべれば格式は落ちます。足利義昭としては二つの家紋を信長に譲ることで、信長に将軍となった自分の後ろ盾となって貰いたかったのでしょう。結局のところ二人は仲たがいし、信長は室町幕府を事実上終わらせ、足利義昭は歴史上最後の室町幕府将軍となりました。

皇室から拝領した紋 十六葉菊(じゅうろくようぎく)

菊花紋章の1つ十六菊。菊の御紋。

十六葉菊は皇室から拝領した家紋です。

もともとは鎌倉時代に幕府に反抗して承久の乱を起こした後鳥羽上皇が使っていた家紋です。菊の家紋は様々なバリエーションがありますが、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は俗に菊の御紋と呼ばれる天皇および皇室を現す家紋です。こうした家紋を拝領したことから、信長は当時の皇室とも密接な交流を持っていたのではないかと推察されます。

禅の世界観 無文字(むもじ)

戦国乱世の覇王・織田信長の家紋「無文字」の高精細フリー画像

無文字の家紋はよく読めませんが字が書いてあるような家紋で、仏教の禅の世界観である「無」の思想を表現しています。キリスト教を歓迎した一方で比叡山の仏教勢力とは鋭く対立し、弾圧を行った信長ですが、当時来日していたポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスによると禅の教えはある程度受け入れていたようです。この家紋からも、信長の禅仏教への評価や関心を読み取ることができるでしょう。

まとめ:7つもある織田信長の家紋の意味とは

織田信長は7つの家紋を用いましたが、その一つ一つに意味がありました。

当時の武将達は常識として様々な場面で常時家紋を用いていて、そうした言わば主力の家紋となるものが、信長の場合、織田木瓜でした。

織田信長は戦国時代において最初に天下統一を目指した武将であり、尾張からはじまり日本全国に展開していく様々な軍事的、政治的活動のなかで、色々な勢力と協力関係を結ぶ事となりますが、そうした活動の節目節目において、協力関係を象徴するものとして、様々な家紋が機能していた事も分かります。そうした系統の家紋としては、皇室から足利家を経由して信長の家紋となった五三桐や丸に二引両の家紋を挙げる事が出来るでしょう。のちの歴史を知る立場からは、家紋を与えたり、与えられたりしたとしても、必ずしも協力関係を安定させる事は出来なかった事分かるのですが、政治家、織田信長として、それぞれの場面で協力関係を構築しようとしていた事が分かります。

また常識にとらわれず多彩な活動を行った信長は、それぞれの活動に対応した家紋を作っていました。源平交代思想に基づき、揚羽蝶の家紋を作った事から、次の支配者は平氏から出るという、信長の並々ならぬ野望をうかがい知ることが出来ます。また自由な経済体制の確立により繁栄を図った信長でしたが、永楽通宝の家紋にはそうした願いが表れています。

信長にとって家紋は単に家を識別するデザインではなく、それぞれに意図が込められた、願いの象徴となっていたようです。

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