松尾芭蕉の俳句の世界に迫る! ~「俳聖」とよばれた最高の俳諧師~

松尾芭蕉という人を知っていますか? 江戸時代に活躍した俳諧師で、後の時代に「俳聖」とよばれるほどの人物です。
日本史上最高の俳諧師の一人として、しばしばその名前を聞くことも多いかと思います。この記事では、そんな松尾芭蕉の俳句作品に焦点を当てて、それを紹介していきます。

 

松尾芭蕉とはどのような人物か

「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良(森川許六作)
「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良(森川許六作)/Wikipediaより引用

 

松尾芭蕉の作品にふれる前に、彼が一体どのような人物であったかについてご紹介します。
松尾芭蕉は俳諧師といって、現在の俳句の源流となる「俳諧(はいかい)」を専門的に携わっている人でした。

 

誕生~宗房と名乗るまで

俳諧師・松尾芭蕉は、武士に準ずる待遇を許された農民の家に、1644年に生まれました。6人兄妹の次男で、幼名を金作といいました。
13歳のときに父を亡くし、兄が家督を継ぎますが、生活はあまりに苦しく、18歳のときに伊賀国上野の侍大将(大将軍の下で一軍を指揮する人物)である藤堂良清の嗣子である良忠に、料理人として仕えることになりました。良忠も俳諧を好み、蝉吟(せんぎん)という俳号を使っていました。
そんな良忠とともに京都にいた北村季吟という文学者のもとで俳諧を学び、その世界に入っていきます。1664年、20歳のときには「佐夜中山集」に2句が掲載されました。この時は「宗房」という俳号を使っていました。

 

初めての句集「貝おほひ」~宗匠になる

宗房(芭蕉)が初めて句集である「貝おほひ」を出したのは29歳の時です。伊賀俳壇のホープとしての地位を築いて、ついに江戸に出ます。31歳のとき、宗房は桃青(とうせい)と俳号を改めます。
1677年、桃青は俳諧師の免許皆伝となり、日本橋に居を移し、副業として神田川分水の工事における帳簿付けのような仕事をしながら、宗匠として文机を持ちました。

 

深川に移る~芭蕉と名乗るまで

1680年、36歳のときに日本橋を出て、隅田川の東岸にある深川というところで隠棲生活を送ります。いろいろな説がありますが、桃青は純粋性のある俳諧を作るべく、世間に背を向けて自然に倣うことを考えていたとされています。
当時の宗匠たちの考えでは、日本橋から去ること=「敗北」を意味するものであったとはいえ、桃青の弟子たちは深川への移転をむしろ歓迎し、大いに師の手助けをしました。この深川時代、句集「むさしぶり」の中で、はじめて「芭蕉」の号が使われました。

 

紀行文「野ざらし紀行」の旅

1684年8月、40歳のときに母が他界したことを受けて、母の墓参を主な目的として伊賀、大和(現在の奈良県)、吉野(奈良県南部)、山城(京都県南部)、美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県西部)などを旅しました。
この旅行は「野ざらし紀行」として世に出ました。芭蕉が江戸にもどったのは、翌1685年の4月のことでした。

 

「おくのほそ道」~死去

1689年、弟子である河合曾良を伴って東北地方に旅に出ます。5ヶ月のもの間、今まで来たところのなかった土地を歩きながら俳諧を詠み、その距離は600里(約2,400km)に及びました。
その後は弟子である向井去来、野沢凡兆の発句・連句集「猿蓑(さるみの)」を監修(1691年)したあと、1694年4月に東北地方の旅の紀行文である「おくのほそ道」の総仕上げに入り、これを完成させます。
そして休む間もなく5月に江戸を発ち、西国の弟子たちに俳諧の「軽み」を伝授するために旅に出ますが、大坂で病気になり、50歳で亡くなりました。

 

松尾芭蕉の俳句の世界

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松尾芭蕉は、俳諧と旅を愛した人間でした。芭蕉の生涯について学んだところで、次はいよいよ彼の作品を7句紹介します。

 

古池や蛙(かはづ)飛び込む水の音

静けさを破る、古い池の水に蛙が飛び込んだ音。そして辺りは再び静けさに包まれる。
その様子を詠ったこの句は、松尾芭蕉の句の中で恐らく最も有名なものの一つに挙げられます。
和歌の世界では、蛙が「鳴く」ことに注意が向くものでしたが、芭蕉は蛙が「飛ぶ」姿に着目しました。有名なこの「古池や」の句は、まさに俳諧をはじめとする和歌の常識を打ち破るような画期的な句だったのです。

 

秋深き隣は何をする人ぞ

秋が深くなると、寂しさとともに人恋しくなる。隣家の人は何をしているのだろうか。
秋の物寂しさを詠ったこの句は、芭蕉の最晩年の句で、起きて作られた最後の句です。
物寂しさ、人恋しさという重くなりがちなテーマも、芭蕉の手にかかればこの通り、寂しさを感じさせながらも重苦しくはなりません。芭蕉の最高傑作のひとつに数えられることも多い作品です。

 

石山の石より白し秋の風

石山寺の石はよりも白くさらされている岩。それに秋の風が吹いている。
「し」の音が続き、どことなくリズミカルな句です。
日本語の響きを十二分に生かしているように思います。芭蕉が日本史上最高の俳諧師、とよばれるゆえんは、こういうところにもあるのでしょう。

 

おもしろや今年の春も旅の空

おもしろいことだ。今年の春も旅路の空の下にいる。
旅を愛した松尾芭蕉が、旅をすることの喜びを素直に表した作品です。芭蕉は人生を旅と捉えていました。それは、「おくのほそ道」の冒頭にある「月日はは百代の過客である(月日は永遠の旅人である)」という言葉からも分かります。芭蕉にとって旅をすることこそが生きること。乗り物といえば人力車くらいの当時は大変なことであった旅を「おもしろい」と書ききる松尾芭蕉の哲学をうかがい知ることができるような作品です。

 

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

ここはかつて功名を争った兵たち(義経やその主従、奥州藤原氏)がいたところである。彼らの夢の跡もなく、今はただ夏草が生い茂っているばかりである。
「おくのほそ道」に収められたこの作品は、現在の岩手県平泉町で作られた作品です。ここは奥州合戦の激戦地のうちのひとつで、源義経の最期の地です。「おくのほそ道」に収められた芭蕉の句の中では、かなり有名な作品のひとつです。

 

荒海や佐渡によこたふ天の河

荒れた海の向こうに見える佐渡島。見上げれば、島に向かって天の川が横たわっている。
「おくのほそ道」に収められた作品です。芭蕉の句の中でも特に情景描写が巧みで、美しい作品です。
佐渡島はかつて流刑地として、島流しになった罪びとたちが流された場所です。この地で一生を終えた罪びとにすら思いをはせる芭蕉の清らかな心をも、この句からうかがい知ることが出来ます。

 

旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻(めぐ)る

旅の途中に病気になったが、夢の中では、私は冬の枯れ野をかけめぐっている。
最後に紹介するこの句は、大坂において病に倒れた松尾芭蕉が、生前最後に詠んだ句です(辞世の句ではない)。
旅に生きた俳諧師であった芭蕉は、九州地方にも足を延ばす予定であったと言われています。その旅を求める気持ちが、素直に表れている作品です。

 

<まとめ>「軽み」~松尾芭蕉の俳諧理念~

芭蕉翁生家(伊賀市)
芭蕉翁生家(伊賀市)/Wikipediaより引用

いかがでしたか。松尾芭蕉の俳諧の魅力はなんといっても、そのさらりとした表現です。日常の何気ない風景などを題材にして、その中に新しい美を見いだし、それを平淡に表現する「軽(かろ)み」という理念のなせる業だったのです。
ごちゃごちゃとした日常が広がる現代の社会生活に疲れた時は、松尾芭蕉の「軽み」のある俳諧を読んでみませんか。

 

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