真珠湾攻撃をわかりやすく解説 ~太平洋戦争の契機について知る ~

先日行われた日米首脳会談の冒頭でトランプ大統領が「真珠湾を忘れない」と発言したと報道され物議をかもしました。対日交渉で圧力をかける目的とも言われますが、そもそも真珠湾攻撃とはどういうものだったのでしょうか。

 

真珠湾攻撃とは

炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機

炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機/wikipediaより引用

真珠湾攻撃は太平洋戦争開戦時の一大局面です。日本時間1941年12月8日未明、当時の日本海軍が航空戦力を主体としてハワイ、オアフ島の真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲しました。この攻撃によりアメリカ軍は甚大な被害をこうむり、日米は太平洋戦争に突入していくことになります。

 

攻撃までの動き

大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図

大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図/wikipediaより引用

歴史的に大きな転換点である真珠湾攻撃ですが、そこに至るまで何があったのかを順に振り返ってみます。

 

当時の日本の立場

真珠湾攻撃が行われる数年前、アメリカは孤立主義の立場から日中紛争への介入に対しては消極的な立場をとっていました。しかし、アメリカのアジアにおける権益が侵害されるに伴い、対日経済制裁論が高まりを見せてきます。

そして当時の近衛内閣が発表した「東亜新秩序声明」に強く反発したアメリカが日本への経済制裁に踏み切り、同盟国のイギリス、オランダなどが同調します。ABCD、すなわちAmerica(アメリカ)、Britain(イギリス)、China(中国)、Dutch(オランダ)による経済封鎖により、アジア各国に軍事的進出をしていた日本は資源不足、特に石油不足に陥りました。

追い詰められた日本では対米主戦論が台頭することとなったのです。

 

なぜ真珠湾だったのか

オアフ島にある真珠湾は複数の入り江が存在するなど軍港として優れた特徴を持っています。アメリカのハワイ併合以降、アメリカ海軍は真珠湾周辺の基地化を進めました。

平らな地形に起因する艦砲射撃からの弱さをカバーするために各所に強力な砲台を設けるなど、オアフ島は要塞と化していたのです。太平洋の中央に位置するハワイに置かれた強固な要塞、それが日本海軍にとっては大きな脅威となっていました。

強固な要塞と思われていた真珠湾ですが、唯一航空攻撃に対する弱さが指摘されていました。しかし、日本海軍の脅威を甘く見ていたこと、偵察機の不足などの理由で空からの攻撃に対する備えが強化されることはありませんでした。

日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六は、物量で圧倒的に勝るアメリカ軍を下すにはかなり思い切った作戦が必要で、開戦早々にハワイのアメリカ海軍主力を一気に叩く必要があると考えていました。

立案された作戦に海軍内部では反対の声もありましたが、山本五十六の強い決意に押され、作戦は承認されることとなったのです。

 

「ニイタカヤマノボレ一二〇八」

11月初旬に12月8日を開戦予定日とする国策が御前承認され、真珠湾攻撃の準備が進められていました。11月26日に日本海軍の6隻の空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、瑞鶴、翔鶴を中心とする南雲機動部隊が真珠湾に向けて単冠湾を出港しました。

そして12月2日夕刻、大本営から機動部隊に向け、暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発報されたのです。この暗号は攻撃日を12月8日とするという意味でした。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本統治下にあった台湾にある山の名前です。

 

真珠湾攻撃当日の動き

海軍機を満載して航行する「蒼龍」

海軍機を満載して航行する「蒼龍」/wikipediaより引用

ついに攻撃当日を迎えるわけですが、現地真珠湾での軍事的な個々の出来事に加え、日米両政府の動きなど、当日の事態の推移は複雑です。

攻撃自体の被害規模の大きさだけでなく、日本の対米宣戦布告の遅れという出来事がその後の歴史に大きく影響を与えることになります。ここからはその日の各所での動きを時間を追ってみていきます。

 

真珠湾攻撃開始

日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ現地時間12月7日午前6時。当時のハワイ時間は日本時間から見て19時間30分遅れ)、第1波の攻撃隊が各空母を発艦します。

攻撃隊が目標に近づいた、ハワイ時間7時49分に全軍突撃の命令電文が発報され、7時52分には恐らく日本で最も有名な暗号電文「トラ・トラ・トラ」が第1波の航空攻撃隊長から機動部隊の旗艦赤城に向け発報されました。

電文の意味は「我奇襲に成功セリ」となりますが、ここでいう「奇襲成功」は攻撃全体が成功裏に終了したという意味ではありません。アメリカ軍に発見され、防御のための攻撃を受けることなく、すなわち奇襲という形で攻撃を開始することが可能である、という意味です。従って、最初の攻撃が着弾する前に送信されています。

直後の7時55分に急降下爆撃による飛行場への爆撃が始まり、雷撃機による艦船への魚雷攻撃、爆撃と続いていきます。日本軍による奇襲を全く想定していなかったアメリカ軍基地は大混乱に陥り、湾内に停泊中であった艦船、飛行場、格納庫の航空機などに甚大な被害が発生しました。

日本軍の航空攻撃能力はアメリカ軍から甘く見られていましたが、攻撃の精度は非常に高く、アメリカ軍兵士たちを驚かせたそうです。

 

第2波攻撃から攻撃終了へ

ハワイ時間8時54分に第2波攻撃隊に全軍突撃の命令が下ります。アメリカ軍は第1波攻撃の終盤でやや火力の弱まった時間を利用して反撃の体制を整えつつありました。

第2波攻撃隊は激しい対空砲火にさらされ、また第1波攻撃による炎上で黒煙が多く立ち上っていたため、攻撃の精度はいくぶん落ちることとなったのです。

日本海軍航空機による攻撃隊が2波に分けられた理由は、当時の日本の空母が艦載機の全体を一斉に発艦する能力がなかったためとされています。第2波攻撃隊は第1波攻撃隊に比べ多くの喪失機、損傷機を出して母艦に向かいます。

なお、航空攻撃と並行して特殊潜航艇による湾内艦船への魚雷攻撃も行われました。湾内への潜入は成功し、一部は魚雷攻撃を実行したとされています。

 

宣戦布告の遅れ

真珠湾では以上のような形で事態が進んでいったのですが、ここで問題になるのが日本の対米宣戦布告がいつなされたかということです。

日本の外務省から駐米日本大使館に向かって宣戦布告の文書とされる「帝国政府ノ対米通牒覚書」が送信し始められたのは日本時間12月7日未明(アメリカ東部時間12月6日昼頃)からでした。

全暗号電文はアメリカ東部時間12月7日7時(日本時間21時)頃までに現地大使館に到着し、アメリカ東部時間12月7日12時30分(日本時間12月8日2時30分)頃にようやく全暗号電文の解読作業が終了したのです。

電文中で指定されている文書の手交(日本側からアメリカ側への手渡し)指定時刻はアメリカ東部時間12月7日13時(ハワイ時間12月7日7時30分/日本時間12月8日3時)となっています。

「帝国政府ノ対米通牒覚書」が日本外務省の指定通りの時刻にアメリカ側に手交されていれば、攻撃が開始される30分前には宣戦布告が行われていたということになります。

しかし、実際に文書が手交されたのはアメリカ東部時間14時20分(ハワイ時間12月7日8時50分/日本時間12月8日4時20分)でした。日本軍機による最初の爆弾が着弾してから約1時間後のことだったのです。

これについては戦後に日本の外務省が調査委員会で調査を行いましたが結果は公表されておらず、現地大使館の単純な失態であったのか、本国外務省に原因があるのかも明らかになっていません。

 

真珠湾攻撃が引き起こしたもの

こうして軍事的には日本の攻撃の成功に終わり、外交的には宣戦布告なき奇襲となった真珠湾攻撃ですが、様々な影響が日米両国だけにとどまらず広がっています。真珠湾攻撃後、世界がどう動いていったのかを見ていきます。

 

アメリカ側の損失

アメリカ海軍の艦船の多くが被害を受けています。最も大型で主力戦闘艦となる戦艦は4隻が沈没、4隻に損傷を受けました。その他の中小艦艇にも沈没、損傷艦が出ています。

また航空基地が攻撃されたことで多くの航空機も失われています。多くの犠牲者も出ました。軍人は約3,700人。

日本軍機は機器の不具合による1発の誤爆を除いて基地以外への攻撃は行いませんでしたが、基地勤務者を中心に民間人にも犠牲者が出ました。他にも日本軍機への対空砲火の破片等が落ちた影響で市街地にも民間人犠牲者が出ています。

沈没、損傷したアメリカ軍戦艦のうち2隻(アリゾナ、オクラホマ)は回復不能でしたが、他の艦はその後引き揚げ修理されています。また、その後の戦局において重要戦力となる空母は真珠湾を離れて輸送任務中であったり、配備が真珠湾から遠く離れた地域であったりしたため、全艦難を逃れています。

日本側が宣戦布告のないまま攻撃を行ったことにより、アメリカでの真珠湾攻撃の認識は「卑劣なだまし討ち」となりました。アメリカ全体が一気に対日戦争の意欲に燃え上がっていきます。

 

日本側の損失

攻撃に参加した日本海軍機のうち54機が未帰還となりました。アメリカ軍の対空砲火により損傷を受け帰還不可能と判断した機が体当たり攻撃をしかけたものも含まれます。

また、同時に攻撃に参加した特殊潜航艇は全艦が撃沈、座礁により未帰還となっています。潜航艇の乗組員のうち捕虜となった1名を除く9名は「九軍神」としてあがめられることとなりました。

 

地球規模の大戦へ

真珠湾攻撃の翌日、アメリカ東部時間12月8日12時29分、アメリカ大統領ルーズベルトが「汚名演説」と呼ばれる演説をアメリカ議会で行いました。

この直後、アメリカ側も日本に対して宣戦布告します。12月10日にはドイツ、イタリアがアメリカに対して宣戦布告し、第2次世界大戦はヨーロッパから地球規模の大戦へと拡大していきます。

 

戦後の評価

米国立暗号博物館に展示されている捕獲部品

米国立暗号博物館に展示されているパープル暗号機の部品/wikipediaより引用

日米開戦の発端となったこの攻撃を計画、遂行したのは日本ですが、真珠湾攻撃について良く語られるある見方が存在します。

 

繰り返し議論される陰謀論

真珠湾攻撃はルーズベルト大統領がその実施を事前に知っていたのに、わざと放置したのではないか、というのが真珠湾攻撃の陰謀論です。

陰謀論の根拠となる事柄は多数挙げられています。当時の日本外務省の暗号(パープル暗号)はアメリカによりほぼ解読されており、「対米覚書」の手交前にルーズベルト大統領がその内容を知っていたことや、その後の海軍力の主力となる空母が全艦被害を受けていないことなどが主に取り上げられます。

ルーズベルト大統領が対日開戦の口実として真珠湾攻撃をわざと放置し、開戦の機運を高めるために利用したのではないか、というのです。この問題については繰り返し議論が起こっていますが、結論は出ていません。

 

現代史の転換点 真珠湾攻撃

日本への宣戦布告の署名を行うフランクリン・ルーズベルト

日本への宣戦布告の署名を行うフランクリン・ルーズベルト/wikipediaより引用

太平洋戦争のきっかけとして語られる真珠湾攻撃ですが、同時期に日本陸軍のイギリス領マレー半島への奇襲上陸作戦もあり、これがなければ日本が泥沼の戦争に入っていくことが無かったということはもちろんできません。

しかし、現代史の大きな転換点として記憶にとどめておくことは意味があることでしょう。

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