ジョン・F・ケネディの生涯について ~悲劇の第35代アメリカ大統領~

アメリカの若いリーダーとして大きな期待を受けながらも、1963年に暗殺された悲劇のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディ。この記事では、彼の生涯についてご紹介していきます。

 

ケネディ大統領の生涯について

1956年民主党全国大会でアドレー・スティーブンソンの指名推薦演説をするケネディ。
1956年民主党全国大会でアドレー・スティーブンソンの指名推薦演説をするケネディ。/Wikipediaより引用
まずは、現在でも高い人気を誇るケネディ大統領の生い立ちからご紹介します。彼はいかにしてアメリカの大統領にまで上り詰めたのか、学んでいきましょう。

 

出生~ハーバード大学入学

ジョン・フィッツジェラルド・”ジャック”・ケネディは、1917年5月29日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のブルックラインで生まれました。父ジョセフ・パトリック・シニアは、アメリカの政治家にして実業家であり、巨大な資産を誇るアメリカ民主党の有力な政治家でした。
幼いころから病弱であり、いくつもの原因の分からない病気にかかり、苦しみました。3歳の時にはしょうこう熱にかかり、生死の境をさまよいます。その後も風邪のような全身のだるさにしばしば悩まされるようになります。
1930年、カトリックの寄宿学校であるカンタベリー・スクールに入学しますが、体調不良のために翌年には兄ジョセフ・パトリック・ジュニア(通称”ジョー”)が在籍していたチョート校に転校します。
成績優秀でスポーツも万能だった兄ジョーに対するコンプレックスは強まり、学校での生活は鬱屈としたものとなり、反抗的な態度をとって放校処分になりかけることもありました。卒業の前の年には、過敏性腸症候群あるいは過敏性大腸炎によってふたたび体調を崩してしまいます。
1935年にチョート校を卒業して、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学しますが、体調不良により帰国し、プリンストン大学に入学しますが、依然体調がすぐれず6週間で退学し、1936年にハーバード大学に入学することになります。ようやく健康を取り戻したケネディは、水泳やヨットなどに興じながら勉強に励みました。

 

アメリカ海軍時代のケネディ

第二次世界大戦が1939年9月に始まった後の1941年の春、ケネディは海軍を受験しますが、健康状態の悪さがネックとなってしまい、不合格となります。
しかし、父ジョセフの尽力によって海軍士官養成コースに入ることが出来ました。同年海軍士官に任官されますが、父の配慮によって戦地に赴く事のないワシントンの海軍情報局に配属となりました(1942年7月に海上勤務に転勤となる)。
1943年8月、ケネディの乗った魚雷艇が、日本軍の駆逐艦「天霧」に体当たりされる事故が起こりました。ケネディは傷ついた同胞を命綱で結び付けて泳ぎ、生還しました。この勇気ある行動は、アメリカで英雄視されました。
1944年に体調不良により本国に帰還、背中の痛みとマラリア感染により1945年3月1日に名誉除隊となりました。

 

政治の世界へ~1956年民主党全国大会

ケネディの兄であるジョーは、太平洋戦争中に戦死したため、父ジョセフは、次男であるケネディに大きい期待をかけるようになります。1946年に民主党の予備選挙に立候補した後に、共和党候補との中間選挙に立候補してこれに勝利し、弱冠29歳の若さで下院議員となります。
下院議員を3期務めた後、1952年、マサチューセッツ州から上院議員選挙に立候補したケネディは、父からの選挙資金の手助けもあり、現職の共和党議員を破って上院議員となりました。
翌年にはジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚します(彼女との間に生まれた3人の子供たちのうち、長女キャロラインと長男ジョン・フィッツジェラルド・ジュニアは政治家となり、キャロラインはオバマ政権下で駐日アメリカ合衆国大使となり、話題を集めました)。
その後はアジソン病という難病に悩まされますが、これと闘いながら1956年の民主党全国大会を迎えます。副大統領候補指名選挙においてキーフォーヴァー候補に敗れはしましたが、潔く風格のある敗北宣言が党内の注目を浴びることとなりました。

 

1960年大統領選、大統領就任

4年前の民主党全国大会で強い印象を党内に残したケネディは、1960年の民主党全国大会における大統領候補指名選挙にリンドン・ジョンソン(後に第36代アメリカ大統領となる)ら有力な政治家を抑えて勝利し、民主党の大統領候補になります。
大統領選では共和党のリチャード・ニクソンと、テレビ討論の場で激しい論戦を繰り広げます。一説にはこのテレビ討論の際、濃い色のスーツを着たケネディは白黒テレビでは力強く見え、対するニクソンは淡い色のスーツを着ていたことで印象が弱く見えたため、テレビ討論を見た人たちから好印象を勝ち取ることが出来ました。
1960年の大統領選は最後までニクソンとの激しい接戦となりましたが、これに競り勝ち、第35代アメリカ合衆国の大統領に就任します。就任当時43歳という年齢は、選挙によって選ばれたアメリカ大統領としては最も若い年齢であり、カトリック教徒が大統領になるのも初めてのことでした。

 

大統領時代のケネディ ~国内政策~

大統領時代、ケネディは国内政策においては人種差別問題に真剣に取り組んだことが有名です。黒人の識字率が悪いことなどを口実にして選挙権を与えない差別が行われていましたが、ケネディはこれに反対して新しい公民権法を成立させようと尽力しました。
この新しい公民権法はケネディ暗殺の翌年、1964年に制定されました。
また宇宙開発においてソ連に後れを取っていたアメリカを憂慮して「アポロ計画」を宣言。「1960年代中に人間を月に送り込んで帰還させる」としました。アメリカはこの宣言がなされてから8年後の1969年に、これを実現させています。

 

大統領時代のケネディ ~キューバ危機の功績~

外交面では、ソ連との冷戦が激化の一途をたどる時代に、ケネディは大統領を務めていました。
1962年10月に、ソ連がキューバに核ミサイルを持ち込んだことで、キューバ危機と言われる第三次世界大戦勃発の最大の危機が訪れます。
1962年10月22日に、ケネディはキューバの周辺海域を海洋封鎖すること、攻撃のためのミサイルは何の利益ももたらさない、ということをソ連とキューバに伝える演説を行いました。海洋封鎖は2日後に実行されました。
ソ連は、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き換えにキューバのミサイルを撤去することを表明し、何とかキューバ危機は収束しました。
キューバ危機におけるケネディの一連の対応は、失敗の多かった外交施策の中では全面的に成功をおさめ、後の時代まで称賛されるものとなりました。

 

「ダラスの悲劇」―暗殺

大統領在任中の1963年の11月22日、午後12時30分。大統領選挙の選挙キャンペーンとしてテキサス州ダラスを遊説していたケネディは、何者かによってライフル銃で狙撃されてしまいます。
オープンカーに乗ってデイリープラザという通りにさしかかったとき、テキサス教科書倉庫ビルから3発の銃弾が撃たれ、そのうちの2発がケネディ大統領の命を奪いました。
この事件を受けて、ケネディ内閣で副大統領を務めていたリンドン・ジョンソンが第36代アメリカ合衆国大統領に昇格しました。
11月25日に行われた国葬には世界各国の要人が参列しました。日本からは、当時の内閣総理大臣である池田勇人と、外相の大平正芳が参列しました。

 

ケネディ大統領にまつわるエピソード

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大統領となったケネディ大統領には、病気と女性問題という二つの問題が付きまとっていました。最後に、それらの問題について少しふれておきましょう。

 

ケネディ大統領の持病

大統領としての在任期間は短かったですが、アメリカの若きリーダーとして、鮮烈な印象を残したケネディですが、実際は多くの病気に苦しんでいました。
なかでも下院議員時代に発病したアジソン病は、大統領を目指すケネディを苦しめました。副腎機能不全によって食欲不振、体重の減少、疲れやすさ、腹痛などの症状が出て、循環器系が弱っていってしまう病気で、日本においては難病に指定されている病気です。
ケネディは、アジソン病の薬であるコーチゾン剤をはじめ、さまざまな薬を使いながら大統領としての激務を遂行していました。

 

スキャンダル ~ケネディ大統領の不倫問題~

ケネディは、議員時代から不倫が問題視されていました。
そのなかでも、女優のマリリン・モンローとの不倫騒動は大きな問題になりました。ケネディ大統領はマフィアの取り締まりを強化しようとしていたのに、マフィアとつながりの深い歌手のフランク・シナトラを介してモンローと知り合ったからです。
さらにはマフィアのボスであったジアンカーナという人物がそのことを知っていたことから、フーヴァーFBI長官がケネディの実弟であるロバート・ケネディ司法長官に対して警告を与えたことでケネディ大統領とモンローとの関係は終わりを迎えました。
マディソン・スクエア・ガーデンというエンターテイメント会場で行われた、ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティーの際に、モンローはケネディに向けての「ハッピーバースデイ」を歌ったということは有名です。

 

<まとめ>今もなお愛され続けるケネディ大統領

ウォーレン最高裁長官に宣誓するケネディ政権の各閣僚(1961年1月21日)
ウォーレン最高裁長官に宣誓するケネディ政権の各閣僚(1961年1月21日)/Wikipediaより引用

いかがでしたか。ケネディ大統領は、難病と闘いながらアメリカをけん引した、カリスマ性のある若きリーダーとして、今もなお人気の高い大統領の一人です。
彼の平和的な政治手法は、混迷を極める現在の世界情勢を解決するヒントにもなりうるのではないでしょうか。

 

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