西郷隆盛の一生総まとめ。激動の時代を駆け抜けた西郷どん

平成最後の年の大河ドラマ「西郷どん」でも有名になっている西郷隆盛。歴史の勉強では欠かせない人物ですが、一体どんな人でどんなことをやった人なのでしょうか。今回は今の日本を作った西郷隆盛の一生を見ていきたいと思います。

 

西郷隆盛ってどんな人?

西郷隆盛と聞いて皆さんは一番最初に何を思い出しますか?上野にある銅像でしょうか。それとも歴史上の出来事でしょうか。まず、西郷隆盛がどんな人だったかがわかるエピソードを2つ紹介しましょう。

 

犬好きだった西郷隆盛

西郷隆盛と言えば上野にある西郷隆盛の銅像です。この銅像は浴衣姿の西郷隆盛と犬が散歩をしているところですが、西郷隆盛は犬好きで自宅にたくさんの犬を飼っていました。もともとは西郷隆盛自身のダイエットのために飼い始めたといいますが、宿屋に行けば愛犬用にたくさんの食べ物を持ってこさせ、鰻屋に行くと鰻の蒲焼や鰻丼を与えるというほどの溺愛っぷり。注文した鰻を全部愛犬に食べさせてしまい、自分が食べられなかったなんていうエピソードも残っています。

写真が大嫌い!一枚も残っていない西郷隆盛の写真

西郷隆盛は大の写真嫌いでした。明治天皇が西郷隆盛に写真を所望しても、西郷隆盛はそれを頑なに断り、親友の大久保利通が写真を送ってくると「見苦しいから写真を撮るのはやめなさい」と返事を返した位、写真が嫌いだったようです。教科書などに載っている西郷隆盛の顔は実は肖像画で、その上、本人の顔を見ながら書いたものではありません。肖像画は上半分を西郷従道の顔、下半分を大山巌の顔を参考にして書いたとされています。西郷隆盛が写っているだろうと言われている写真は「フルベッキ群像写真」「13人撮り写真」「スイカ西郷」「大坂造幣寮前写真」の4枚ですが、どれも確実に西郷隆盛が写っている写真とは言えません。

いかがだったでしょうか。西郷隆盛に親近感が湧いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。此処から先は西郷隆盛の一生を歴史上のエピソードと共に見ていきましょう。

 

西郷隆盛の一生 ~誕生から1度目の結婚まで~

西郷隆盛は薩摩に生まれてから西南戦争で亡くなるまでの一生を日本という国のために使いました。ではまず西郷隆盛の誕生から、伊集院須賀との一度目の結婚までを見ていきましょう。

 

西郷隆盛誕生!幼名は小吉

西郷隆盛は1828年1月23日に西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれます。西郷隆盛は一生の中で何度も改名しましたが、最後の名前が父親と同名なのは王政復古の章典で位階を授かる際に友人が父親の名前を間違えて登録してしまったためと言われています。父親の身分は御小姓与という下から2番目の身分でした。

 

喧嘩を仲裁して怪我を負い、武術を諦める

薩摩藩は郷中教育という独自の教育を行っていました。郷中というのは今で言う町内会のような自治会のことを言います。郷中教育では青年者を稚児と二才という2つに分け、先輩が後輩に勉強や武芸などを教えていました。西郷隆盛と大久保利通は同じ郷中で育ち、二人の後輩には大山巌も名を連ねています。1839年、西郷隆盛が郷中の仲間たちと月例のお宮参りに向かった際、友人と他の郷中の人間が喧嘩をはじめてしまいました。西郷隆盛は仲裁に入りましたが、その際に右肘の神経を切断してしまいます。怪我がもとで高熱にうなされながらも一命をとりとめた西郷隆盛ですが、怪我のために右肘を完全に曲げることができなくなってしまい、刀を持つことができなくなった西郷隆盛は、武術を諦め、学問を究めることにしたのです。

 

お由羅騒動にて赤山靭負が切腹。島津斉彬が薩摩藩主になる

1850年、お由羅騒動が起こります。お由羅騒動というのは、薩摩藩10代目島津斉興の後継者争いのことを言います。本来ならば正室が生んだ嫡男、島津斉彬が藩主の第一候補になるのですが、藩主である島津斉興と側室のお由羅の方、側近などが斉彬を後継者として認めず、お由羅の方の子供である島津久光を後継者にしようとしたのです。兄である島津斉彬の廃嫡を目論むお由羅の方に対し、島津斉彬擁立派は父である島津斉興を失脚させるため、島津斉興が信頼していた家臣である調所広郷たちが幕府に隠れて行っていた琉球との密貿易を幕府の大老阿部正弘へと密告しました。その後、調所広郷は急死。しかし島津斉興は藩主の座を渡さないばかりか、島津斉彬擁立派の人間を憎むようになりました。そんなとき、島津斉彬擁立派が島津久光とお由羅の方を暗殺しようとしているという情報が漏洩します。その結果、島津斉興は首謀者13人を切腹、約50人を遠島、または謹慎処分としました。赤山靭負もこの際に切腹を命じられ、1850年3月4日に切腹をしました。西郷隆盛の父はこの赤山靭負の家来で、血の付いた肌着を持ち帰って西郷隆盛に赤山靭負の最後を語ったそうです。そして、1851年、一連のお由羅騒動を経て、島津斉彬が薩摩藩主になりました。

 

伊集院須賀と一度目の結婚をする

1852年、西郷隆盛は伊集院須賀と結婚をします。しかし、西郷隆盛は7月に祖父を、9月に父を、11月に母を亡くし、一人で5人の弟妹と祖母、妻の生活を支えなくてはならなくなりました。

この年の12月にはペリー提督が浦賀に来航。翌年の1853年には謹慎処分になっていた大久保利通が謹慎を解かれ、その後に御蔵役へと就任します。

 

参勤交代のために江戸へ。その結果、須賀と離婚することに

1854年、西郷隆盛は島津斉彬に認められ、参勤交代に同行することになります。4月には御庭方役になり、江戸で生活をすることに。一方で鹿児島に置いていかれる状態になった須賀は西郷隆盛の6人の家族を一人で支えていました。そんな須賀を見かねた伊集院家は須賀を引き取ることを決め、西郷隆盛と須賀は離婚をすることになります。円満な離婚だったようで、その後も両家の関係は良好だったそうです。

 

西郷隆盛が奄美大島に行くことになった原因、安政の大獄とは

黒船来航

黒船来航/ Wikipediaより引用

西郷隆盛が奄美大島に居たことがあるということは有名ですが、その原因となった安政の大獄は一体どんなものだったのでしょうか。実は安政の大獄が起こる事になったのは3つの原因がありました。1つ目は「日米修好通商条約」2つ目は「戊午の密勅」3つ目は「将軍継嗣問題」で、この3つの原因があったために井伊直弼は安政の大獄を行ったとされています。

 

井伊直弼が大老へ。そして安政の大獄が始まるその1

1858年、ペリー率いる黒船が来航し、日本が混乱状態の中、井伊直弼が大老へと就任します。当時、日本はアメリカの領事ハリスから、日米修好通商条約の締結を迫られていました。井伊直弼は尊王思想の人々に配慮をして、天皇の勅命を待ってからアメリカと条約を締結するべきだと考えていましたが、幕府の開国派の役人はそうは考えていませんでした。そんな中、ハリスと直接交渉していた下田奉行の井上直清が、井伊直弼にやむを得ない場合には調印をしていいかと尋ねます。井伊直弼はやむを得ない場合にはしょうがないが、できる限り引き伸ばすようにと指示を出しました。しかし、この言葉を都合のいいように解釈した井上直清は日米修好通商条約に調印してしまいました。この日米修好通商条約はアメリカの利益を重視した不平等条約の上、天皇の許しを得ないまま開国したということで井伊直弼は尊王派や攘夷派(開国反対派)に抗議を受けることになるのです。

 

井伊直弼が大老へ。そして安政の大獄が始まるその2

安政の大獄2つ目の原因である「戊午の密勅」というのはどういうものなのでしょうか。戊午の密勅とは、1858年9月14日に孝明天皇が水戸藩へと出した勅書のことで、正式な手続きを踏まない非公式の勅書です。

・朝廷の許しもなく日米修好通商条約に調印したことに対してどう申し開きをするのか。

・御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体を推進し、幕府は攘夷(武力で諸外国を打ち払うという考え)推進の政治改革を行うこと。

・上記の2つの内容を諸藩に伝えること。

この内容の勅書が幕府ではなく水戸藩へと直接渡されたことにより、朝廷から無視をされた形になった幕府は、権威の失墜と、それによる諸藩の反乱を恐れ、戊午の密勅に関わった公家や有力藩士を処罰しました。

 

井伊直弼が大老へ。そして安政の大獄が始まるその3

安政の大獄3つ目の原因は将軍継嗣問題です。1853年に12代将軍だった徳川家慶が急死し、13代目の将軍になった徳川家定は病弱で子供どころかいつ亡くなってもおかしくない状態。将軍の周りは14代目に誰を据えるかで優秀だと評判だった一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す一橋派と、血統に重きをおいて徳川慶福(後の徳川家茂)を推す南紀派という2つの勢力に分かれていました。一橋派には一橋慶喜の父親だった徳川斉昭や島津斉彬、阿部正弘らがおり、その中には西郷隆盛と京都清水寺成就院住職、月照もいました。しかし、島津斉彬と阿部正弘が亡くなったため、南紀派が勝利をおさめることになりました。

安政の大獄では、井伊直弼に逆らったとされる人間が100人以上処罰されたと言われています。そして井伊直弼の処罰対象者のリストには西郷隆盛の名前もあったのです。西郷隆盛は京都清水寺成就院の僧であった月照と共に薩摩藩へと逃れますが、薩摩藩は月照を匿うことを拒否し、西郷隆盛に日向送りという名の処分をを命じたのです。西郷隆盛は月照を見殺しにすることが出来ずに月照と共に海に身を投げますが、水死したのは月照だけで、西郷隆盛は一命を取り留めるのでした。

 

西郷隆盛の一生 ~奄美大島での生活と薩摩への帰還~

安政の大獄により終われる味となった西郷隆盛。彼は井伊直弼から逃れるため奄美大島での潜伏生活をおくることになります。西郷隆盛の奄美大島での生活は一体どんなものだったのでしょうか。

 

幕府の手から逃れるために奄美大島へ

薩摩藩によって水死と届けを出された西郷隆盛は、菊池源吾と名前を変え、奄美大島で潜伏生活をおくることになりました。西郷隆盛にとって奄美大島の生活は良いものではなかったようで、大久保利通に送った手紙には本土と違う気候についてや島民に対する愚痴が書かれていたようです。西郷隆盛自身も大木相手に相撲をとったり、木刀を振り回したりと島民から見れば奇行にも見える行動をしていたため、大和のフリムン(狂人)と呼ばれていました。それでも1年経った頃には西郷隆盛が島の子供たちに学問を教えるなど島にも馴染んで言ったようです。

 

島妻愛加那と結婚する

やっと西郷隆盛が島に馴染んだ頃、島妻(あんご)を娶ってはどうかと言う話が持ち上がります。島妻というのは薩摩藩の藩法で、薩摩に本妻が居ても奄美にいる間だけの妻を娶ることができるというものでした。島妻には以下の決まり事がありました。

・島妻は薩摩に連れ帰ることは出来ない。

・島妻との間に生まれた子供は薩摩に連れていき教育を受けさせる事ができる。

・島妻との間に生まれた子供が男子だった場合、郷士(武士と同等の階級)とすることができる。

・扶持米(ふちまい)をもらうことができる。

黒糖地獄というほど貧しく辛い生活をしていた島民にとっては、扶持米という形でお米を支給されるなど、島妻は魅力的な立場でもありました。

1859年、西郷隆盛は奄美大島龍郷の有力者の娘だった於戸間金(おとまがね)という女性を娶ります。於戸間金は西郷隆盛と結婚したときに愛加那と名前を変えました。結婚後、西郷隆盛は周囲が目のやり場に困るほど愛加那を愛したといいます。

 

菊次郎誕生

1861年、西郷隆盛と愛加那の間に菊次郎が生まれます。西郷隆盛にとっては長男に当たりますが、島妻の子と言うことで名前は菊次郎とつけられたと言われています。

桜田門外の変にて井伊直弼が暗殺される

1860年3月24日、江戸城に登城しようとした井伊直弼は、桜田門の前で水戸浪士17名、薩摩浪士1名に襲われ、首をはねられました。

 

愛加那と別れ、薩摩に戻る

1861年11月、西郷隆盛は薩摩藩からの召喚状を受けとります。西郷隆盛は愛加那たちの生活が成り立つように新居を構え、世話になった人への挨拶を済ませると、1862年1月14日に愛加那と菊次郎、当時はまだ生まれていなかった菊草を残して薩摩へと戻るため奄美大島を出発します。奄美大島から口永良部島を通り、西郷隆盛は2月12日に鹿児島へと到着しました。2月15日には、生きていることを幕府に知られることのないように名前を西郷三助から大島三右衛門に改名し、島津久光のもとに召されます。

 

西郷隆盛が流刑になるほど島津久光から怒りを買ったわけ

西郷隆盛が徳之島へ流刑になる原因になったのが寺田屋事件です。寺田屋事件というと坂本龍馬の方を思い出す方が多いと思いますが坂本龍馬の事件の前に同名の事件が起こっていたのです。この事件は寺田屋騒動とも呼ばれており、島津久光と有馬新七率いる精忠組(過激派志士)による薩摩藩内の争いでした。

 

西郷隆盛、島津久光の怒りを買う

桜田門外の変が起こり、幕府の権威が失墜したことで、次の幕府の実権を握ろうと各藩がしのぎを削る中、島津久光は公武合体を足がかりにして自分が幕府の雄藩になろうと考えます。安政の大獄のせいで水戸藩は力を失い、長州藩は過激派が御所を襲撃。会津藩も没落してしまっていたため、比較的ダメージを受けるような事件がなかった薩摩藩が他の藩より一歩リードしていると考えたのです。上京して政局をリードしよう。そう考えた島津久光でしたが、それを止めたのは西郷隆盛でした。

「御前には恐れながら地ゴロ」(殿様なので言いにくいですが、あなたは田舎者です)

西郷隆盛は島津久光にこう言い放ったといいます。当然のことながら西郷隆盛は島津久光の怒りを買うことになりました。

 

寺田屋事件 ~寺田屋事件の背景~

お由羅騒動では家督争いをした島津斉彬と久光ですが、兄弟の仲は悪くなかったようです。久光は斉彬を尊敬しており、斉彬が進めようとしていた公武合体を支持していました。上でも書いた通り幕府の雄藩になるため、今こそ公武合体を進めるべきだと久光は考えましたが、斉彬が公武合体を進めようとしていたのは10年近く前のことで、久光の時代には武士たちの間に尊皇のために倒幕をしようという考えが広まっていました。そんな中、島津久光は兵を率いて上京します。

 

寺田屋事件 ~そのころ西郷隆盛は~

島津久光は上京をする際に西郷隆盛に同行を求めましたが、西郷隆盛はそれを拒否。しかし大久保利通たちに説得され、西郷隆盛は先発隊として下関へと向かいます。ところが下関へ到着した西郷隆盛を待っていたのは京都過激派志士たちが事件を起こそうとしているという情報でした。西郷隆盛は志士たちを説得するために独断で大阪へと向かいましたが、西郷隆盛の行動は海江田信義によって島津久光へと事実と異なる形で伝えられてしまいました。「西郷隆盛が過激派の志士を煽動している。下関待機命令も破った」そう報告を受けた島津久光は激怒。西郷隆盛と村田新八は薩摩へと強制送還されてしまいます。

 

寺田屋事件 ~寺田屋事件の経緯と結末~

1862年5月21日島津久光が兵を率いて上京したことによって、尊皇派の志士たちは幕府が倒幕されるものと考えていました。しかし久光には倒幕をする意思はなく、それどころか朝廷の命令で過激派の志士たちを取り締まり始めたのです。そのため、過激派志士たちは寺田屋へと集結し、関白や所司代の襲撃を計画します。しかしこの襲撃計画は漏洩し、島津久光の耳にも入りました。久光はすぐに家臣を寺田屋に向かわせ計画を中止するよう説得を試みますが失敗。その後も説得を続けましたが最終的に武力での解決に至りました。

 

島津久光の怒りを買い、徳之島へ流刑になる

島津久光の激しい怒りを買った西郷隆盛は、1862年6月6日に大阪から薩摩へと護送される最中に名前を大島吉之助と改名させられ、徳之島へと遠島になりました。風待ちで屋久島に数日間足止めされ、七島灘では漂流し、徳之島に付いたのは出発してから21日後の7月2日でした。

 

徳之島で愛加那と子供二人に会う

8月26日、西郷隆盛が徳之島に来ているという話を聞いた奄美大島の島妻愛加那が、7月2日に生まれたばかりの菊草と菊次郎を連れて徳之島にやってきます。つかの間の再会でしたが、翌日には西郷隆盛は沖永良部島へと更に遠島を申し付けられてしまいます。この再会が西郷隆盛と愛加那の永遠の別れとなりました。

 

沖永良部島へと遠島になる西郷隆盛

沖永良部島の生活は西郷隆盛にとってとても過酷なものでした。壁もない吹きさらしの牢での生活で体調を崩す西郷隆盛。その様子を見ていた牢番の土持政照は代官に相談をした上で自費で座敷牢を作り、西郷隆盛はそのおかげで健康を取り戻しました。

西郷隆盛が鹿児島に戻るきっかけになった生麦事件~八月十八日の政変

1862年、有名な生麦事件が起こります。島津久光の大名行列と馬に乗ったまますれ違おうとしたイギリス人4人を薩摩藩の武士が殺傷したこの事件は、この後に薩英戦争へと発展しました。島津久光があんなに嫌っていた西郷隆盛を呼び戻すきっかけにもなった一連の事件とは一体どういうものだったのでしょうか。

 

生麦事件 ~発端~

1862年8月21日、江戸を出発した島津久光の大名行列が生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差し掛かったところ、イギリス人のウッドソープ・チャールズ・クラーク、ウィリアム・マーシャル、マーガレット・ボローデル、チャールズ・レノックス・リチャードソンの4人が馬に乗ったまま行列とすれ違おうとしました。4人は川崎大師へと観光目的で向かう途中だったと言われています。4人は通訳を連れておらず、言葉が通じなかったため、止めようとする藩士を無視して大名行列を逆上るように馬を進めました。そしてとうとう島津久光の駕籠の真横まで来てしまったのです。激怒した薩摩藩士たちは4人に斬りかかり、リチャードソンは死亡。他の3人も深手を負いました。

 

生麦事件 ~賠償問題その1~

1863年、イギリスは幕府に賠償金10万ポンドと謝罪を、薩摩藩には賠償金2万5千ポンドと犯人を引き渡すように求め、幕府への圧力のために横浜へイギリス、フランス、オランダ、アメリカの艦隊を入港させました。当時日本は安政の五カ国条約という不平等条約をアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと結んでおり、この条約の中には治外法権も含まれていました。そのため、大名行列を乱したリチャードソンらに非があったとしても日本人が手を下したことは許されないことでした。幕府の将軍家後見人だった徳川慶喜は賠償金の支払いを断ってしまいますが、そのせいで諸外国と日本は一触即発の状態になり、再度行われた交渉の結果、老中小笠原長行の独断により賠償金は支払われることになりました。

 

生麦事件 ~賠償問題その2~

8月、鹿児島湾にイギリス軍艦が7隻入港し、薩摩藩に対して賠償金2万5千ポンドと犯人の引き渡しを迫りました。しかし薩摩藩との交渉は決裂。イギリス艦隊が薩摩の船を拿捕するという事件が発生しました。この事件がきっかけとなり、薩摩藩はイギリス艦隊に砲撃。薩英戦争が勃発します。

 

薩英戦争の結末

薩英戦争はイギリスの勝利で幕を閉じましたが、薩摩の被害は鹿児島城下の10分の1を消失と死傷者が19名。対してイギリス側は戦艦が3隻損傷し、死者20名、負傷者53名という痛み分けに近い状態でした。この戦争でイギリスの強さを痛感した薩摩藩は、幕府に2万5千ポンドを立て替えてもらい賠償金を支払います。この後、薩摩藩はイギリスと友好関係を築くことになり、その結果薩摩藩は発展していくのです。

 

このとき京都では…

薩摩が薩英戦争をしているあいだ、島津久光がいない京都では攘夷派が新たな動きを見せていました。長州藩の尊攘激派と呼ばれる志士が穏健派を押さえ込み、公家を抱き込んで朝廷を操り始めたのです。そのため京都は暗殺や天誅が横行するようになり、京都守護職(会津藩)と新選組は武力で治安維持をするという事態になりました。この事態をおさめるため、島津久光や徳川慶喜ら有力諸侯は上洛。同じく会津藩の松平容保率いる京都守護職も上洛しました。そして八月十八日の政変が起こるのです。

 

八月十八日の政変とは

八月十八日の政変とは、尊皇攘夷過激派の長州藩を公武合体派の薩摩藩や会津藩などが京都から追放した事件のことです。当時、攘夷派だった長州藩は外国船砲撃事件を起こすなどして尊皇攘夷を唱えていました。そして、天皇自身に兵を率いて外国を排除させることで尊皇攘夷を実行しようと考えていたのです。危機感を持った公武合体派は中川宮朝彦親王を説得し、長州藩が危険な思想を持っていると孝明天皇を説得してもらうように頼みました。その結果、自ら率先して外国を排除しようとする意思がなかった孝明天皇は、公武合体派の薩摩藩と会津藩と手を組み、長州藩を京都から追放することにしたのです。

 

「八月十八日の政変」決行

1863年8月18日朝4時頃、会津藩、薩摩藩などの兵が御所の9つの門を閉鎖しました。孝明天皇は京都にいる諸藩の藩主に参内を命じ、三条実美を中心とした尊皇攘夷派の公家7名を罷免。長州藩藩主毛利敬親、定広を京都追放処分にしました。この八月十八日の政変は別名「七卿都落ち」とも呼ばれています。

 

政局を握れなかった島津久光 ~西郷隆盛赦免~

邪魔だった長州藩を排除することが出来た島津久光でしたが、予想外の事が起こります。一橋慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らの「一会桑政権」に政権を握られてしまったのです。政治力を制限されてしまった島津久光は1864年、西郷隆盛に赦免召喚することにしました。そして1864年2月22日、西郷隆盛を召喚するため藩船胡蝶丸が沖永良部島へと到着しました。

 

西郷隆盛の一生 ~禁門の変と3度めの結婚~

禁門の変

禁門の変/Wikipediaより引用

1年8ヶ月ぶりに沖永良部島から帰ってきた西郷隆盛ですが、すぐに京都へと呼び出され、島津久光より軍賊約兼諸藩応接係に任命されました。次は西郷隆盛が沖永良部島から戻ってきた後に起こった禁門の変を見ていきたいと思います。

 

長州の尊王攘夷派が禁門の変を起こす ~背景~

禁門の変とは八月十八日の政変で追放された長州藩の尊皇攘夷派が、権力回復と公武合体派を排斥するために起こした事件です。実はこの事件の前に、もう一つ大きな事件が起こっていました。それは「池田屋事件」です。池田屋事件とは、長州藩の過激派志士が「京都を火の海にして、孝明天皇を長州へお連れ(誘拐)しよう」と考え、池田屋に潜伏していた所、その情報を聞いた新選組がそれを阻止するために襲撃した事件です。この池田屋事件がその後の禁門の変へ勢いをつけることとなります。

 

長州の尊王攘夷派が禁門の変を起こす ~経緯~

1864年、長州藩内では尊皇攘夷派の公家の復権と、藩主の冤罪を訴えるため、大軍を率いて京都に乗り込もうという進発論を唱える人が出て来ます。しかし高杉晋作や桂小五郎、周布政之助たちは慎重に事を運ぶべきだと考えていました。そんな中で起こった池田屋事件。その結果長州藩は兵を率いて京都へと向かうことになるのです。

 

長州の尊王攘夷派が禁門の変を起こす ~結果~

1864年8月20日、長州藩は伏見街道で大垣藩と激突。これがきっかけで各所で戦闘が開始されました。蛤御門では、長州藩と会津藩の兵士が激戦を繰り広げ、その後薩摩藩も会津藩の援軍として駆けつけます。この戦いで長州藩は惨敗し、落ち延びる際に長州藩が長州藩屋敷と中立売御門近くの家屋に放った火は京都市街の広範囲を焼きました。これが「どんどん焼け」と呼ばれる大火です。この一連の事件が禁門の変であり、上洛していた西郷隆盛もこの戦いに参加していました。

 

3番目の妻、糸と結婚する

殺伐とした日常の中、1865年に西郷隆盛は3番目の妻である岩山八郎太直温の次女、糸と結婚します。西郷隆盛は当時37歳。結婚相手の糸は21歳で西郷隆盛とは再婚でした。糸は家にいることが少なかった西郷隆盛の留守を守り、実子である寅太郎、午次郎、酉三の他に愛加那の子供である菊次郎と菊草を立派に育て上げました。

 

歴史の大きな転機、薩長同盟

薩長同盟とは薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が口頭で交わした密約のことです。西郷隆盛と木戸孝允が御花畑屋敷にて会談した際の内容を木戸孝允が尺牘(手紙)にして、それを坂本龍馬が証明した朱文字(裏書き)が残っていることで内容が後世へと受け継がれています。この薩長同盟がこの後の歴史を大きく変えるのです。

 

薩長同盟 ~背景~

禁門の変の後、幕府から朝敵と見なされた長州藩は窮地に陥っていました。第一次長州征伐では、藩主・毛利敬親と定広の官位剥奪及び、増田右衛門介、福原越後、国司信濃の3家老の切腹の処分を受け、下関戦争ではイギリス、フランス、オランダ、アメリカに大敗。下関戦争によって外国を武力で退けることは不可能であると考え始めた長州藩は、次第に攘夷から討幕へと方針を変えていきます。しかし討幕のために軍備を増強しようとしても外国から兵器を購入することを幕府から禁じられ、更に1865年9月21日に朝廷が幕府に長州再征伐の勅命を下したことで第二次長州征伐が起こる可能性も出てきてしまいます。一方、薩摩藩の方も長州藩が討伐されたら次は自分たちが討伐されるのではないかという危機感から討幕を考え始めます。

 

薩長同盟 ~経緯~

薩摩藩と長州藩が倒幕を考えている。それを知った坂本龍馬は薩摩藩と長州藩を引き合わせようと考えました。武器を薩摩藩が調達し、長州藩へと転売することで長州藩は武器を手に入れる。そして両藩が力を合わせることで倒幕を成し遂げようとしたのです。そして坂本龍馬の仲介によって薩摩藩と長州藩の会談がスタートしました。

 

薩長同盟 ~締結~

1866年1月、長州藩木戸孝允が上洛し、小松帯刀の屋敷である別名「御花畑屋敷」にて薩長同盟と呼ばれる六か条を締結しました。

薩長同盟の内容は下記のとおりです。

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

この会議ですが、西郷隆盛と木戸孝允がかつての遺恨などが邪魔してしまい、互いに引くことができない状態になったところを坂本龍馬に説得されたという話が残っています。

 

薩長同盟 ~その後~

薩長同盟が締結されたことにより、1866年4月、大久保利通から幕府に薩摩が長州征伐には参加しないという内容の建白書が提出されます。幕府は薩摩藩不在の状態で長州征伐を行いますが長州藩に連敗。将軍徳川家茂が7月に大阪城で死去したことで第二次長州征伐は幕府側の敗亡で終了しました。

 

大政奉還

ライオンの画像

大政奉還/Wikipediaより引用
大政奉還とは、14代将軍徳川家茂が死去し、変わって15代将軍になった徳川慶喜が政権を朝廷に返還するために書状を送り、明治天皇がそれを許可した事をいいます。この大政奉還により西郷隆盛たちは倒すべき幕府を失ってしまいます。

 

大政奉還 ~背景~

1863年、朝廷、幕府、雄藩がそろって新しい政治を議論する参預会議が行われました。年末に始まったこの参預会議では長州藩の処分問題や横浜鎖港問題などが話し合われましたが、島津久光と一橋慶喜(後の徳川慶喜)が対立するなど議論は行き詰まってしまい、結局翌年の3月に会議は崩壊してしまいます。また、1867年5月に京都で行われた四侯会議でも政治の主導権を幕府から雄藩側に取り戻そうとした薩摩藩が徳川慶喜に負け、こちらの会議も崩壊してしまいました。このことから薩摩藩は徳川慶喜を将軍とした幕府を諦め、長州藩と協力して倒幕を進めようと考え始めます。

 

大政奉還 ~大政奉還の原型、船中八策~

1867年6月9日、坂本龍馬と後藤象二郎が「夕顔丸」に乗り長崎から兵庫へと向かっていました。この船内で坂本龍馬が後藤象二郎に示した政治綱領のことを船中八策と言います。この船中八策の中に大政奉還の原型となる大政奉還案がありました。後藤象二郎は土佐藩幹部の寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らにこの大政奉還案を採用すべきだと主張します。これに薩摩藩の小松帯刀らが同意し、薩土盟約の締結へとつながるのです。

 

大政奉還 ~薩土盟約の締結と解消~

6月22日、薩土盟約が締結されました。この薩土盟約は、平和的手段で議会制度を導入した政治へと移行することが目的とされていましたが、実は薩摩藩は徳川慶喜が大政奉還を拒否するだろうと考え、それを討幕の理由にしようと考えていたと言われています。そのため、薩土盟約には土佐藩の京都出兵と将軍職の廃止を建白書に明記するという文章が加えられていました。しかし、前土佐藩主の山内容堂がこれに反対したことにより、京都出兵と将軍職の廃止の文が削除され、薩土盟約は締結から2ヶ月半で解消されることになりました。

 

大政奉還 ~成立~

1867年10月、薩長同盟が倒幕に向けて動き出そうとしている頃、土佐藩から大政奉還建白書が幕府に提出されます。数日後には案芸藩からも建白書が提出され、徳川慶喜は10月13日、二条城に上洛中の40藩の重臣を招集します。10月14日には朝廷に大政奉還上表が提出され、翌日の朝議によって大政奉還が成立しました。この大政奉還には将軍職を辞職するという内容は書かれておらず、徳川慶喜の地位もそのままだったので、薩摩、長州の両藩は反発。そのため徳川慶喜は10月24日に征夷大将軍の地位も返上しました。

 

大政奉還 ~結果~

征夷大将軍の地位を返上した後も徳川慶喜が政治から遠ざかることはありませんでした。当時の朝廷には公家や諸藩を統率する能力や体制はなく、朝廷はこれからのことを決める諸侯会議を招集するまでの間という条件付きで、引き続き徳川慶喜に政治を任せることにしたのです。実質的には前の体制と変わらないという状況に薩摩藩や長州藩はクーデターを起こすことを計画します。これが12月9日に行われた王政復古へとつながるのです。

 

戊辰戦争

戊辰戦争

戊辰戦争/Wikipediaより引用

1868年から1869年に薩摩藩、長州藩、土佐藩などを中心とした新政府軍と旧幕府軍及び奥羽越列藩同盟による戦争のことを戊辰戦争と言います。戊辰戦争は鳥羽伏見の戦い、会津戦争、箱館総攻撃などのいくつかの戦いの総称で、新選組と新政府軍が箱館で戦った五稜郭の戦いがとても有名です。大政奉還後、西郷隆盛たち倒幕派は幕府を武力で倒すという目標を失いました。しかし、幕府が無くなっても徳川慶喜はまだ政治に携わっていました。鳥羽伏見の戦いは西郷隆盛たち倒幕派が旧幕府を倒すために挑発した事により起こった戦いでした。

 

鳥羽伏見の戦い ~発端~

徳川慶喜は幕府が無くなり新体制になった後も朝廷に残り、政治に関わろうとします。西郷隆盛は徳川慶喜を政権から排除するため浪人500人による浪士隊を結成し、江戸で徳川慶喜に対して挑発を始めるのです。浪士隊は勤王活動費として強盗や略奪を行い、捕まりそうになると薩摩藩邸へと逃げ込み、最終的には庄内藩の屯所に銃弾を打ち込みました。そのため1867年12月、庄内藩が中心となり、江戸薩摩藩邸が焼き討ちされました。その結果、徳川慶喜は薩摩藩を討つことを決め、徳川慶喜率いる旧幕府軍と薩摩藩を中心とした新政府軍の戦争が勃発します。

 

鳥羽伏見の戦い ~結果~

1868年1月3日、鳥羽街道にて薩摩軍と旧幕府軍が遭遇し、旧幕府軍は薩摩軍から攻撃を受けます。この戦いで薩摩軍は旧幕府軍に勝利。砲撃を聞いた伏見でも戦いが始まり、こちらも薩長連合軍が勝利します。1月4日、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより新政府軍が朝廷の正式な軍と見なされたため、旧幕府軍は士気を失います。その結果旧幕府軍は大敗し、大阪城まで撤退しました。

1月6日夜には徳川慶喜が江戸へと逃亡し、旧幕府軍の大敗で鳥羽伏見の戦いは終了しました。この鳥羽伏見の戦いがこの後始まる戊辰戦争の始まりでした。

 

江戸無血開城

1868年3月、新政府軍は江戸へ逃亡した徳川慶喜を追いかけました。それを知った勝海舟は、江戸が新政府軍によって被害をうけることを危惧し、西郷隆盛に手紙を送りました。そして1868年3月13日と14日に薩摩藩江戸藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の話し合いによって江戸城は無血開城となりました。この後、徳川慶喜は水戸で謹慎処分となり、函館の五稜郭で旧幕府軍が敗北したことで戊辰戦争は集結しました。

 

江戸無血開城 ~江戸城総攻撃~

戊辰戦争での新政府軍の目的は、徳川慶喜から江戸城を奪取することだけではなく、徳川慶喜の切腹と徳川家の取り潰しでした。鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いで勝利した新政府軍は、駿府へと兵を進め、1868年3月15日に江戸城総攻撃をすることを軍議で決定しました。

 

江戸無血開城 ~勝海舟・西郷隆盛会談 経緯~

3月15日に江戸城総攻撃が決まったとき、実はもう一つあることが決められていました。それは徳川慶喜が西郷隆盛たち新政府軍の出した降伏条件に従うのならば厳罰を免除しようというものでした。一方、旧幕府の方はというと、謹慎中の徳川慶喜は新政府に従う意志があるということを新政府軍に伝えるため、徳川慶喜の護衛していた山岡鉄舟が駿府へと向かうことになりました。しかし山岡鉄舟は西郷隆盛を知らなかったので、まず、山岡鉄舟は陸軍総裁の勝海舟を尋ねて西郷隆盛への紹介状をを書いてもらい、それを持って西郷隆盛を尋ねました。そして開かれたのが勝海舟・西郷隆盛会談です。

 

江戸無血開城 ~勝海舟・西郷隆盛会談第1回目~

勝海舟・西郷隆盛会談は3月13日と14日の2日に渡って行われました。第1回の交渉は14代将軍徳川家茂の正室だった和宮の処遇の問題と西郷隆盛から提示された徳川慶喜の降伏条件の確認がされました。

新幕府軍から旧幕府軍に提示された降伏条件は以下のとおりです。

1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。

2.江戸城を明け渡すこと。

3.軍艦をすべて引き渡すこと。

4.武器をすべて引き渡すこと。

5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。

6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。

7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

 

江戸無血開城 ~勝海舟・西郷隆盛会談 第2回目~

14日に行われた第2回目の交渉では、第1回の会議の際に確認した徳川慶喜の降伏条件に対しての回答が、勝海舟から行われました。回答の内容は以下のとおりです。

1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。

2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。

3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。

4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。

5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。

6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。

この条件は第1回で確認された降伏条件を否定するような内容でしたが、西郷隆盛は勝海舟と大久保利通を信頼して、翌日に迫った江戸城総攻撃を中止し、降伏条件の回答を京都に持ち帰って検討することを約束しました。

 

江戸無血開城 ~勝海舟・西郷隆盛会談 結果~

3月20日の朝議で西郷隆盛が京都に持ち帰った降伏条件の回答は審議されました。審議の結果、修正された条件がこちらです。

1.徳川慶喜は水戸藩で謹慎。

2.大総監に一任。

3.4.武器、戦艦は一旦新政府軍が接収し、その後徳川家に必要な分だけを下げ渡す。

5.7新政府軍が提示した原案どおり。

6.会津桑名に対して罪を問う兵を派遣し、降伏すればよし、抵抗した場合は討伐する。

この条件を持って江戸に向かった西郷隆盛は、勝海舟や大久保利通たちと最終的な条件を決め、4月4日には新政府と徳川宗家が最終合意に至ったため、西郷隆盛が兵を率いて江戸城へと入城することになりました。4日に徳川慶喜に水戸への謹慎処分の命が下り、9日には和宮が清水邸に退去。10日には天璋院篤姫が一橋邸に退去し、11日に徳川慶喜が水戸へと出発したことにより、江戸城は無血開城となりました。

 

西郷隆盛の一生 ~明治維新と西南戦争~

西南戦争

西南戦争/ Wikipediaより引用

戊辰戦争が終わり、西郷隆盛は新政府には関わらず、隠居をしようと考えていました。しかし明治政府に呼び戻される形で国事に関わることになるのです。

 

明治政府の参事へ

1871年、西郷隆盛は新政府の参事として復職します。西郷隆盛は陸軍省や海軍省などを設置したり徴兵令を布告したりして軍や政治の改革を行いました。他にも警察の設立や国立銀行条例の発布、太陽暦の制定も行いました。しかし、板垣退助や江藤新平、後藤象二郎、副島種臣とともに主張した征韓論によって大久保利通や木戸孝允らと意見が合わず、職を辞して鹿児島へと戻ることになりました。

 

私学校を創る

西郷隆盛は鹿児島に戻ると私学校を作りました。

明治政府に不満のある士族たちが西郷隆盛が戻ってきたことにより薩摩へと集まってきたため、このままでは暴動が起きるかもしれないと考えた西郷隆盛は、漢文や軍事訓練を士族たちに教えることで統率しようと考えたのです。そんな中、廃刀令が明治政府から発布されます。この廃刀令によって士族は一切の特権を失い、政府に反感を持った士族たちが各地で反乱を起こしました。

 

西南戦争 ~勃発~

西郷隆盛は戦争には消極的だったといいます。もともと西郷隆盛が私学校を作った理由は、行き場の無くなってしまった士族たちに新政府内で新たな役割を与えることでした。しかし、西郷隆盛を暗殺する計画があったと知らされたことと、ちょうどそれと同時期に、新政府が薩摩の火薬庫から武器弾薬を運び出そうと汽船を差し向け、それに気づいた私学生たちが火薬庫を襲撃し武器弾薬を奪ったことで西南戦争が勃発してしまいます。西郷隆盛は西南戦争が起こった場合、負けることがわかっていたと言われています。実際、戊辰戦争では積極的に戦略を考えていた西郷隆盛ですが、西南戦争のときにはそれを行った形跡がないのです。

 

西南戦争 ~高瀬の戦い~

1877年2月15日、薩摩軍15000人は大雪の中薩摩を出発し、22日に熊本城を包囲します。中村半次郎の指揮のもと、薩摩軍は熊本城に総攻撃を仕掛けますが、新政府軍は砲撃で応戦。しかし熊本城は落ちず、戦いは50日以上続きました。熊本城総攻撃と同時に始まった植木(熊本市北区植木町)で新政府軍に勝利した薩摩軍は、今の玉名市高瀬で新たに新政府軍と激突しました。これが高瀬の戦いと言われるもので、この戦いで西郷隆盛は弟の小兵衛を失いました。

 

西南戦争 ~田原坂の戦い~

3月4日、熊本市北区植木にある田原坂で最大の戦いが始まります。田原坂は細い上り坂で、数で劣る薩摩軍の方が有利に戦える場所だったのと、この田原坂を突破されると熊本城へ新政府軍が押し寄せてしまうため、薩摩軍には負けることの出来ない戦になりました。この戦いは民謡で「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」と歌われるほどで、17日にも及びました。この戦いは新政府軍の山縣有朋率いる抜刀隊の奇襲攻撃により薩摩軍の敗走によって幕を閉じました。

 

西南戦争 ~鹿児島へ~

4月15日、熊本城に新政府軍が入城し、薩摩軍は退却せざる得ない状態になります。人吉盆地へと場所を移動がし、2年耐えるつもりだった薩摩軍でしたが、新政府軍の攻撃により陥落。その後は宮崎各地を転々とします。8月16日には西郷隆盛の解散の命令により大半の兵が新政府軍に降伏し、残りの兵で新政府軍の守っていた可愛岳(宮崎県延岡市)を突破した薩摩軍は8月29日に薩摩へと戻りました。

 

西南戦争 ~鹿児島城山で最後の決戦~

9月1日、薩摩軍は城山に陣を敷きました。この時点で薩摩軍は372人。対する新政府軍は約5万人という圧倒的な戦力差でした。薩摩軍の中からは西郷隆盛だけはなんとか助けたいという声も出ましたが、西郷隆盛はそれを拒否します。新政府軍は全面降伏をしなければ攻撃を仕掛けると宣言し、9月24日、総攻撃を仕掛けました。

 

1877年9月24日早朝、自刃

圧倒的な力の差により薩摩軍の兵は次々と倒れていきました。西郷隆盛自身も銃弾を体に受け、覚悟を決めた西郷隆盛は別府晋介に「晋どん、もうここでよかろ」と伝え、東を向いて正座をしました。「ごめんなったもんし!(お許しください)」の声とともに別府晋介は太刀を振り下ろし、西郷隆盛は自刃しました。

 

西南戦争 ~その後~

城山の戦いで薩摩軍は約160人が戦死、約200人が投降しました。西郷隆盛の首は薩摩軍によって隠されていましたが、西南戦争終了後に発見され、政府の幹部によって西郷隆盛と確認されました。西郷隆盛は鹿児島市内の浄光明寺に仮埋葬され、その後南洲墓地へと改葬されました。

 

西郷隆盛の名誉回復と銅像建立

明治政府にとって敵であった西郷隆盛が名誉を回復できたのはどうしてだったのでしょうか。西郷隆盛の名誉の回復についてと銅像建立についてを見ていきたいと思います。

 

大日本帝国憲法発布の大赦で西郷隆盛の名誉は回復した

1889年、新政府より大日本帝国憲法が発布されました。この際の大赦によって逆賊という汚名がすすがれ、西郷隆盛は今の勲等で勲一等と同等の正三位に序されました。

 

西郷隆盛の銅像建立

西郷隆盛の名誉が回復したことがきっかけになり、西郷隆盛の銅像を建立しようという動きが起こります。建設計画の中心は元薩摩藩出身者で、建設資金は2万5千人余りの有志からの寄付金と、宮内庁からの500円が当てられました。1989年12月18日に除幕式が行われ、この際には西郷隆盛の妻の糸が出席したと言われています。除幕式の際、銅像を見た糸は「やどんしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの人はこんな人じゃなかった)」と言ったという話は今でも有名ですが、実はこの言葉は顔が似ていないということではなく、西郷隆盛は浴衣姿で散歩などしなかったという意味だったようです。

 

西郷隆盛の5人の子供はその後どうなったのか

西郷寅太郎

西郷寅太郎/Wikipediaより引用

西郷隆盛には男4人女1人の5人の子供がいました。彼らは一体どのような人生を送ったのでしょうか。

 

愛加那との間に生まれた菊次郎

西郷菊次郎は西郷隆盛と愛加那との間に生まれました。西郷隆盛の長男になりますが、愛加那が島妻だったので、戸籍上は正妻の糸の子供である寅太郎が嫡男となっています。12歳のときにアメリカ留学をしましたが、帰国後に参戦した西南戦争で右脚に銃弾を受け、膝から下を切断することになりました。西郷隆盛が亡くなった後数年間奄美大島の愛加那のもとで生活した菊次郎は、その後外務省に入省します。日清戦争後には日本の領土になった台湾に赴任し、台湾の宜蘭支庁町として尽力しました。日本に戻ってきた後は約6年間京都市長を勤め1928年に心臓麻痺で自宅で亡くなりました。大河ドラマ「西郷どん」では西郷菊次郎が京都市長に就任するところから話が始まり、菊次郎が父である西郷隆盛のことを語るというお話になっています。

 

あまり幸せにはなれなかった長女、菊草

西郷隆盛の長女である菊草は、12歳で鹿児島の西郷家に引き取られ、14歳のときに大山巌の弟である大山誠之助と婚約します。しかし、西南戦争で大山誠之助は監獄署に収監されてしまいます。1879年に釈放された大山誠之助と結婚した菊草ですが、誠之助の借金や家庭内暴力のためかなり苦労しました。1907年頃にやっと別居することが出来た菊草でしたが、菊次郎のもとに身を寄せた2年後に亡くなりました。

 

西郷隆盛と糸の長男、寅太郎

西郷寅太郎は18歳のときに勝海舟らの働きかけにより、明治天皇からポツダム陸軍士官学校への留学を命じられ、13年間をドイツで過ごします。帰国後、陸軍少佐になった寅太郎は、父、西郷隆盛の功績により侯爵の爵位を授かり、貴族院議員となりました。第一次世界大戦の際に東京俘虜収容所の所長となりますが、1902年に全世界で流行していたスペイン風邪により亡くなりました。

 

平穏な人生を送った次男、午次郎

西郷午次郎は日本郵船の社長秘書になり、16歳下の妻との間に4人の子供を授かりました。寅太郎が亡くなった後、母である糸と寅太郎の遺児を引き取りましたが、男8人女4人という大所帯と妻の浪費癖のため、裕福とは言えない生活だったようです。糸を看取った午次郎は日本郵船退職後、西郷隆盛の弟が所有していた現在の西郷山公園の土地を譲り受け、平穏な人生を送りました。

 

若くして亡くなった三男、酉三

西郷酉三が生まれたのは西郷隆盛が政府を辞めて鹿児島へ戻る直前のことでした。西郷隆盛が西南戦争で亡くなったのは酉三が4歳のときだったため、酉三は父である西郷隆盛との親子のふれあいは少なかったのではないかと言われています。酉三はあまり体が丈夫ではなかったようで、1903年、30歳で結核で亡くなりました。

 

激動の時代を駆け抜けた西郷隆盛

西郷隆盛の一生、いかがだったでしょうか。明治時代後期、激動の時代を生きて新しい日本を作った西郷隆盛。彼がいなければ今の日本はなかったと言えるでしょう。日本のために戦い続けた西郷隆盛はどんな時も一人ではありませんでした。それはひとえに西郷隆盛という人がとても魅力的な人だったからなのでしょう。

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