大久保利通の生涯を詳しく解説!維新の功労者の人生とは?

大久保利通は、西郷隆盛、木戸孝允と並ぶ維新の三傑と呼ばれ、明治維新の最大の功労者とされています。明治政府のトップに立った大久保は、下級武士の生まれに過ぎませんでした。この記事では、そんな大久保が、どのように出世の階段を駆け上がっていたのかを追っていきたいと思います。

 

波乱万丈!大久保利通の生涯

大久保利通の画像

大久保利通/wikipediaより引用
大久保利通は下級武士の生まれですが、苦難の末に、明治維新後には内務卿という今の総理大臣に相当する地位まで駆け上がります。身分の低かった大久保がどのようにして出世を果たしていったのでしょうか。大久保の生涯を見ていきましょう。

 

大久保利通の生い立ち

大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)、現在の鹿児島市高麗町に琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳のニ女・福の長男として生まれました。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士でした。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となりました。武術は胃が弱かったため得意ではなかったものの、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたといいます。天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗るのですが、後に改名します。

 

幕末の大久保利通

弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕します。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され、謹慎処分となります。これ以後、大久保家はとても貧しい生活を強いられ、苦しい暮らしを余儀なくされます。しかし島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれて、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となります。そして安政4年(1857年)10月1日に、西郷とともに徒目付となります。また精忠組のトップとして活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり島津久光に税所篤の助力で接近します。万延元年(1860年)3月11日、島津久光と初めて面会し、勘定方小頭格となります。そして文久元年(1862年)に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜ります。

 

倒幕・王政復古で活躍

文久2年(1862年)に大久保は、久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体を目指して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職の就任を進めました。そして同年5月20日、御小納戸頭取に昇進します。この昇進によって大久保は島津久光の最側近となるのです。また、文久3年(1863年)2月10日には、御側役に昇進します。そして慶応元年(1865年)にはついに利通と改名します。ここから利通の大躍進が始まっていき、彼は倒幕のなかで大きな役割を果たしていくのです。翌慶応2年(1866年)には、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っています。また、この年に薩長同盟が成立し、倒幕ムードが高まるなか、慶応3年(1867年)11月に徳川慶喜は「大政奉還」を行います。大政奉還とは、武士が持っていた政権を天皇にお返しするという意味です。しかし、大政奉還後も政治に関わる徳川慶喜がいる限り、徳川幕府が政権を握っているのと変わらなかったのです。そこで、慶応4年(1868年)1月利通と岩倉具視(いわくらともみ)らは「王政復古の大号令」を発し、天皇のもとに明治新政府を作りました。

 

明治維新後の活躍

徳川幕府を倒した明治政府は明治維新後、多くの政策を実行に移していきます。その中心にいた人物こそが大久保利通でした。大久保は、明治2年に参議に就任し、版籍奉還や廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行っていきます。明治4年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊します。その外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助らと対立し、明治六年、政変にて西郷らを失脚させました。そして同年内務省を設置し、自ら初代内務卿となります。この内務卿こそが現在の総理大臣に相当する役職で、大久保利通はついに明治政府のトップに上り詰めたのです。内務卿就任後の大久保は忙しく働き、学制や地租改正、徴兵令などを実施していきます。そして、富国強兵をスローガンとして殖産興業を推進しました。また、明治7年に佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら兵を率いて鎮圧し、台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として清に渡るなどの活躍をしています。そして明治10年には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮します。

 

巨星墜つ!暗殺に倒れた非業の最期

明治政府の巨塔となった大久保利通は明治11年に暗殺されます。利通は、なぜ暗殺されたのでしょうか。発端は、友人・西郷隆盛との対立でした。共に倒幕を実現させ、新国家を目指してきた利通と西郷ですが、最後は「征韓論」をめぐって意見が対立しました。「征韓論」とは、武力を使って朝鮮(現・北朝鮮と韓国)を開国しようとしたことでした。西郷は、軍事力中心で新しい国作りを考えたのに対し、利通は、国内の財政基盤を早期に整えようとしました。西郷の征韓論に反対したのです。すると西郷は明治新政府に不満を持つ士族らと、新政府に対する、「西南戦争」を引き起こします。その「西南戦争」での新政府軍のリーダーの一人が利通でした。西郷隆盛は利通率いる新政府軍に追い詰められ、命を落としました。利通の暗殺は、おそらくその恨みだと思われます。利通は、西郷の征韓論に賛同していた石川県士族の島田一郎ら6名により惨殺されました。西郷派からしてみれば、西郷隆盛を殺したのは、新政府軍のリーダーだった大久保利通なのです。この暗殺を、「紀尾井坂の変」と呼びます。

 

大久保利通の人となり・逸話

大久保利通の画像2

大久保利通/wikipediaより引用
内務卿まで上り詰めた利通ですが、自身は出世をした後も偉ぶらず、清廉潔白な性格であったようです。ここでは利通の生涯を通しての仕事ぶりと嗜好を見ていきましょう。

 

清廉潔白!大久保利通の仕事ぶり

大久保利通は、金銭には潔白で、決して資材を蓄えることをせず、それどころか、必要にもかかわらず予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めるようなことをしていました。そのために死後の財産が140円に対して、8000円もの借金が残ってしまいましたが、大久保の志を知っていた債権者たちは借金の返済を遺族に求めなかったと言います。また、寡黙でもあり他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言います。

 

大の囲碁好き!大久保利通の素顔とは

大久保利通は大の囲碁好きとして有名で、幕末に藩主の父である島津久光に近づいたのも、この囲碁を通してでした。囲碁に関しては大の負けず嫌いで、碁で負けたときは露骨に機嫌が悪かったといいます。明治の元勲たちは、大久保の囲碁に関して次のように述べています。

大隈重信「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中、常に大久保を怒らせて勝ちを取った」「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。大久保は碁に負けると厭な顔するけれども、決して其塲では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」

伊藤博文「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」

 

超ヘビースモーカー!大久保利通の嗜好とは

大久保利通は多忙を極める生活のせいか、かなりのヘビースモーカーでした。濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたタバコ)を愛用し、子どもたちが朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりを起こすほどだったそうです。また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていたそうで、そうしなければならないほど、年中タバコを吸っていました。また、茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだといいます。それから、漬物も大好物で、食卓に何種類か並んでいないと機嫌が悪かったと言います。また、朝食には珈琲とブランデーを少し垂らしたオートミールを好みました。このように、大久保利通は、口にするものにはかなりのこだわりをもっていたので、家族は大変だったのではないでしょうか。

 

<まとめ>大久保利通の生涯を振り返る

大久保利通は下級武士の出ながら、出世の階段を一気に駆け上がり、明治維新後は内務卿として、日本のトップに立ちました。戦国時代の豊臣秀吉や徳川家康に匹敵する出世を成し遂げたのです。しかしながら、出世を果たした後も、偉ぶらずに清廉潔白であったことは称賛に値すると思います。多くの権力者は、贅沢な生活をして欲望を満たすものですが、大久保はそうはしませんでした。むしろ私財をなげうって公共事業に投じるなどの、高潔な精神を見せています。維新後、大久保を慕う人が多かったのもうなずけますね。一方で大久保はとても孤独だったのではないかと推測します。出世の果てに、親友であった西郷隆盛と仲違いしてしまうなど、晩年は寂しさを噛み締めながら日々を送ったのではないでしょうか。特に西南戦争で、西郷隆盛を討ち取った際には、断腸の思いであったと思います。お互いが国のためを思い戦ったのですが、2人の戦いは、トップに立つものの孤独を感じさせますね。

 

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