菅原道真を知る! ~太宰府天満宮のご祭神、学問の神様の生涯~

「どうしよう!困ったときの神頼み?」初詣や人生の通過儀礼のほかにも、神社にお参りする時がありますね。今回は「学問の神様」として全国的に名高い「菅原道真」をご紹介します。

 

まずはおさらい!菅原道真の生涯

菅原道真
菅原道真/Wikipediaより引用

菅原道真は、歴史の教科書に出てきたり、受験の時にお参りしたりと、身近な歴史上の人物の1人ですね。まずは、その生涯からおさらいします。

 

学者の家柄!若き秀才

菅原道真は845年、一大学閥である菅原家は菅原是善(すがわら・これよし)の子として京の都で生まれました。幼少時より学問の才能を発揮し、5歳で和歌を詠むなど神童といわれました。

道真は、その家柄もあり、11歳で初めて詩を詠むなど漢学を学びます。15歳で元服し、18歳になると文章生の試験に合格します。文章生(もんじょうしょう)は学問により朝廷に仕える文章博士の候補生です。

 

学者の実績と至誠の政治家

当時の菅原家は中流貴族であり、朝廷での出世はそれほど期待が持てるものではありませんでした。地道な活動を続け、33歳で文章博士となり、朝廷内で文人社会の中心人物になっていきます。父亡き後は私塾の運営を引き継ぎ、有能な塾生を輩出します。

このため、道真は菅原家私塾の出身者の影響力が強まることを恐れた他の学者たちから疎まれ始めます。政治面では、藤原時平が名を響かせるようになるまで、時の宇多天皇より重用されます。一時期、同僚の嫉妬から讃岐国(現・香川県)に飛ばされるものの、善政を行い讃岐国を再建して功績を挙げます。

京の都に戻ると天皇からの信頼も増し、大納言まで出世を果たしました。醍醐天皇へ代替わりをすると右大臣の職に就き、時の人となっていた左大臣・藤原時平に次ぐNO.2の座を手にします。

 

藤原氏の謀?無念の大宰府左遷

家柄がモノをいう貴族社会の中で、中流貴族の学者・菅原道真が偉い役職に就いたことにより同僚貴族の嫉妬が高まります。藤原時平を中心に、道真を政界から排除する動きが起こりました。

道真の娘は醍醐天皇の弟・斉世親王(ときよ・しんのう)に嫁いでおり、「道真が醍醐天皇を廃して娘婿を天皇にしようとしている」という偽の密告をされ、道真は「遠の朝廷(とおのみかど)」と称する大宰府政庁がある大宰府(現・福岡県)に左遷させられます。

当時の大宰府地方はアジア諸国と日本の文化が交差する土地柄でした。その2年後、嫌疑の晴れないまま病にかかり59歳位の生涯を閉じます。

 

許すまじ!?道真の怨霊にまつわる話

菅原道真
北野天神縁起/Wikipediaより引用

国家の平安と自らの潔白を祈りながら大宰府の地で亡くなった菅原道真は、平穏な眠りについたわけではありませんでした。怨霊となった道真の動きを追っていきます。

 

都をおそう凶事

菅原道真の死去後しばらくして、無実であったことがわかりますが、都では疫病の流行や飢饉が起こり、貴族の死や落雷が相次ぎました。時は930年。

落雷の中でも、清涼殿(天皇が政治を行うスペース)に落ちた時は火災を引き起こし、多くの犠牲者が出ました。この落雷がきっかけで醍醐天皇は病に倒れ、そのまま亡くなります。

時平の讒言を信じて道真を左遷させてしまった天皇が命を落としたのですから、「道真の怨霊がやったのでは?」と考えるのも無理はありません。

 

藤原氏にふりかかる凶事

時は前後して道真死去から6年後の909年。菅原道真を陥れた張本人・藤原時平が39歳の若さで亡くなります。病床に伏していた時平は、インド伝来の薬を飲んだり祈祷を受けたりするも一向に回復しませんでした。伝えられた話によれば、祈祷をしていた僧が時平の見舞いに来ると、時平の両耳から青龍が姿を現します。

そして青龍は、天の許しを得て復讐のために京の都に舞い戻ったことを告げたと云います。923年には21歳の皇太子、925年には5歳の皇太子が相次いで皇太子が亡くなりました。醍醐天皇が道真を大宰府へ左遷させた文書を処分して取り消したものの、時平の孫である弱冠5歳の皇太子・慶頼王(よりよしおう)が亡くなってしまうのですから、道真には多大な影響力があったのですね。

 

お告げと天神信仰

919年醍醐天皇により、道真の霊を鎮めるため道真が亡くなった大宰府の地に社殿が作られます。現在の太宰府天満宮です。942年、菅原道真の怨霊を鎮めるための祈祷の効果が現れない中、都に住む女性の下に道真の霊が現れます。

道真の霊は生前気に入っていた場所に祠を建てて、自由に立ち寄れるようにするよう告げました。身分の低さのためその時は叶いませんでしたが、その後、7歳の男の子に憑いた道真の霊から新たなお告げがあり、947年に北野天満宮が建てられました。

「天神」・「天満」とつく神社の御祭神は通常、菅原道真です。「天神」は、人々に災いをもたらす荒々しい神のことで道真の怨霊が雷神となり、「天満」は、その怒りが天に満ちたことを表しています。ここから、天神信仰が全国に広まっていきます。

 

神様となった道真道真の詠んだ歌と詩


太宰府天満宮/Wikipediaより引用

当初、怨霊となった道真を鎮めるために社殿を建てるなどし神として祀ってきましたが、庶民にとっても様々な面でご利益がある神様となります。

 

学問の神

鎮魂の意味合いで各地に祀られた祟り封じの天神様・菅原道真。天変地異の被害の記憶や怨霊としての意味が薄れてくると、菅原家が学問の一大学閥であったことや、道真が生前優れた学者・詩人・歌人であったことから、菅原道真が「学問の神」として信仰され始めます。

幼少時から漢文学に親しみ、漢詩・和歌を詠んでいたこともあり、文学・和歌・書道・習字の神様としても慕われています。

 

雷の神

日本では古来より自然を信仰する文化背景があります。菅原道真の死後、宮中への落雷や日照りが起こっていたので、災いをもたらす荒ぶる神々は信仰する対象・鎮める対象でした。道真を雷神として祀る社殿や祠が全国に作られ、豊作祈願や雨乞いなどの祭が行われていきます。

古代に倣い、神霊を「和魂(にぎみたま)」・「荒魂(あらみたま)」に分けて考察すると、人の世に幸をもたらし災厄を除くのが和魂のはたらき、天変地異などによって戒めを与えるのが荒魂のはたらきとされ、道真に対する信仰もこの神の2つのはたらきが存在するのでしょう。

 

農耕の神

前述の雷の神同様、農耕の神としての役割も持つ菅原道真。日照りによる飢饉が続いていたのですから、自然と発生した神の在り方と考えられます。

 

至誠の神

大宰府に流された後も、ひたすら国家の安泰と自身の潔白を祈り続けました。一貫して誠を貫いた菅原道真は至誠の神の側面を持ち合わせています。

 

天神信仰の代表!天満宮を知ろう!

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菅原道真と言えば天神様、また逆も然り。様々な視点で菅原道真を紹介します。

 

かかせないもの;梅

各地の天神様に足を運ぶと、必ず梅の木が植えてあります。季節になると梅まつりも開かれますね。菅原家の家紋も梅鉢紋ですし、幼少時から嗜んだ和歌・漢詩にも梅を題材にしたものが見受けられます。有名な「東風ふかば、匂いをこせよ」で始まる和歌は大宰府時代に読まれた歌でした。

 

かかせないもの;牛

梅同様、牛も置かれています。牛が置かれているのには2つ由来があります。1つは菅原道真が丑年生まれであること。もう1つは、道真の遺体を運ぶとき、運んでいる車を引く牛が途中で動かなくなりました。何をしても動かないので、道真がこの地で眠りたいのだろうと考え、そこを墓地としました。このため、道真と共に牛を神の使いとして神聖視します。

 

日本三大天満宮;北野天満宮

お告げにより創建されたとする「北野天満宮」。九州の「太宰府天満宮」とともに、「日本三大天満宮」の1つです。菅原道真を祀る全国の天神社・天満宮約12,000社の総本社です。北野天満宮には歴史ある七不思議があります。そのうちの1つは「影向松(ようごうのまつ)」というものです。立冬から立春の間に初雪が降ると天神様が姿を現し、雪見に興じながら詩を詠んだとされています。

 

日本三大天満宮;太宰府天満宮

919年に、道真の怒りを鎮めるために創建された「太宰府天満宮」も日本三大天満宮の1つです。こちらも、総本社です。

 

日本三大天満宮;諸説あり?

3つ目は定まっていない状態で、それぞれの天満宮に日本三大天満宮の3社目とする謂れがあります。ここでは、その謂れをご説明しましょう。「曽根田天満宮」は道真が彫った3人の家来のお面が奉納されているという謂れ、「大生郷天満宮」は道真の遺族により遺骨が埋葬されてという謂れです。

「亀戸天神社」は太宰府天満宮の分霊で、昔は東太宰府天満宮と呼ばれていたようです。「荏柄天神社」は各地で分霊を持ち、「曽根天満宮」は曽根田神社に由来しています。「防府天満宮」は日本最古の天満宮と称しています。鎮魂に端を発する北野と大宰府の地に建てられた天満宮とは性格の異なる謂れがありました。

 

道真の詠んだ歌と詩

菅原道真
菅原道真/Wikipediaより引用

詩人・歌人でもある道真は多くの漢詩や和歌を残しています。中には、自らの状況を詠み込んだものも見受けられます。以下、何点かご紹介します。

 

人生を詠んだ漢詩

道真は11歳で初めて詩を詠みます。五言絶句の「月夜見梅華(月夜に梅華を見る)」の詩です。詩中に年齢を書き入れており、八居易の詩になぞらえて作っています。42歳で詠んだ漢詩は讃岐着任後、約4か月を経過したころの「初涼計會客愁添(初涼計会して客愁添う)」です。

初秋の涼しさの中にふと旅の愁いを感じ、衣服が露と涙で濡れる情景を詠んでいます。詩の中で、意欲が湧く年齢である一方、任務以外のことには口を閉ざすしかないこと、家族からの手紙が長らく来ないことにより、涙を流す時もあったそうです。

負の面ばかりではありません。涼しい風や月光が葦のすだれの隙間から漏れ入ってくる様も描写されています。

 

都を慕う和歌

菅原道真から連想される和歌で、「東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名な歌と思われます。

大宰府に流された時に都を慕って詠んだ歌ですね。ここでも親しんだ梅の花が表れます。辞世の句として後世に伝わる歌にはもの悲しさと潔さが顕れているようです。

 

<まとめ>学問も政治も至誠の姿勢で道真の詠んだ歌と詩

道明寺天満宮 梅園
道明寺天満宮 梅園/Wikipediaより引用

鎮魂のためとはいえ、故人であるにもかかわらず太政大臣に昇進した菅原道真。まさか、死後に社殿に祀られ宮中で出世をするとは思ってもいないことだったでしょう。

藤原氏にすれば安易に人を貶めたことで、自分への戒めのみならず社会を巻き込む大変な事態になってしまいました。道真が謀にかけられたのも、幼少時から努力を重ねてきて、誠実であったからこそかもしれません。

道真は894年、「遣唐使の廃止」を天皇に提言して受け入れられました。その13年後に唐が滅び遣唐使が終わります。国の平安を願う誠実な姿勢が、後の天神信仰や国風文化の開花に活かされていることが、文人学者の出である菅原道真にとっては何よりのご利益かもしれません。

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