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歴史

小野妹子を総まとめ。遣隋使の人物像と業績、歴史への影響を見る

小野妹子、特徴的な名前で歴史が苦手でも記憶している方は多いかと思います。遣隋使として隋に渡ったことで知られますが、古い時代のため史料は少なく、謎に包まれた部分も多い人物です。

 

祖父は渡来人だった。小野妹子の人物像

 小野妹子の墓
小野妹子の墓/wikipediaより引用

小野妹子の生没年は不詳となっています。生きた時代は飛鳥時代、10人の訴えを同時に聞き分けたなど、逸話の多い聖徳太子の活躍していた時代です。

小野妹子は近江の下級豪族の家に生まれました。父は日本人ですが、母方の祖父は高句麗からの渡来人です。そして聖徳太子の部下としたのち、引退して出家しました。墓は大阪府の科長神社にありますが、滋賀県にある唐臼山古墳とする説もあります。

小野妹子が登場する歴史作品では奔放な聖徳太子に対して、苦労人として描かれることが多いようですが、実際はどうだったのでしょうね。

 

妹?子?でも女性ではありません

「妹」は女性のきょうだいに使用する漢字ですし、「子」も現代では流行りすたりがあるものの女性の名前に主に使用される漢字です。その名前の語感から女性と思われることもあるかもしれませんが、れっきとした男性です。

当時は「子」は男女かかわらず名前に多く使用されていました。ただ、「妹」は当時でも女性に使われることの多い漢字であるため、それを根拠とした女性説も存在します。

 

小野妹子が生きた飛鳥時代とは

四天王寺
四天王寺/wikipediaより引用

小野妹子が活躍したのは飛鳥時代、史上初の女性天皇である推古天皇政権下でした。国内では聖徳太子により現在でも有名な様々な政策が立案施行されていますが、当時の国内、国際情勢を見ていくことにしましょう。

 

日本の情勢

女性である推古天皇が即位したのは、当時、病死したり、暗殺されたりといった理由で天皇の崩御が相次いでいたことによります。蘇我馬子の命で崇峻天皇が暗殺された後、馬子は自分の姪である推古天皇を立て、その甥の聖徳太子を皇太子として摂政とします。

推古天皇と聖徳太子の政策は大きく4つが有名です。一つ目は、仏教中心の国を造るため仏教を手厚く保護し、大寺院を多く建立しました。現存する世界最古の木造建築群とされる法隆寺や、現存する世界最古の企業である金剛組が建設した四天王寺などもこのときの建立です。二つ目は、氏(うじ)ではなく個人に与えられる冠位十二階を制定しました。

冠位十二階を制定することで、人材登用をやりやすくし、外交使節団の権威を明確にすることができました。三つめは聖徳太子が定めた憲法十七条です。これは、現代の法学的な意味での憲法とは異なり、官僚の道徳的規範に近いものだと言われます。そして最後に、小野妹子も参加した遣隋使です。

 

東アジアの情勢

飛鳥時代、7世紀前半の東アジアの情勢を見ていきます。

当時の日本は中国や周辺国からは倭国と呼ばれていました。中国では長く続いた南北朝時代が終わり、隋が統一を果たしたところでした。

強大な隋と周辺国の外交の関係は朝貢外交でした。周辺国の王が隋の皇帝に対し贈り物をし、皇帝が返礼品を送るという形で、対等な外交ではなく、隋が上に立つ形です。聖徳太子は強大な隋に対して対等外交を結ぼうと考えていたようで、この考えが後の遣隋使で騒動の元になります。

朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の3つの国に分かれる前三国時代でした。高句麗は中国統一を果たした隋と国境を接しており、強大になった隋に脅威を感じていました。高句麗が抵抗する様子を見せたことから、隋は高句麗に対し再三大軍を送ったのですが、圧倒的な軍事力の差にもかかわらず、攻略は果たせていません。

百済は高句麗、新羅の両国との争いで比較的弱い立場にありましたが、隋の中国統一後、すぐに隋と良好な築こうとします。隋の高句麗遠征に対しては援軍を送ったりもしています。しかし、隋を撃退した高句麗から逆に侵攻を受けるような状態でした。新羅は南北朝時代から中国に対して朝貢を行う立場で、これは隋、その後の唐に対しても続いています。

 

遣隋使としての小野妹子

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小野妹子が遣隋使として活躍したことは史料に残っており、有名ですが、隋に派遣されるまでの小野妹子の働きは官僚であったこと以外はよくわかっていません。

明らかになっている小野妹子の一番主だった業績が遣隋使への参加です。遣隋使はそれまでの朝貢関係による対中国外交と異なり、対等な外交関係を築こうとしたと言われています。遣隋使の実施回数については、日本書紀および隋の書物「隋書」での記載が一致しておらず、諸説あります。

隋書にのみ記載のある西暦600年の初回遣隋使(小野妹子は参加していません)では、隋から見て当時の外交常識を知らない遣隋使に対し、皇帝は怒るよりむしろ諭すようにして帰したといいます。結局、初回遣隋使はほとんど成果を上げられませんでした。その反省を基に冠位十二階で権威付けをはっきりさせた西暦607年の遣隋使のリーダーとして聖徳太子に任じられた小野妹子が参加することになります。

なお、この西暦600年の遣隋使について、日本書紀に記述がないことからその存在を認めないとする見方もあります。隋に使いは送られたものの、日本を下に見るような扱いで帰されたことを屈辱的として、日本書紀ではあえて記述が避けられたのではないかという解釈も存在しており、議論は一定していません。

 

隋の皇帝激怒!小野妹子最初の遣隋使

西暦607年に実施された遣隋使では小野妹子が倭王からの国書を持参しました。差出人の倭王は中国側の文書では男性の王となっており、推古天皇が女性であることと矛盾し、倭王が具体的に誰を指すかははっきりしていません。

この国書は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名なフレーズで始まっています。この冒頭が大変に挑発的であるとして隋の皇帝を激怒させます。日本を「日出ずる処」、中国を「日没する処」とした表現よりはむしろ、唯一無二の存在とされる天子が日本と中国にそれぞれいるとしていたところが皇帝の逆鱗に触れたようです。

当時の日本が比べ物にならない巨大国家の隋に対して突き付けた対等な外交関係を持とうとする文書。皇帝の怒りの前に小野妹子も身がすくむ思いだったのではないでしょうか。そういったことがありながらも、小野妹子らは隋の使者、皇帝家臣の裴世清とともに隋からの返書を持たされて帰されます。

 

返書紛失!?もしかしたらわざと?

訪問自体もトラブル含みでしたが、帰国途中にも事件が起きてしまいます。小野妹子が隋からの返書を紛失してしまったのです。小野妹子本人は帰国途上の百済で盗難にあったと説明しています。この紛失事件については、本当に紛失したのか、文書の内容が日本上層部の怒りに触れることを危惧した小野妹子自ら破棄してしまったのかなど、諸説あります。帰国した小野妹子はこの責任を負わされ流刑に処せられてしまいます。

 

小野妹子2度目の遣隋使

ところが、流刑は形式的なものであったのか、すぐに恩赦がなされたばかりか、小野妹子は冠位十二階の最上位である大徳に大昇進を成し遂げます。返書紛失の件を考慮に入れても西暦607年の遣隋使の成果が大きかったと評価された結果なのかもしれません。

出世した小野妹子は西暦608年の遣隋使にも再び参加することになります。この回の遣隋使では日本側から隋への多くの留学生が同行した他、先の遣隋使とともに来日した隋からの使者の裴世清が一行とともに帰国しました。隋に渡った留学生の中には隋が滅びた後の唐の時代にまでまたがって、当地に数十年滞在したものもいます。

 

遣隋使後の小野妹子は出家して僧侶に

池坊発祥の地モニュメント
池坊発祥の地モニュメント/wikipediaより引用

遣隋使において大役を務めた小野妹子はその後どうなったのでしょうか。出世した小野妹子ですが、官職引退後は出家して小野専務(読み方はそのまま「せんむ」)を名乗りました。僧となった小野専務(小野妹子)は、聖徳太子が沐浴をしたと伝えられている池のほとりにある僧侶の住処である坊に住みました。池のほとりの坊、池坊の代々の住職がその後華道家元の池坊に連なっていくため、小野妹子は「華道の祖」と言われることもあります。

 

(まとめ)小野妹子の残したもの

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小野妹子の配偶者については記録がありませんが、子孫は残っています。小野妹子からの系図をたどると平安時代の公家、小野篁(たかむら)に行き当たります。激しい性格であったと伝えられる小野篁は隋なきあとの唐への使者、遣唐使に任じられていますが、数回の失敗ののち、渡唐を拒否しています。

祖先の小野妹子が遣隋使として出世したことと照らし合わせると皮肉なものだと感じられます。また、おなじく平安時代の有名な歌人、小野小町も小野妹子の子孫のひとりです。

そして、遣隋使が持ち帰ったり、遣隋使とともに隋に渡った留学生たちが日本にもたらした中国の技術や学問は日本に刺激を与え、律令体制を目指す大化の改新へと続いていくことになったのです。

 

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