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歴史

平将門の乱の背景!祟りは本当か!?首塚伝説も詳しく解説

平将門は平安時代最大の反乱である「平将門の乱」を起こした人物です。当時の政治の中心は京都の平安京でしたが、この乱は辺境の関東において起きた反乱でした。

また、平将門は首が空を飛んだという首塚の伝説や呪いでも有名です。そんな平将門の生涯をこの記事では紹介します。

 

平将門ってどんな人?生涯をご紹介!

月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」
月岡芳年「芳年武者旡類 相模次郎平将門」/wikipediaより引用
平将門は平安時代の重大事件である「平将門の乱」を起こした人物です。この記事では、平将門のひととなりや伝説、「平将門の乱」の詳細について詳しく解説していきます。

 

定まらない生年の秘密

平将門の生まれた年には諸説あります。彼の生年は9世紀終わり頃から10世紀初頭にかけてとされていますが、正確な生年は分かっていません。

一説には彼が討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、903年が彼の生年と推測されており、この説が最も有力とされています。しかし、一方で884年頃とする説もあり、いまだに生年が定まっていません。

 

平将門の祖先と生い立ち

平将門の父である平良将は、桓武天皇のひ孫、高望王の息子であると考えられています。良将の領地は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)と伝えられ、現地には将門町という地名も残っていますが、根拠となる史料はありません。

母の出身地が相馬郡であったことから、一時期は「相馬小次郎」と称したとされています。将門は15ー16歳になると、中央の平安京へ出て、藤原忠平と主従関係を結びます。

将門は鎮守府将軍である父を持ち、自らの血筋も桓武天皇の5世と高貴の出ながら、藤原氏の政権下では低い官位の仕事にしか就けませんでした。

将門は12年ほど平安京に暮らして、当時軍事警察を束ねる官位を求めましたが受け入れられませんでした。一説によると、それを恨みに思って関東に下って反乱を起こしたとされますが、この見方は現実的ではなく、謀反は制度に対しての行動とする説が有力視されています。

 

平氏一族の争い

935年2月に将門は、常陸国の前国司である源護の子の、源扶(みなもとのたすく)らに突如襲撃されますが、将門はこれらを撃退し扶らは討ち死にしました。

そのまま将門は護の本拠である真壁郡へ侵攻して源護の本拠を焼き討ちにし、その際に伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させます。

ここから、関東における平氏一族の争いが始まります。同年10月には、源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集めて、将門と対峙しますが、将門の猛烈な攻撃を受けて敗走します。

そして平良正は平氏一族の長である平良兼に救いを求め、良兼は立ち上がりますが、将門の奇襲を受けて、敗北し、下野国(栃木県)の国府に保護を求めます。将門は下野国国府を包囲しますが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国府側と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国の途につきました。

 

平安京にて裁判を受ける

源護によって出された告状によって朝廷から将門に対する召喚命令が出て、将門は平安京にて尋問と裁判を受けます。しかし将門は、937年の朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を許され、帰国します。

帰国後も、将門は平良兼をはじめ一族の大半と対立しますが、これより数年間の戦いを経て、良兼の軍勢を筑波山に駆逐します。その後、良兼は病死し、将門の名声は関東に轟くようになります。

939年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と源経基が、足立郡の郡司である武蔵武芝との紛争に陥りました。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させましたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまいます。

京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えました。しかし、この時点では将門や経基との関係は、あくまでも私戦と見なされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられています。

 

不本意ながらも立ち上がる!平将門の乱

この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守である百済貞連と不和になり、興世王は将門を頼るようになります。また、常陸国府から追捕令が出ていた藤原玄明が庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否しました。

そのうえ940年1月3日、軍兵を集めて常陸国府へ赴き追捕撤回を求めます。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなります。将門の軍勢は1000人ながらも国府軍3000人を打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏しました。将門郡軍は国府を陥落させ、将門は印綬を没収しました。

結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまいます。将門が謀反を起こしたという知らせは、直ちに京都にもたらされますが、同時期に西国で藤原純友の乱が起こっているさなかであり、朝廷は驚愕します。

しかしすぐに、朝廷側は藤原忠文を征東大将軍に任命し、平将門を討つよう命令を下しています。将門軍1000人に対し、官軍は4000を超える軍勢です。

はじめこそ、地の利を活かした将門軍が有利に戦を進めましたが、時が立つに連れ数にまさる官軍に将門軍は押され始めます。

そして2月14日、官軍と将門の最後の合戦が始まります。この戦では初め官軍が撃破され、2900の兵が逃げ出し、わずかに精鋭300を残すのみとなってしまいます。

しかしここで風向きが大きく変わり、将門に向けて強風が吹き荒れます。そのさなか将門に向けて矢が放たれ、矢は将門の額に命中し、討ち死にしました。

その首は平安京へ運ばれて、さらし首となります。獄門が歴史上で確認される最も古い例が、この将門です。そして、この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱とともに「承平天慶の乱」と呼ばれます。

 

後世の評価とその変遷

平将門
平将門/wikipediaより引用

平将門は関東においては武芸に優れているばかりではなく、世に受け入れられない弱い者を助け、その代弁に努めたという点で、その悲劇的な死と相まって、長い間逸話や伝説として人々に語り継がれてきました。

これは、将門が重い年貢などの負担を強いられ続けた東国の人々の弱者の代弁者として捉えられたためだと考えられています。また、興味深いことに、平将門の評価は、時代によって大きく変わっています。ここでは将門の評価の変遷を見ていきましょう。

 

中世から江戸時代にかけて

中世、平将門の祟りを恐れた民衆は将門を神として祀り、1309年には神田明神に合祀されることとなりました。神田明神は戦国時代の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行いました。

このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視されました。

また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に除かれました。なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地(東京都千代田区大手町)に遷座されたとされています。

これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだといいます。このように、中世・江戸時代においては将門は武運長久の神として祀られ、武将たちからはとても大事にされていました。

 

明治維新後の評価

明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われました。そして1874年には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまいます。一方で明治時代後期になると阪谷芳郎や織田完之らによる将門復権運動が行われました。

 

第二次世界大戦終結後の評価

第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなりました。

そして、1976年には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されています。

 

平将門の数々の伝説

平将門の首塚
平将門の首塚/wikipediaより引用
平将門は数々の伝説を残しています。大きく分類すると10もの伝説があるそうです。ここでは平将門にまつわる代表的な2つの伝説を紹介します。

 

首塚の伝説

平将門の首は言い伝えによると京都の七条河原にさらされていましたが、何ヶ月たっても目を見開き、歯ぎしりしているかのようだったと言われています。

そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放ちながら東の方へ飛んでいったと言い伝えられています。また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいいます。

この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がります。そのなかで最も著名なのが東京都千代田区大手町の平将門の首塚です。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めています。

 

将門一族の伝説

軍記物語『源平闘諍録』によれば、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立しています。

この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を従えましたが、凶悪の心をもち神慮にはばからず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされます。この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられました。

 

平将門の生涯を振り返る

平将門
平将門/wikipediaより引用
いかがでしたか?平将門の生涯を見てきました。平将門は世に受け入れられない弱いものの代弁に努めた、弱者の見方とも呼べる人でした。

困っている人を見捨てておけない性分でしたから、東国において興世王や藤原玄明が庇護を求めると、二つ返事で快諾してしまい、その結果、不本意ながらも朝廷に弓を引くことになったのでした。

そんな弱気を助け強気をくじく将門は多くの民衆に慕われたからこそ、多くの伝説が残っているのでしょう。なかでも首塚伝説はあまりに有名ですね。もし東京大手町を散策する機会があったら是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

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