源頼光を探る!~実在する源氏のヒーロー。蜘蛛退治に鬼退治!?~

『大江山絵巻』 源頼光一行が大江山に住む酒呑童子を退治する場面。
『大江山絵巻』 源頼光一行が大江山に住む酒呑童子を退治する場面。/Wikipediaより引用

いつの世も「怪傑もの」は小気味よく聴こえてくるものです。ここでは、貴族の身分でありながら勇猛果敢な伝説を打ち立てた平安時代のヒーロー、源頼光をご紹介します!

 

源頼光(よりみつ、らいこう)を知ってる?

源頼光
源頼光/Wikipediaより引用

さて、名前を挙げた「源頼光」。どのように読むでしょうか…?そして、どのような人物だったのでしょうか、アウトラインから紐解いていきます。

 

魔物を払う!?源頼光の生涯

源頼光は名前を「よりみつ」、「らいこう」と称します。らいこうと音読みにするのは、魔物を払う雷様・雷公にあやかるためともいわれています。

948年、父は清和源氏の直系・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の女の下に生まれます。20歳前後で出仕、満仲と同じく藤原摂関家に仕え官職を得て財力を蓄えていきました。

990年、42歳の時に関白兼家の葬儀に参列した際、藤原道長の振る舞いに感服し、道長に仕えます。992年、備前(現・岡山県)守に就きますが、遥任の形をとり自らは都に留まっています。

1001年、53歳になり美濃(現・岐阜県、長野県)守兼任の時は自ら現地で治世を行いました。また、正四位下になると昇殿を許されます。

受領として蓄えた財力で藤原道長を支えていきますが、藤原道長の影響力が政権内で強大化すると共に、源頼光が武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになるのもこのころです。

1018年、源頼光が70歳の時に大江山蝦夷追討の勅命を受けて、頼光四天王と共に征伐に向かいます。源頼光が亡くなったのは1021年、74歳の時でした。

 

家紋から見る頼光「桔梗紋」

清和源氏と嵯峨源氏の間に生まれた源頼光。清和源氏の家紋といえば「笹竜胆」が代表的ですね。とはいえ、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝も今回の話題の主人公・頼光も「笹竜胆」を用いていたとは断言できません。

清和源氏・十四氏の1つ源頼光が用いた家紋は「桔梗」と伝えられています。清和源氏の諸氏と土岐氏の一族関係者が用いていたのが桔梗であり、頼光流には美濃の土岐一族が多くいたのです。

ちなみに、桔梗は「更(さら)に吉(よし)」と縁起が良いことから好んで用いられます。後に、桔梗から派生させた紋を太田道灌や坂本龍馬が用いています。

 

「源氏」としての頼光・「多田源氏」

「多田源氏」とは、清和天皇から始まる「清和源氏」において、頼光の父・源満仲を始まりとする摂津国多田(現・兵庫県)の地を本拠地とした武士の系統を指す呼称です。

都の軍事部門を担う貴族である源満仲は、国司として所領の摂津国多田に一族郎党を住まわせていました。郎党を組織化して武士団を作り上げたものが武士の一族として発展した清和源氏一族の拠点となったのです。

源頼光は多田の地を満仲から受け継いだとの説があり、その頼光から多田を相続した子孫は「摂津源氏」とも「多田源氏」ともいわています。一説には「摂津源氏」は京の都で活躍する武士とされ、武士の働きのみならず和歌や文に興じていました。

 

「源氏」としての頼光・「嵯峨源氏」

嵯峨天皇から分かれた「嵯峨源氏」。源氏を祖とする「源氏二十一流」のうち、臣籍降下をした最初の氏族です。源頼光の母は、嵯峨源氏の流れを組む家出身でした。

こちらも、清和源氏の流れと同じく武家源氏の1つで、源融を始祖とする流れにある摂津(現・大阪府)の渡辺氏が代表的な一族です。

渡辺氏の祖である渡辺綱(わたなべのつな)は、後述する源頼光の四天王の1人であり、その筆頭として活躍する人物です。

 

貴族としての頼光「藤原道長の親戚」

天皇に縁のある血筋とはいえ、大貴族ではない源頼光が朝廷で力を持つにはどうすればよいでしょうか?当時、源頼光は受領の階級で仕事をしており藤原道長に仕える家司の立場でした。

一方で、主人である藤原道長の異母兄弟・道綱の妻の父親でもありました。階級は下であっても受領は財力を蓄えることができたので、政治の中枢である藤原家に財力をもって貢献し、中央政権と繋がりを持ったのでしょう。

 

源頼光の四天王を解説

源頼光と四天王(歌川国芳画)
源頼光と四天王(歌川国芳画)/Wikipediaより引用

源頼光には数々の伝説がありますが、1人で活躍したわけではありません。そこには、当時の武将4人が従っていました。ここでは「源頼光の四天王」と称される4人の武将をご紹介します。

 

四天王って何のこと?

そもそも、四天王とはどのようなものでしょうか?「四天王」は仏教用語からきており、東西南北の四方から仏法を守る4人の守護神(持国天・増長天・多聞天・広目天)の総称です。ここから、部下の中で特に優れた4人のことを指すようになりました。

 

1・渡辺綱(わたなべのつな)

嵯峨源氏の祖・源融の流れを組み、正式な名乗りは「源綱」です。彼こそが源頼光四天王の1人であり筆頭の人物です。

武蔵国足立郡(現・埼玉県)の生まれだった彼は養子の身分となり母方の里である摂津国西成郡渡辺(現・大阪府)に居住、渡辺綱と名乗るようになります。

全国の渡辺氏の祖でもあります。平安時代中期の武将で、京都の一条戻り橋の上で、鬼の腕を切り落とす話が有名です。ちなみに先祖の源融は光源氏の実在するモデルとして知られ、子孫である渡辺綱も美男子だったようです。

 

2・坂田金時

平安時代後期の武将である坂田金時。渡辺綱より3歳年下です。宮仕えをしていた坂田蔵人と彫り物師の娘・八重桐との間の子といわれています。

いくつもの伝説を持つ彼は、蔵人亡き後、母と共に都を離れて母の故郷で育ちます。足柄峠を通りかかった源頼光に力量を見出されてその家来になります。

そして55歳の時、賊を討つために九州へ向かう途中の美作(現・岡山県)の地で熱病に倒れ、その生涯を閉じました。

 

3・卜部季武(うらべすえたけ)

うらべすえたけ、と読む平安時代中期の武将。正式な名乗りは「平季武」です。

父の卜部兵庫李国が源満仲に仕えており、源頼光とその母を救った功績から、季武は源頼光に仕えるようになります。

 

4・碓井貞光

平安時代中期の武将で、姓が「平」とも「橘」ともいわれています。「源平藤橘」という、日本の貴種名族のうち2つがその候補なのですね。相模国碓氷峠(現・神奈川県足柄下郡)の生まれで、戸隠神社のお告げにより源頼光に仕えたとされます。

 

番外編・坂田金時は金太郎?

「まさかり担いだ金太郎~」の童謡で有名な童話「金太郎」。坂田金時は、主人公である金太郎ではないか?といわれています。名前から考察すると、金太郎というのは幼名では考えにくく、成人としての通り名の意味合いが強くなります。

例えば「八幡太郎(源義家)」が有名ですね。史実では、道長の日記「御堂関白記」に、道長に仕えた優秀な近衛兵「下家野公時」なる人物が記されており、道長の時代から100年程後に成立した「今昔物語集」には、頼光の家臣として「公時」の名が出てきます。

この100年の間に脚色されたものと考えられます。江戸時代になると、歌舞伎などを通して頼光四天王の中の怪力童子・金太郎の印象が定着しました。他にも日本各地に、金太郎にまつわる伝説が残っています。

ちなみに金時は「金時豆」の名前の由来で、息子の坂田金平は「きんぴらごぼう」の名前の由来となっています。

 

貴族だけど武勇伝!伝承を追う!

土蜘蛛
土蜘蛛/wikipediaより引用

武家貴族の流れに乗る源頼光。化け物退治の伝説をご紹介します。

 

化け蜘蛛退治

能狂言「土蜘蛛」などの基となっている化け蜘蛛退治。高熱に伏せる源頼光の寝所に大きな蜘蛛が現れて、源頼光を絡めとろうとします。

枕元にあった刀「膝丸」で斬り払います。手負いとなった蜘蛛を追い、北野の穴に隠れていたところを鉄串で刺して退治しました。

 

鬼神に横道なきものを。酒呑童子征伐!

大江山に棲む鬼・酒呑童子を討つ話です。一条天皇の命により源頼光と四天王一行が向かう途中、八幡大菩薩から酒呑童子たちを酔わせる毒酒「神変奇徳酒」を賜り、山伏に扮して鬼の居城を訪ねます。

成敗されることを警戒している酒呑童子から詰問されるも上手くかわし、仲を深めたところで毒酒を飲ませることに成功。結果、鬼の寝所で酒呑童子の首を斬り落としました。

首級は源頼光一行により持ち帰られ、帝らが検分した後、平等院に収められました。騙し討ちともいえる英雄伝説です。

 

残党、茨木童子?羅城門の鬼退治

酒呑童子の下から逃げ出した茨木童子。四天王の渡辺綱に成敗されます。

深夜、渡辺綱が一条戻り橋を歩いていたところ、遠方の家まで送ってほしいという女に声を掛けられます。女から茨木童子の姿に戻った鬼に連れ去られそうになりますが、持っていた刀で鬼の腕を斬り落として難を逃れます。

しばらくして、義母に化けた茨木童子が腕を取り返しにやってきます。渡辺綱は騙されて腕を取り返されてしまいました。

実は鬼と舞台が混在する渡辺綱の鬼退治、「平家物語」では一条戻り橋が舞台ですが、謡曲「羅生門」では羅生門が舞台となり、報復しにくる話はまた別の「茨木」という謡曲にて語られています。

 

活躍したよ・・・ライバル藤原保昌

藤原保昌は武勇に秀でた藤原道長四天王の1人で、源頼光の盟友であり、且つライバルの存在でした。

古典「梅松論」「保元物語」などを開くと、酒呑童子を討ったのは源頼光と藤原保昌の両名であったこと、片や酒呑童子征伐の主人公が保昌であったこと等が語られています。

 

保昌の武勇伝「宝生の太刀」

藤原保昌が酒呑童子を討った主人公である話を裏付ける刀があります。

鎌倉時代の武将、千葉氏に伝わる名刀「宝生の太刀」です。京の警護にあたっていた千葉胤宗(ちばたねむね)が、内裏の宝蔵に保昌由来の名刀があると聞きつけ、持ち出すことに成功。

郷里の千葉妙見宮に奉納します。この刀というのが保昌が酒呑童子から奪った「宝生の太刀」だったのです。

 

魔物退治伝承の裏にあるもの

古来、日本に土蜘蛛というものは存在しません。天皇家に反発して穴居生活をする土着の者に対する蔑称が「土蜘蛛」と伝えられています。

鬼や天狗という人の形をとるものは、渡来人や山伏など、一見、異形の者を指していると考えられます。時の権力に逆らう反勢力派の者たちを魔物に結びづけることで、例えば通常の盗賊退治を、権威づけの為に誇張・脚色したと考えるのが妥当でしょう。

 

源頼光の一振り!刀を解説

太刀
太刀/wikipediaより引用

活躍する武将には、名刀がつきもの!有名な三振りをご紹介します。

 

童子切

まず一振り目は「童子切」。名前からして察しがつくのではないでしょうか。大江山の酒呑童子の首を切り落としたのが、この「童子切」です。

「日本刀の東西の両横綱」「天下五剣の内の一振り」であり、現在、国宝に指定されています。平安時代、伯耆国の刀工「安綱」作の大太刀です。

 

髭切

二振り目は大太刀「髭切」。この個性的な名前は、罪人を試し斬りした際に、髭まで一緒に切れてしまった事が由来です。

現在、重要文化財に指定されている髭切は、源頼光の父・源満仲が作らせた刀であり、源氏重代の刀として伝えられています。そして、この刀、何度も名前を変えています。

 

改名1・鬼切

「髭切」最初の改名は、四天王筆頭・渡辺綱の活躍によりなされます。酒呑童子の残党の鬼の腕を一条戻り橋で斬ったことから「鬼切」と呼ばれるようになります。

 

改名2・獅子の子

次の改名は、代を下って源為義の手に渡った時です。夜な夜な獅子の鳴き声のような音を出したので「獅子の子」とその名を改めます。

 

改名3・友切

髭切最後の改名は、同じく源為義の時。髭切と同じ刀鍛冶に作らせた「膝丸」を為義が娘婿に送りました。

元々、膝丸の代わりとしてあった刀「小烏」が獅子の子より長かったのですが、2本を並べて立てかけておいたある晩、誰も触れていないのに2本共に倒れ、娘婿が手にとると同じ長さに変わっていました。

長かった小烏の目貫が2分ほど切られていたのです。これは獅子の子の仕業だろうということで「友切」と呼ばれるに至りました。

 

膝丸

二振り目の髭に続き、三振り目の刀は「膝丸」です。「平家物語」によれば、罪人を試し斬りした際に、膝もろとも切れてしまったことに由来します。「膝切」とも。

こちらも、源頼光の父・源満仲が作らせた刀で、何度も名前を変えています。

 

改名1・蜘蛛切

源頼光が熱病を患っていた際、僧侶に化けた土蜘蛛が寝所に現れ源頼光を絡めとろうとしますが、源頼光は膝丸で斬り払い退治します。これ以来、膝丸は「蜘蛛切」と名前を改めます。

 

改名2・吠丸

次の改名は、これまた源為義の手に蜘蛛切が渡った時です。今度は獅子ではなく、夜になると蛇の鳴くような声を出すので「吠丸」と呼ばれるのです。

 

番外編;獅子王~頼光からつながる鵺退治~

ここで、名刀「獅子王」をご紹介します!源頼光の酒呑童子征伐が縁となりました。源頼光を先祖に持つ源頼政が、妖怪退治の命を受けるのです。近衛天皇の御代、夜な夜な清涼殿に黒い霧が立ち込め、奇怪な鳴き声が響き渡る怪事件が頻発するようになりました。

このため、帝は薬も祈祷も効かない病に倒れ、白羽の矢が立ったのが源頼政その人でした。源頼政が源頼光から受け継いだ弓を用いて黒い霧に矢を放つと、霧は悲鳴を上げて鵺(ぬえ)の姿となり地に落ちます。

帝も回復し、源頼政はその褒美にと天皇家に伝わる「獅子王」という名刀を賜るのです。現在は重要文化財に指定されています。

 

源頼光に縁のある神社はこちら!

多田神社
多田神社/wikipediaより引用

歴史に名を遺す英雄ですから、各地の寺社仏閣にもご縁がありそうですね。主な2つの神社をご紹介します。

 

多田神社

多田神社をご存知でしょうか?前述の摂津国多田にある神社で、六孫王神社(京都府)・壺井八幡宮(大阪府)と共に、「源氏三神社」の1つです。源氏三神社は清和源氏ともっともつながりが深い3つの神社のことで、源氏がもともと畿内を本拠地とすることを表していますね。

源満仲により創建され、以降清和源氏の廟所となります。特に、源氏を名乗る徳川家代々の将軍は多田神社に分骨され祀られています。4月には「源氏祭り」が行われ、源氏の武士がほぼ全員登場する武者行列が見どころの1つです。

 

岸見神社

岸見神社は、源頼光が妖怪退治の成功のため七日七晩祈願した神社です。岐阜県山県市に鎮座しています。英雄も祈願をして向かった相手は瓢ヶ岳(ふくべがたけ/現・岐阜県美濃市)に棲む狒々(ひひ)という猿の妖怪でした。

瓢ヶ岳はコースタイム4時間弱の登山ルートが設定される山です。コースタイムは「休憩時間を含まず、成人男性が10kgの装備を持って無理なく歩ける所要時間」なので、鎧をまとった武将が退治に向かうのは難儀なことだったと推測されます。

伝承では7日目の朝、1羽の雉の知らせにより容易に退治に成功したそうです。

 

橋渡し~貴族社会から武家社会へ~

『大江山絵巻』 源頼光一行が大江山に住む酒呑童子を退治する場面。
『大江山絵巻』 源頼光一行が大江山に住む酒呑童子を退治する場面。/Wikipediaより引用

藤原摂関家の警護を担う源頼光が、多田源氏・嵯峨源氏という武家源氏の潮流に乗り、知恵をもって鬼を退治してきました。

もちろん、魔物退治伝承の裏には、日常、目にすることの少ない渡来人や山伏たちを鬼としたり、時の権力者に逆らう反勢力を異形のもの・鬼にした背景があったことでしょう。

しかし、実際に、「栄華物語」「平家物語」の中で部下と共に宮中の警護に就いていたことや、弓の名手であったことが残されています。伝説に彩られたヒーローである源頼光は、物語の中のみならず確実に武家社会への橋渡しをしていたのです。

 

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