明治時代の流れを詳しく解説!文明開化の音がする!

明治時代は日本の歴史において、大きな転換点となった時代です。鎖国を解いて、西洋の進んだ文化を大いに取り込み、近代国家としての歩みをひたすらに進めました。そんな時代である明治時代の変遷を、この記事では詳しくご紹介します。

 

明治時代の流れを詳しく解説!

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明治は1868年1月25日から1912年7月30日まで続いた時代です。江戸時代までの体制を改め、明治政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築き、西洋の文化を大いに取り入れました。この日本史の大きな転換点である明治時代の流れを詳しく解説していきます。

 

戊辰戦争の終結と明治維新

1867年に江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行いました。これにより朝廷は、「王政復古の大号令」を宣言します。1868年1月には京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こりました(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利した新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、慶喜は大阪城へ退いた後、軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡します。江戸は、大久保一翁や山岡鉄舟の尽力により、新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、戦火を交えることなく新政府軍に占領されます。その後、東北諸藩や旧幕府海軍を率いて函館を占領していた榎本武揚らも、新政府に抵抗しますが、敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は集結します。戊辰戦争のさなかの1868年3月には、天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「五箇条の誓文」を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言しました。その後、五箇条の御誓文を受けて新政府は「政体書」を公布します。太政官の下に上局と下局から成る二院制の議定官が置かれ、上局は議定と参与から、下局は各藩と藩から送られた貢士で構成しました。次いで政府は太政官・神祇官と呼ぶ官吏制度を整えます。このように旧来の政治を一新していった一連の流れを明治維新と呼びます。

 

東京に遷都

幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていましたが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行うにあたって遷都を行おうという声が上がっていました。そこで、世界最大の都市の一つである江戸に白羽の矢が立ちました。江戸は街自体も大きく、諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がないことなどを、江戸遷都の理由として挙げられました。その後、江戸は東京と名を改め、天皇自身が東京に居を移すことで、東京遷都が完了しました。

 

版籍奉還

木戸孝允・大久保利通らは1869年6月17日から25日にかけ、諸大名に命じて領地の領民を天皇に返上させ(版籍奉還)、各藩主は藩知事に任命し、公卿・諸侯の呼称を廃して華族と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て士族としました。また、知事の家禄を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離しました。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は、なし崩し的にに自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化しました。これが、廃藩と封建制度廃止の大きな一歩となりました。

 

廃藩置県と四民平等

廃藩置県の画像
廃藩置県/wikipedia 明治より

1871年7月に明治政府は薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、一挙に廃藩置県を断行しました。これにより全国の261藩は廃止され、3府302県に変わり、日本は中央集権的統一国家となりました。また、身分制度の改革を行い、大名・公家を華族とする華族制度の創設と、武士身分を士族として、農工商民などを平民とし、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民平等政策をとりました。

 

明治国家の形成と日本の近代化

明治政府は1869年に、宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省の6省を設置し、中央集権化を進めます。中でも権限が強かったのが大蔵省で、民部省は後に大蔵省に統合され、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げました。外交では1871年11月12日、不平等条約の改正の交渉と欧米先進国の文化の調査を目的に、岩倉具視を全権大使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣しました。この岩倉使節団は1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問し、その目的の一つであった不平等条約の改正には成功しませんでしたが、政府は西洋文明の実態に触れ、日本の近代化を推し進める大きな原動力となりました。岩倉使節団に参加した大久保利通は、帰国後、内務省を設置し、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立しました。

通信では江戸時代の飛脚制度にかわり、まず三府(東京・京都・大阪)で1871年郵便事業が開始され、電信も1869年に東京-横浜間で開通しました。運輸関連では1872年新橋-横浜間で官営の鉄道が開通しました。文化面では、1872年11月に太陽暦を採用します。文明開化の風潮が高まり、福澤諭吉・西周・森有礼・中村正直らが明六社を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、中江兆民ら新しい思想を説く啓蒙思想家も現れました。印刷技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を始め新聞が次々と創刊されました。そして、全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年「学制」を公布して全国に学校が設立されました。このように明治政府は近代化のための変革を次々と行いました。

 

士族の反乱

氏族の反乱画像
西南戦争/wikipedia 明治より

江藤新平は1874年郷里の佐賀で島義勇と共に不平士族の首領となって反乱を起こしました(佐賀の乱)。政府はこれを鎮圧しましたが、廃刀令や家禄制度の廃止などによって士族の不満はいっそう高まりをみせました。1876年熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と一連の士族反乱が起こり、翌1877年ついに西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げました(西南戦争)。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って九州各地で激しい戦闘が展開されました。戦争のさなか木戸孝允が病死、西郷は自刃し、翌1878年には大久保利通が東京で不平士族・島田一郎ら6名により暗殺されました(紀尾井坂の変)。こうして明治政府の「維新三傑」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権が確立しました。

 

自由民権運動

自由民権運動の共通の目的は国会開設でした。私擬憲法が草案され始め、40編以上が発表されました。イギリス流の二院制の議会政治、人民主権と一院制、君権主義などのように民権派から発表されたものが多くありました。1881年開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、井上毅・伊藤博文・岩倉具視らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派官吏を政府から追放する一方「国会開設の詔勅」を発し、1890年に議会を開設することを国民に約束しました。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、福地源一郎は立憲帝政党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとしました。

 

条約改正問題

幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立と領事裁判制度の撤廃とを実現することが、明治政府の悲願でした。そのため、外務卿の井上馨は、欧化政策を取り、生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとしました。井上は、日比谷に鹿鳴館をたて、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会をしきりに開きますが、残念ながら交渉を有利に進めることはできませんでした。しかしその後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになりました。1894年に外務大臣陸奥宗光はイギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功しました。しかし関税自主権の完全回復は、しばらく後に持ち越されました。

 

大日本帝国憲法制定

大日本帝国発布式
大日本帝国憲法の発布式/wikipedia 明治より

伊藤博文は井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと憲法制定の準備を開始し、1889年黒田清隆内閣の時に、君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が、明治天皇から臣下に授ける形で制定されました。憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されると共に国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれました。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めました。

 

日清戦争

日本は1882年の壬午事変と1884年の甲申政変を契機に朝鮮を巡って清と対立し、甲午農民戦争を契機に1894年日清戦争が勃発しました。当時の国力では清が圧倒的に優位でしたが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し下関条約によって、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾の割譲、賠償金2億両(日本円で3億1千万円)を清に認めさせました。

 

日露戦争

日露戦争
日露戦争の日本海海戦/wikipedia 明治より

日清戦争終了後、ロシアは清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借しました。ロシアの南下政策を脅威に感じる日本は、ロシアの動きを牽制すべく、1902年イギリスとの間に日英同盟を締結しました。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発しました。陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功しました。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅しました。それでもロシア陸軍はなお持ちこたえていましたが、海軍は壊滅状態で、ロシア国内でも革命運動が起こっていたため講和に傾いていきました。日本もまた、経済状況が極めて厳しい状態となっていたため、外相小村寿太郎はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を依頼して講和に持ち込みました。こうして、日本とロシアはポーツマス条約を結び、日露戦争は集結します。

 

条約改正の実現と帝国主義への道

1909年7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定し、伊藤博文はロシアとの会談を行うため満州に渡りましたが、ハルビンに到着した際に大韓帝国の独立運動家によって暗殺されました。1910年には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに日本も帝国主義国家に名を連ねます。1911年には日本はアメリカ合衆国と交渉の末に関税自主権の撤廃に成功します。後にイギリス、ドイツ、フランス及びイタリアとも同内容の交渉を経て、日本は関税自主権の全面回復に成功します。これにより、幕府が西洋列強と結んだ不平等条約を台頭なものに改める条約改正が完了しました。

 

明治天皇にまつわるエピソード

明治天皇
明治天皇/wikipedia 明治天皇より

明治時代を象徴する人物である明治天皇に明治は、さまざまなエピソードがあります。ここでは明治天皇にまつわる2つのエピソードをご紹介します。

 

大の写真嫌いで有名

明治天皇は「大の写真嫌い」として有名でした。そのため明治天皇を移した写真は、あまり遺っておらず、現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものです。

 

無類の刀剣愛好家

明治天皇はまた、「大の刀剣愛好家」として知られています。その代表的なエピソードとして、1881年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したものの、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった、というものがあります。当時としても天皇の公式日程のキャンセルは前代未聞でした。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、自身も「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に帯刀していました。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として名刀の散逸が防がれることとなりました。反面、明治天皇は、刀剣を集めるだけでなく試し斬りを好み、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させてもいます。

 

<まとめ>明治時代とは何だったのか

改めて明治時代とはどんな時代だったのでしょうか。明治は1868年1月25日から1912年7月30日まで続いた時代で、その間に日本はかつてないほどの大変革を遂げたことを見てきました。ご紹介した通り、西洋の新しいものを次々に取り入れ、政治・経済・社会・文化・科学技術等、あらゆる分野で、以前の江戸時代の日本とは見違えるほど、社会が大きく変わります。また、外交面でも著しく日本の地位は上昇し、日露戦争後の日本は西洋列強と肩を並べるほどにまでなりました。これらのことから、まさに明治時代とは日本の歴史において、大変革と飛躍の時代であったと位置づけることができるでしょう。

 

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