マゼランの快挙!世界一周航海を果たした人物に迫る

マゼランは世界で初めて航海によって世界を一周した人物です。16世紀当時の世界では、地球が丸いことが信じられていなかったので、世界の果てへの旅は大変恐ろしいものだと考えられていました。そんな時代に生きたマゼランの冒険に満ちた生涯をこの記事では紹介していきます。

世界一周航海を成し遂げたマゼランの生涯

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航海士であるマゼランは、世界で初めて世界一周の航海に成功しました。当時は世界の果てには恐ろしい巨大な魔物がいて、そこでは一人残らず魔物に食べられてしまうと信じられていました。そのような時代に、マゼランは大胆不敵にも世界一周の旅へと乗り出すのです。ここでは、世界一周に成功するまでの、勇気あるマゼランの生涯を紹介します。

マゼランの生い立ち

1519年までのマゼランの記録は正確な記述は少なく確実なことはあまり分かっていないのですが、1480年ごろにポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族である父ルイ・マガリャンイスと母アルダ・デ・メスキータの間に生まれたとされています。マゼランは、1492年、王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガル宮廷に入ります。このポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の業績を知ることになり航海への関心を深めたと言われています。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を受けて1500年からポルトガルは次々にインド洋へ艦隊を送り出しますが、1505年インド洋の覇権をポルトガルの物にするべくフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊がポルトガルを出発しました。このアルメイダの艦隊に25歳のマゼランは希望して加わり、これがマゼランの初の航海となりました。マゼランの最初の地位は代理士官であり、貴族とはいえ下級貴族出身のマゼランは船室は一般船員と同じ待遇でした。同じ艦隊には弟ディエゴと従兄弟のフランシスコ・セラーンが加わっていましたが、セラーンは後にマゼランの世界周航西ルート開拓の動機に関わることになるのです。

従兄弟セラーンの影響!新世界に興味を持つ
マゼランの従兄弟であり、同じ東洋派遣部隊の将校であるフランシスコ・セラーンは香辛料を求めてポルトガルの最初の香料諸島(現在のインドネシアのモルッカ諸島)遠征に参加しましたが、艦隊は途中で遭難しました。セラーンは孤立しながらも通りかかった中国のジャンク船を奪い香料諸島に到達します。セラーンは香料諸島において島の一つテルナテの王の軍事顧問のような役割をはたし、王の重臣として高い地位と裕福な生活を手に入れます。セラーンは香料諸島に王につぐ地位を持ち滞在しながら、その生活ぶりをポルトガルやマゼラン宛に手紙を書き報告しています。セラーンからの手紙を受け取ったマゼランの心は未知の世界への旅に駆り立てられるのです。

マゼランの北アフリカ遠征

マゼランは、1513年8月にポルトガルの北アフリカ征服の一環であるモロッコのアザムール攻略に参加し、最前線で戦士として戦い戦傷を受け右足が不自由になってしまいました。こののちマゼランは鹵獲品管理担当将校になるのですが、鹵獲品管理担当将校という役職は私腹を肥やすことが可能な役職であったためにマゼランは言われ無き中傷と嫉妬にさらされ、鹵獲品の横流しで私腹を肥やしたとあらぬ疑いをかけられています。鹵獲品の横流しの汚名を着せられたマゼランは無断で帰国し、ポルトガル王マヌエルに無実を訴え、香料諸島への派遣を直訴するが、王はこれを無視し、モロッコへ戻るよう命令します。

ポルトガル宮廷を去る

1515年、北アフリカ遠征から戻ったマゼランはポルトガル王マヌエルに謁見し、その後ポルトガル宮廷を去っています。マゼランがポルトガル宮廷を去った詳細や理由についての確実な資料はありませんが、通説では、マゼランはポルトガル王に2つの依頼をし、拒絶されたからだと推測しています。1つ目の依頼は2度も大怪我をした勤務の功績に対しての月俸の増額です。マゼランが求めた増額の幅はわずかなものであり銀貨1枚分に過ぎず、これは金銭欲からの要求というよりも月俸に宮廷での地位と名誉が象徴される現状で自分の功績を認めて欲しかったからだとされています。しかし、ポルトガル王はこれを拒否します。続いて2つ目の依頼としてマゼランは東洋へ派遣される船の指揮を任せてくれることを求めますが、これもポルトガル王に拒絶されます。2つの依頼を拒絶されたマゼランは、失意のうちにポルトガル宮廷を去っていくのです。

スペインにおけるフォンセカとアロとの出会い

当時、スペインの外洋航海を仕切っていたスペイン宮廷の実力者にロドリゲス・デ・フォンセカという貴族がいました。フォンセカはスペインの植民地の貿易や殖民などの業務を担当する通商院の事実上の最高責任者であり、コロンブスの2回目の航海の準備も担当した人物でした。そのフォンセカの関心事はポルトガルの影響下にない東洋への航路開拓にありました。そのフォンセカに商人アロ(ポルトガルでの地位を失いスペインに移動していた)が接近し、航海者を探していました。そんなときに、フォンセカとアロはデュアルテ・バルボーザの推薦するマゼランの存在を知ります。彼らはただちにマゼランを新たな探検隊の指揮官に推すことに決め、マゼランはスペイン王・カルロス1世の謁見を得て、その航海の計画を説明することになります。

マゼランの任命

スペイン王に謁見したマゼランは、西回りでの香料諸島への渡航計画について、大アジア半島の南に香料諸島・インドへ通じる海峡があること、東回りよりもはるかに航路の短い西回りルートはポルトガル人よりはるかに安いコストで香料を手に入れることができることを自信をもって説明しました(実はマゼランの自信の根拠となるマルティン・ベハイムの世界観はまったくの誤りであったのです)。また従兄弟のセラーンの知らせでは香料諸島はマラッカのはるか東方であることを知らされていました(これも実際の距離よりも誇張されていました)。その情報によって、マゼランの自信を持った説明にスペイン王は納得し、マゼランに艦隊を預ける決断をするのでした。

世界周航の旅へ出発!

地図
航海地図/ Wikipediaフェルディナンド・マゼランより引用

ポルトガル宮廷を離れ、スペインに渡り、スペイン国王より艦隊を預けられたマゼランは、世界一周の航海へ旅立ちます。ここでは、マゼランの航路に沿って、彼の旅を追っていきたいと思います。

出帆!碇をあげよ

マゼランの艦隊は、1519年8月10日にセビリアを出発します。しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港に留まって準備を終え、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立ちます。まず、艦隊はカナリア諸島に立ち寄り、続いて南西に進路を取ります。そして12月13日には現在のリオ・デ・ジャネイロに到着します。

パタゴニアと反乱

リオ・デ・ジャネイロを後にした艦隊は、南アメリカ東岸を南下します。そしてパタゴニア地方のサン・フリワン湾に到達します。パタゴニアの冬は厳しく、マゼランは食料の節約を命じます。しかし、寒い船上での生活はストレスが多く、船員たちの不満は募っていきます。その雰囲気の中でスペイン人幹部が遂に反乱を起こします。反乱者たちは、ポルトガル人船長を拘束し副長を殺してサン・アントニオ号を手中にします。さらにビクトリア号のスペイン人船長も加わって5隻の内3隻が反乱側に付く事態となりました。しかしスペイン人幹部は反乱は起こしたものの、マゼランはスペイン国王の信認で司令官の地位にあるので、そこから引きずり下ろすことに躊躇していました。そうしているうちに、マゼランはすばやく反撃し、ビクトリア号の船長を刺殺して反乱を制圧します。反乱の首謀者を追放し、その他反乱側は鎖につながれ船の補修作業に従事させ反乱を収めました。危うく世界一周の航海が終わってしまうところでしたが、マゼランは反乱を鎮めたのでした。

巨大な太平洋の航海

太平洋に出たマゼランはしばらくはチリ沿岸に沿って北へ進み、やがて北西に進路を取ります。この間、3ヶ月にも渡り、船員たちは食料を補給することができませんでした。そのため、乾パンを食べて飢えをしのいでいましたが、その乾パンにも虫がうじゃうじゃ沸いていて、臭いも強烈でした。また、腐敗して黄色くなった水を飲んで渇きをしのいでいました。このような劣悪な環境のなかで19人の乗組員が死んでいます。そして、餓死寸前のマゼラン艦隊は1521年3月6日に、マリアナ諸島のグアム島にたどり着きます。ここでは、島民に襲われて船の装備品を盗まれるなど散々な目にあい、このグアム島を「泥棒諸島」と名付けてこの地を後にします。そして1週間後の3月16日にフィリピン諸島に到達しました。

フィリピン諸島にて

フィリピンに上陸したマゼランは、フィリピン人が友好的で、秩序ある社会を築き、文化を持っている人々であることを喜びます。そして従者にマレー語のできるものがいて、ためしにフィリピン人にマレー語で呼びかけると、マレー語で返事が返ってきました。ついにマレー人と交流のある地域へたどり着いたことを知った瞬間でした。そしてこの後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプに出会うのですが、コランプはマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能になったマゼランとコランプは親密になり、コランプは食料、マゼランは赤と黄色のトルコ服、赤い帽などを贈りあいました。ここでコランプはマゼランが艦隊を停泊する場所として最適だとして、セブ島を紹介し案内します。4月7日セブ島に到着したマゼランはまず大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王たちの中でも有力であることを見て、熱心にキリスト教の布教を始めます。ここでセブ王をはじめ500人が洗礼を受けました。また、マゼランはセブ王と何度も抱き合うほど親しくなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王たちにもキリスト教への改宗とセブ王への服従を要求するようになります。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのです。

マゼラン死す

セブ島に3週間滞在したマゼランは食料を補給し、多くのセブ島民をキリスト教に改宗させますが、何故か次なる目的の香料諸島へ向かわずに布教活動を続けています。セブ島民を改宗させ気を良くしたマゼランは、しだいに強硬な態度をとるようになり、布教にあたって武力を用いるようになっていきました。一例として、マゼランはセブ島の対岸のマクタン島では、改宗を強要するために町を焼くことをしています。このことでマクタン島民は反感を募らせ、遂に島民とマゼランは衝突して戦闘になります。戦闘は、マクタン島民の軍勢が1500人に対し、マゼランの手勢は60人でした。多勢に無勢ながらマゼランは懸命に戦いますが、遂にこの戦いでマゼランは戦死します。

マゼランの死後の航海

マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たる人物を後継の指揮官にしていましたが、その後継の指揮官も含めて艦隊幹部の多数がセブ王に殺されます。大幅に人員が減り船の運行が難しくなったため、一行はトリニダード号とビクトリア号以外を破棄して香料諸島を目指します。この2隻は迷走しながらも、なんとか香料諸島にたどり着きます。香料諸島では現地の王の厚遇を得て、大量の香辛料を積み込みますが、この香辛料の積み過ぎで、トリニダード号が浸水してしまいます。協議の末に、一行はトリニダード号をおいて、ビクトリア号1隻でスペインを目指し、1522年9月6日にスペインに帰国します。出発時には270人だった艦隊でしたが、スペインに帰国できたのは18人でした。ほぼ3年に渡る長く厳しい航海がこうして終わりました。

<まとめ>マゼランの生涯を振り返る

マゼランの画像
マゼラン/wikipedia フェルディナンド・マゼランより引用

マゼランは世界一周航海の途中で亡くなりましたが、初めて世界一周をした人と呼ばれています。その理由は、マゼランは世界一周の途中、東南アジアで亡くなりましたが、若い頃のマゼランは何度も東南アジアに来ていたため、それらを繋ぎ合わせると世界一周したことになるからです。さて、改めてマゼランの生涯を振り返ってみると、彼はその一生を航海に捧げた人でした。世界一周には考えられないような困難があったことでしょう。当時は世界の果てには巨大な怪物がいて、一人残らず食べられてしまうと信じられていた時代です。そんな時代に世界一周へと旅立ったマゼランの勇気は、これからも人々から讃えられていくことでしょう。

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