石田三成の生涯について。関ケ原の西軍大将の人生を総まとめ

石田三成といえば関ケ原の戦いですが、関ケ原に至るまでは豊臣家の奉行として検地の実施や秀吉と島津家、毛利家の仲介役、文禄・慶長の役への参戦など、様々な戦役や政治の出来事に関与しています。この記事では石田三成が行った事とその結果、関ケ原の敗戦の理由などを紹介していきます。

石田三成の歴史

石田三成の画像
Ishida Mitsunari wikipediaより引用

石田三成は1600年に起きた関ケ原の戦いで西軍大将となり、徳川家康の率いる東軍に合戦の末敗れて処断されたという出来事の印象が強い人物です。実際に西軍の総大将となったのは毛利輝元であり、石田三成は輝元に直接交渉を行っていますが総大将ではありません。関ケ原の戦いより以前は豊臣家に仕え、一介の武士から佐和山城主まで上りつめた実績を持つ優秀な政治家であったとされます。石田三成の生涯と人物像について紹介していきます。

 

誕生から羽柴秀吉への仕官まで

石田三成は1560年に近江国の石田村で、石田正継の次男として誕生します。1574年に羽柴秀吉が織田信長の臣下として地位を固めた頃、正継と兄・正澄と共に秀吉へ仕官します。当初は小姓として秀吉の世話人となっていましたが、1577年に秀吉を責任者とする中国地方侵攻が行われた際には、これに従軍しています。この中国地方の戦闘は1577年から凡そ6年、1582年に本能寺の変によって信長が没するまで続けられたとされます。

 

秀吉の治世における三成の功績

信長が没して以降、次に豊臣秀吉が台頭していきます。その動きに合わせて三成の立場も良いものとなっていき、1583年に起こった賤ケ岳の戦いでは先鋒を任され、武功を挙げたとされています。1585年に秀吉が関白の座に就いた際には4万石の大名に就任しています。その後も経済の要衝である堺の奉行へ任命され、自治権を持つ独立拠点である堺を平定して自軍の後方拠点として獲得しています。のちに秀吉が九州攻めを行った際には三成らによる迅速な後方支援が早期勝利に繋がったとされています。九州獲得後は博多奉行へ任命され、戦後復興を支援しています。1590年には大規模な戦役である小田原征伐において忍城への侵攻を担当しましたが、水攻めの失敗によって戦闘が長期化し、征伐の主目的である小田原城が落城した後も忍城は落ちず、結果として戦後の講和によって開城されました。この出来事をもとに三成を戦下手とする説もありますが、このとき攻城手段を決めたのは秀吉であり、三成は方針に従ったのみともされています。戦後においては常陸国の佐竹義宣を秀吉へ取り次ぎ結果として協力関係を増やし、太閤検地の一環として奥州の検地奉行を任されるなど政治面において大きな実績を挙げています。1592年には京都奉行に命じられますが、同時期に秀吉によるキリシタン弾圧の指示が発されます。三成もこれに従事していますが、この際に捕らえるキリシタンの数を京都奉行の職権をもって極力減らし、処分を軽くするように秀吉に交渉するなど無用な処罰が行われないように尽力しています。その結果として捕らえられた信徒の数からこの出来事は”日本二十六聖人”と呼称されています。

 

石田三成と諸大名との対立

1592年に起こった秀吉の朝鮮出兵、文禄の役で三成は総奉行へ任命されます。激戦を含む幾つかの戦闘に参加し、講和の際には明の使者を伴って帰国するなど戦役において多くの事象に関与しています。この戦役の最中、明軍が参入した事を受けての軍事合議が開かれています。このとき遠方のオランカイで女真族と交戦していた為に合議に遅れた加藤清正を三成が咎めます。オランカイ進攻は”八道国割”という連合軍の隊を分ける取り決めに基づいたものであり、以前にも清正以外の苦戦により威鏡道からの撤退を強いられていた不満もあって両者は対立します。この合議で進攻の延期と秀吉の朝鮮入りの中止が決定され、日本軍と明軍に50日の休戦協定が締結されました。協定の後に両軍は衝突しており、碧蹄館の戦いを経て講和へと至ります。このとき三成は大谷吉継・増田長盛と共に明の使者を伴って帰国しています。この振る舞いが好戦的な武将の反感を買うなど、三成と対立する武将が増え始めます。一方で秀吉からの信頼は厚く、1595年には31歳の若さで19万4000石の領地と共に佐和山城を与えられました。二度目の朝鮮出兵、慶長の役においても後方支援を命じられ、豊臣軍の戦勝に貢献しています。この出兵においては蔚山城の戦いが有名です。連合軍は大勝を収めますが、戦役の後に蜂須賀家政、毛利秀元ら現地の武将から戦線縮小の提案が行われ、加えて家政と黒田長政が敵前逃亡をしたとの噂が秀吉の下へ届きます。広がり続ける戦線が崩れる事を懸念した意見であり、敵前逃亡についてはあくまでも噂とされています。戦線縮小案に対して秀吉は否定的であり、提案を早期に却下しています。敵前逃亡に対しては憤慨し、両方に名の出た家政に対しては自国領への逼塞処分を言い渡します。
一方で噂を知らせた者には褒賞を取らせています。このとき報告を行ったのが三成の縁者である福原長堯などであり、福原長堯を家臣に持つ三成も新たな役職や領地を受領しています。処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政は処分を不服として三成との対立を深めています。
秀吉の病没によって1598年に朝鮮出兵が停止され、戦後処理に入ってからも三成などの穏健派と加藤清正などの武断派による対立は続き、両者の間で緊張が高まっていました。この状況の中で起こった出来事が関ケ原の戦いへとつながっていきます。

 

 

関ケ原の戦い

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東軍と西軍が争う一大決戦としての関ケ原の戦いは1600年に起こっています。西軍の総大将は当時の五大老のひとり毛利輝元であり、東軍の総大将は徳川家康なのは有名な話です。
三成らが家康と対立するまでの経緯や両軍へ諸将が集まる過程を大まかに解説すると共に、
関ケ原の戦いの経過や諸説、結果から戦後の経過などを解説していきます。

 

石田三成襲撃事件

戦後処理をめぐって緊張が高まる中、家康が武断派の大名達に話を通し、私的に自らの縁組を模索している事が明るみに出ます。成立すれば大名間の力関係が家康に傾くのは確実であり、この行動が秀吉の策定した御掟(おんおきて)に背いているとの理由から、前田利家などの諸大名が家康追及に乗り出します。御掟は豊臣五大老で均衡を保ち、誰か一人が突出しないように取り決めたものであるとされます。秀吉が没したことで実質的な効力が途切れて半年での行動であり、追及を受けた家康が公的な謝罪文を発表することで一旦解決しています。この約二か月後に利家が病没して間もなく、石田三成が加藤清正、細川忠興などの将軍七名に屋敷を包囲される事態が起こります。包囲の理由としては、朝鮮出兵において三成の縁者である福原長堯が秀吉に歪曲した報告をして不当な処分を受けさせた事への報復などが挙げられます。三成は事前に察知して屋敷を脱出しており、武断派の目を潜り抜けながら伏見城にある自邸へ入ります。伏見城の天守閣は家康の居城であり、三成を追ってきた諸将に対しても家康が仲裁を行い、平和的解決の交換条件として三成の隠居処分と蔚山城の戦いにおける処遇見直しを約束しました。このとき三成が伏見城に入ったのは島左近の進言によるものという説があります。これにより三成は奉行職を解かれて佐和山城へ封じられます。

 

合戦に至るまでの背景

三成襲撃事件から数ヶ月後、家康は秀吉の後を継いだ秀頼に節句のあいさつを述べに大坂城を訪れます。その最中で前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が立ちのぼり、家康の耳に届きます。家康は加賀征伐の指令を出し、諸大名へ決起を促します。この動きを知った利長は
無実を主張し、結果として江戸へ前田利家の正室であった芳春院を人質として置くことで事態は収拾されました。徳川家が対立している前田家を退かせる形となり、家康の権勢は更に拡大します。家康は引き続き大坂城に居住を続け、城内から独断で領地転換を行い、自らの権力が強化されるよう加増や減封を行ったとされます。蔚山城の戦いで秀吉に不当な報告を行ったとして、福原長堯らに対する減封もこの時行われています。当時けん責された蜂須賀家政、加藤清正、小早川秀秋などに対しても処分の撤回が行われました。権勢の拡大を続ける家康に対して三成は当初協力的でしたが、豊臣家の居城である大坂城を体よく活用されている状態が続き、次第に不満が募ったと思われます。やがて上杉家が徳川家と対立したのを機に自らが決起します。

 

三成の決起から西軍が整うまでの過程

自国の城の改修や橋の整備を行う上杉家の動きを家康は謀反の計画とみなして警告し、不服がある場合は自分の所へ来て申し開きするよう求めます。これを受けた上杉家の家臣、直江兼続は家康の話を正面から否定し、徳川家と対立する姿勢を明らかにします。上杉家は120万石の有力大名でしたが、徳川家は250万石を超す権勢を持っていました。直江兼続は実直な武将であり、力関係を考慮しない挑戦であったと言えます。豊臣秀頼に上杉家征伐を具申し、承認された家康は大義名分を得て大坂城を出発します。これと入れ替わる形で三成が大坂城へ入り、大谷吉継を招いて決起勢力に引き入れます。大谷吉継は三成と長年の交流があり、互いの信頼の深さを表す伝承も複数存在しています。250万石の徳川家に対して19万4000石の三成では不安であるとの指摘を行ったともされます。これに同意した三成は豊臣五大老の一角である毛利家の外交担当、安国寺恵瓊(えけい)を説得し、恵瓊を伴って毛利輝元に西軍の総大将になるよう説得に臨みます。毛利輝元は120万石の有力大名であり、三成とも親交のある相手でした。毛利家の家臣団は強固に反対意見を打ち出しますが、輝元は三成らの熱心な説得に応じ、総大将としての参加に同意しました。三成自らが総大将にならなかった理由としては、家康と対決するにあたって可能な限り有力な人物を対抗に立て、多くの中立勢力を引き入れる狙いがあったと思われます。これに並行して三成は豊臣秀頼への出陣を幾度か要請しています。豊臣家と徳川家の決戦という形を強く打ち出す狙いがあったと思われますが、この要請は秀頼の母方である淀君の反対によって却下されています。
その後も豊臣五奉行である長塚束家、毛利家に仕える猛将である吉川広家など多くの有力者と直接交渉を行って自軍に引き入れたのち、1600年7月に家康打倒の計画を「内府ちかひの条々」として公表します。この書状には三成から見た家康の問題行動が書き連ねられていたとされ、西軍への参加を促す目的で全国に内容を触れ回ったとされます。この時点で家康は上杉家征伐のため会津に向かっており、居城である伏見城は手薄の状態でした。こうして決起の準備が整った三成は挙兵し、伏見城への進軍を開始します。

 

開戦から緒戦の経過

この頃になると三成の決起を家康も把握しており、会津征伐の協力を依頼していた最上義光
へ侵攻を撤回する書状を送り、自身も三成の居城である佐和山城への進攻準備を始めます。
伏見城へ進軍を開始した時点での西軍の勢力は1万人ほどでしたが、その道中から合戦が開始してからも全国各地からの援軍が到着を続け、対する伏見城は1800人ほどの無勢だったとされます。結果として伏見城の戦いは西軍の大勝に終わり、伏見城は炎上した上に東軍の兵は壊滅したとされます。その数日後に三成は佐和山城へと戻り、家康も江戸城へ戻っています。石田三成は開戦に先がけて東軍の武将の家族を人質にとるなど西軍有利になるよう画策していましたが、これは却って東軍の士気に油を注いだとの説が有力です。
次に西軍の織田秀頼の有する岐阜城へ福島正則が攻撃を仕掛け、東軍が早々に秀頼を降伏させます。加えて救援の三成隊も退けられ、岐阜城は落城します。早期決着の理由として、岐阜城は徳川家の居城であった時代が長く、防備や構造が熟知されていた事が原因と思われます。東軍が岐阜城で殆ど止まらなかった事は三成にとって誤算であり、痛手といえます。戦勝を知った家康は勢いづき、8月末に江戸から関ケ原に出立する準備を始めます。西軍も関ケ原への進軍を続けており、9月14日には両軍の主力が関ケ原近辺に参陣します。この時の
西軍側の伝承として、島津義弘が赤坂に布陣する家康への夜襲を提案しますが島左近に反対され、その意向を受けた三成が却下するというものがあります。
1600年9月15日に東軍と西軍が対峙し、主力同士の戦闘が起こります。数的には東軍10万に対して西軍8万余りであったとされますが、士気の高さや戦場を見渡せる位置への布陣などで優位であったとされます。また、家康は関ケ原に3万5000人を率いて参陣していますが、
長雨などで9月15日に間に合わなかった軍が約4万人居たとされています。そうした事情もあり、データとして見れば西軍の勝算は低くなかったと言えます。しかし大規模な合戦の開始と同時に松尾山に布陣していた小早川秀秋などが東軍に寝返り、西軍は1日のうちに敗走して大谷吉継ら多くの武将が討ち取られました。小早川秀秋は1万5000人を率いる武将であり、布陣した場所も三成の側方にある松尾山であった事から影響は大きく、相次いで他の武将が寝返った事で勝敗が決したといえます。大谷吉継は裏切りを予測していたとされ、万が一に備えた手勢を確保していました。小早川軍が大谷軍へ掛かった際には即座に対応し、一時は小早川軍を抑え込んでいます。この時の吉継の誤算として、芋づる式に他の武将が寝返ったことが挙げられます。追撃の為に突出した時に四人の武将が東軍に寝返り、大谷軍は敗走します。このとき小早川が裏切った理由には諸説あり、有名なのが煮え切らない小早川軍へ家康が鉄砲を撃ち込んだというものですが、十数万人が交戦する関ケ原で遠方からの鉄砲1発が寝返りを決心させたとは考えづらく、有力な説とは言えません。他には、朝鮮出兵における三成との対立があったという説もあります。小早川秀秋は過去に豊臣家の養子であった事がありますが、豊臣秀頼の誕生によって養子を解消されています。その後蔚山城の戦いを機に59万石の所領を15万石まで減封されており、秀吉の死後に家康によって59万石に挽回されています。そうした背景もあり、心持ちは最初から東軍寄りであったと言えます。伏見城の戦いの時点で東軍に与しようとしたという俗説もあり、家康の説得に応じて寝返った事は妥当とも言えます。戦勝した家康は佐和山城へと進軍し、二日後には攻め落としています。その後に毛利輝元は大坂城を退去し、家康と領地安堵の交渉を行い、成立させています。しかし大坂城から輝元が西軍を指揮した書状が見つかり、戦への不参加を条件とした領地安堵は翌10月に破棄されています。

 

石田三成の最期

敗走した石田三成はまず伊吹山に入り、さらに東の相川山を経て春日村へ逃れます。その後に新穂峠を迂回して姉川に到着します。そこから曲谷を出て七廻り峠を経たのちに草野谷へと至ります。三成の逃亡は続き、9月21日には自身が支援していた古橋村を頼ります。古橋村には三成の母の位牌を収めた菩提寺である法華寺があり、所縁のある場所に身を隠したとされます。しかし東軍の田中吉政が率いる追捕隊が、三成を見つけた暁には村の年貢を永久に免除する、匿っている者は同罪とすると訓告を行い、村人を案じた三成は自らの居場所を明かします。その後は大津城に移送され、27日に家康と対面しています。このとき、西軍の敗戦は恥じるものではない、と評した家康に対し、早々に首をとれ、と三成は返しています。この潔さを家康は称賛しており、処刑の前には身なりを整えるようにと小袖を送らせています。三成はその後大坂、京都の順に罪人として市中引き回しを受けています。そして10月1日に六条河原で斬首に処せられました。このときの道中に残る伝承として、水を所望した三成に徳川の武士は手近な柿を渡しますが、腹を冷やすから不要である、と退けています。斬首の道中で身を案じるとは、と嘲笑されますが、”大将とは一度や二度の敗戦で諦めず大業をなすものである”という旨の言葉を返したとされます。辞世として「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」という句を残しています。

 

 

石田三成の人物像

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石田三成は関ケ原の戦いと邸の襲撃事件の印象が強く、対立していた武将からの悪評がそのまま人物像として認識されやすいかと思います。その際に抱きやすい印象と思われる「頑固な野心家であり、理屈で物事を決める人物」という印象に反する伝承も多く存在しています。ここからは三成の歴史や伝承から実際の人物像を推測、紹介していきます。

 

後世の印象と実際の性格

石田三成は関ケ原の戦いにおけるイメージから野心家という印象が目立ちますが、記録や伝承には武勇より政治、後方支援で実績をあげたものが多く、秀吉存命時には豊臣五奉行の一角として地方外交の調停、毛利家・島津家といった有力大名との良好な関係の構築などに尽力しています。これら一連の実績は秀吉から高く評価されており、二度目の朝鮮出兵の際にも国内からの下支えを任されていたことからも文官寄りの性格であったといえます。豊臣政権下では奉行という立場上から間違いに厳しく、几帳面であった事がうかがえます。加えて、三成と親交があり、関ケ原においては西軍総大将を務めた毛利輝元は三成を「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候」と評しています。「大かた心得にて候」は、大変に気を遣う、という意味であり、あまり好意的ではない印象を受けます。実際、関ケ原において輝元自身は西軍が壊滅するまで大坂城を動かず、後方指揮に徹しています。西軍が勝利すると見ていれば自ら出陣して武功を積むのが自然であり、三成に心から惹きつけられた訳ではないと見れる事からも三成の問題点がうかがえます。毛利輝元だけではなく豊臣派の武将の多くが東軍に内通もしくは所属しており、上杉景勝や増田長盛など話の上では西軍に与しながらも関ケ原には参陣しなかった武将も多く居ました。こういった流れに関しては家康などによる根回しが大きく関係していますが、三成自身は優秀な副官といえる性格であり、トップとして西軍をまとめ上げるタイプではなかったともいえます。実際に豊臣秀頼へ大将を頼もうとするなど強いトップを立てようとする機知を巡らせていますが淀君に断られ、毛利輝元には実質的に家康を優先されるなど器用さが欠けていた為に西軍をまとめられなかったのが三成の欠点であり敗因と思えます。

 

有名なエピソードから受ける印象

石田三成といえば”三献の茶”や渡辺新之丞や島左近の登用といった逸話が有名です。まず最初に”三献の茶”というのは三成と秀吉の初対面における話であり、秀吉が鷹狩りの道すがら
滋賀県の観音寺に立ち寄った際、坊主の佐吉(石田三成の幼名)に茶を所望します。汗だくの秀吉を見た佐吉は温いお茶を大きい茶碗に満たして提供し、次には少し熱いお茶を中ほどの茶碗に注いで渡し、最後は熱いお茶を小さい茶碗に味わう程度に注いで渡したとされます。
このように三杯のお茶を飲み干した秀吉は佐吉の心遣いに感心し、佐吉を登用したとされます。
次に渡辺新之丞を登用する際の逸話として、当時500石で登用されていた三成が渡辺新之丞を登用したという話が秀吉に届きます。渡辺新之丞は名高い武将であり、柴田勝家からの1万石での誘いを受けて断っています。次いで秀吉が2万石での登用を持ちかけましたが「10万石は欲しい」と断られています。秀吉は不思議に思い、三成に新之丞を如何様に説得したのかを尋ねます。三成の回答は”自身の500石を全て新之丞に与えた。そのため今は自分が新之丞の居候である”というものでした。これに秀吉は驚き、大いに笑ったとされます。また、三成が100万石となった暁には10万石を与えるとの約束も交わされていたとされます。この後に三成が19万4000石と佐和山城の主となった際にも500石であり、三成は加増を提案しますが新之丞は”三成が100万石になるまでこのままで良い”と固辞したとされます。この後、終生500石で使えたと言われています。
この後に島左近を登用した際の逸話として、当時4万石へと出世した三成はどのような家臣を揃えたのか、と興味を持った秀吉が尋ねると、”島左近という者1人のみを登用した”と返ってきました。島左近はかつて筒井家に仕えて椿井城の主となった名将であり、年齢も三成より20歳上という武将です。仕えていた君主が没してからの仕官話は全て断っていたとされます。どのように説得したのかと秀吉が尋ねると”2万石を与えるという条件で説得した”と返ってきました。二万石は三成四万石の半分にあたり、それを受けた島左近は三成と同じ石高という事になります。家臣1人と君主が同格扱いなど聞いたことがない、と秀吉は三成の所業に感心したとされます。もっとも、島左近が登用されたのは佐和山城を所有してからという説もあり、半分を与えたというのは後世の創作である可能性があります。いずれにしても厚遇であり、秀吉も島左近へ直々に羽織を贈って三成へ忠義を誓うよう話したとされます。それほどの名将であり、『三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城』という言い伝えは有名です。登用後に三成から加増を提案された際には断っており、単に高い石高だから受けた訳ではないとも思われます。島左近は三成の領地の検地、税収を担当しており、重用されたことが分かります。関ケ原の戦いでも先鋒を務め、果敢に攻め込んで黒田長政の隊を退けています。劣勢でも勇猛に攻め立ててくる様を見た東軍から「鬼左近」と評されたともいわれています。
登用の話は表面だけ見ると考えなしに物で釣っている様にも見えますが、二人とも登用後の加増を断っているところから三成には一定のカリスマ的魅力があったと考えられます。三献の茶は三成の他者への配慮を表す逸話であり、豊臣五奉行となってからの冷淡な印象とは違った一面がある事がうかがえます。ただ実際に秀吉の朝鮮出兵の際に突出した加藤清正を批判し、自身は和睦の使者を伴って帰国した様が他の武将から反感を買うなど政務重視で配慮に欠ける部分があるのも事実です。後に起こった石田三成襲撃事件の原因も朝鮮出兵での
細かいことを大きく報告されたという不満がもとであり、他者と協調する事は考えていなかった、もしくは苦手であったと思われます。
石田三成にとっての親友といえば大谷吉継が挙げられますが、この二人に関連する伝承も存在しています。大谷吉継は皮膚の病を患っていたとされ、当時は接触感染すると誤認されていました。茶会に二人が参じた際、吉継は茶碗に口をつけるフリだけで次の人に渡そうとしましたが、折り悪く顔から出た膿が茶碗に落ちてしまいます。他の武将は顔を引きつらせ、一様に飲むフリだけで茶碗を回していきます。そんな中で三成が茶碗をつかみ取り、茶を一気に飲み干しました。この気概に感服した吉継はこれ以後三成と親交を深めたとされています。この際に茶を飲んだのは秀吉という説もありますが、関ケ原の戦いにおいても最初に協力を受諾するなど親交の強さはうかがえます。二人の親交を表すものとして、大坂城での会議の際に吉継が発した言葉から三成を評した部分を引用します。「世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く一方、家康は下々の者にまで礼をもって接するので人望がある。次に石田殿には智はあっても勇足りないと見える。智勇二つを持ち合わせねば事は成し遂げられないだろう。」
三成の人格と人徳を強く批判しており、吉継でないと指摘できない事とも言えます。この印象が事実であるとした場合、それだけ遠慮なく言い合える関係であったと推測できます。とはいえ三成を否定する言葉を聞き入れて豊臣秀頼や毛利輝元を頼っている事から、当人にも横柄であるという自覚はあったように思われます。

 

三成の関ケ原の戦いでの敗因

関ケ原の戦いにおける両軍の兵力には諸説ありますが、西軍は約8万人、東軍の実戦力は約7万4000人と決定的な差はありません。毛利輝元や吉川広家など多くの有力者が西軍に所属しており、机上の比較では西軍有利とも言えます。実際には家康の根回し活動によって1万5000人を率いる小早川秀秋が戦場で寝返り、西軍総大将であり2万人を擁する毛利輝元も家康が勝つと踏んで毛利家の領地安堵を図っています。この方針は毛利家の補佐である吉川広家の提案とされており、西軍の主力武将の多くが早期に家康の話に乗っています。他にも朝鮮出兵における対立から黒井長政や蜂須賀家政が東軍に属し、三成と対立していた事から東軍に属した、或いは内通した豊臣派の武将も多く居るとされます。寝返りや内通を考慮した上で双方の兵力を出すと、少なくとも東軍9万人、西軍4万人ということになり、数の上で勝敗が明らかになります。三成の決起から岐阜県関ケ原に至るまでの緒戦は西軍有利であったとされますが、家康が上杉家征伐を切り上げて指揮に戻ってからは諸将の寝返りが続き、関ケ原での戦いは東軍の勝利に終わっています。三成の頑固な姿勢が関ケ原の戦いでの敗戦に繋がったといえます。

 

三成の旗印と家紋

石田三成といえば”大一大万大吉”が有名であり、戦場において石田軍の甲冑や三成の正装である裃に記されていたとされます。しかしこれは戦場の旗印であり、家紋ではありません。
この旗印は備後山内氏も使っていたとされます。山内氏は毛利家と備後を争った有力大名であり、やがて安芸国で毛利家の配下となってからも長く存続したとされます。”大一大万大吉”という言葉は一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下は大吉となるという意味があります。石田氏の家紋としては九曜紋が使用された記録があり、他にも桔梗紋が使用されたといいます。

 

 

<まとめ>

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石田三成は豊臣秀吉の小姓から豊臣五奉行の1人まで昇格し、兵站の維持・管理や太閤検地の担当で成果を挙げたほか、佐竹義宣や島津義弘、上杉景勝といった有力者を秀吉へ斡旋するなど政治面で多くの功績を残しています。徳川家康が台頭してからも豊臣派の代表格として自ら決起し、関ケ原の戦いを起こしています。奉行という立場から道理を重視して他の武将への注意や批判、将軍家への報告をする事から武断派の武将とは頻繁に対立しており、その因縁が自邸の襲撃事件や関ケ原の戦いにおける失敗に繋がっています。冷淡で狭量である印象が目立つ人物ですが、関ケ原など目につきやすい出来事以外で何をしていたか等に目を向けると、違った印象を受けるかと思います。

 

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