王妃マリーアントワネットってどんな人?悲劇の生涯を総まとめ!

フランス革命の犠牲者であるマリーアントワネット…当時なぜ彼女は民衆から嫌われ、王族であるにも関わらず処刑されなければならなかったのでしょうか?大まかなことは知っているけど、彼女がどんな人生を歩んできたのか、又は彼女の影響力など、詳しいことは知らないという方も多いのではないでしょうか?そんな方々に向けて、彼女の生涯や彼女が生み出したものについてご紹介しようと思います。

 

マリー・アントワネットの人生

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私たちが知っているマリー・アントワネットは「絶世の美女」といわれていますよね。肖像画では美しい顔立ちのもの数多く存在します。はたして、本当に美しかったのでしょうか?また、フランス革命が勃発して死刑を宣告されてしまうことも有名ですが、処刑されるまでの彼女の人生は、幸せなものであったのでしょうか?彼女が生まれてから処刑されるまで、どのような生活を送っていたのか詳しく見ていきましょう。

 

マリー・アントワネットのプロフィール

マリー・アントワネットの人生を見ていく前に、まずはマリーアントワネットのことを詳しく知ることにしましょう。以下の表に、簡易的なプロフィールをまとめましたので、ご覧ください。

 

名前 マリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ・ド・アプスプール=ロレーヌ・ドートリシュ
本名 マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
父親 神聖ローマ皇帝フランツ1世
母親 オーストリア女大公マリア・テレジア
出身地 オーストリア首都ウイーン
生誕 1755年11月2日
性格 純情な反面、軽率でわがまま
時代 フランス革命
死没 1793年10月16日
享年 37歳
死因 ギロチンによる処刑

まず、彼女のフルネームの長さにビックリしますね。本名も結婚後の名前も長い理由は、本人の姓名以外にも「歴代つけられる名前」や「親の名前」はたまた「叔父や叔母の名前」なども名前に組み込む風習がみられることから、このように長い名前になってしまうようです。

他、いたって有名な出来事ではありますが、フランス革命によって彼女は、ギロチンで処刑されてしまうのですが、当時の年齢が37歳と、意外と若かったことに驚きますね。

 

マリー・アンアントワネットの容姿

マリー・アントワネットの容姿を想像させる、多くの肖像画が残っていますが、実際とはだいぶ違っていたようです。

まずは、体系ですが、身長:154㎝、ウエスト:58㎝~59㎝、バスト:109㎝と小柄ではありますが、抜群のスタイルだったことがわかります。

次に、肝心のお顔ですが、額がかなり広く、顎も長く若干しゃくれていたようです。鼻も特徴的で鷲鼻(わしばな)だったといわれています。

ご想像いただけましたでしょうか?あのナポレオンも、画家に多くの注文をつけ、理想の自分の肖像画を描かせたといいますから、マリー・アントワネットの肖像画もある程度、注文をつけて描かせた可能性が高いです。しかしながら、彼女の容姿が忠実に再現されている可能性が高いものが胸像といわれる、胸から上だけの像です。それは、現在ルーブル美術館に保管されていますので、もしルーブル美術館に足を運ぶ際には、実際のマリー・アントワネットのイメージを踏まえながら、観てみてください。

 

生まれてから王太子妃になるまで

マリー・アントワネットは、5男11女の大家族のもと、11女として生まれました。彼女の家は名門ハプスブルグ家であり、その時点で彼女は王女だったのです。彼女の育ったハプスブルグ家は、みな仲が良く、幼いころから家族そろって狩りをしたり、オペラやバレーを鑑賞していたとされています。

彼女が13歳のころに、母マリア・テレジアは、フランスとの同盟を深めようとし、娘を政略結婚させることを考えます。当時、その候補は、マリー・アントワネットの一つ上の姉マリア・カロリーナでした。しかし、そのもう一つ上の姉マリア・ヨーゼファが、ナポリとの政略結婚目前に、天然痘にかかり死去したため、その代わりにフランスとの政略結婚の候補であったマリア・カロリーナを代わりに結婚させました。そのため、フランスとの政略結婚に空きができてしまったので、最終的に選ばれたのがマリー・アントワネットです。

1763年に始められた政略結婚の交渉は、とんとん拍子で進んだわけではありませんでした。フランス側の両親、王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスが、猛反対してなかなか交渉は進まなかったのです。しかし、交渉開始の2年後に父ルイ・フェルディナンが死去したことで、ルイ15世によって交渉が進められます。そして、1770年5月16日ルイ・オーギュストとの結婚が認められ、マリー・アントワネットが14歳の時ヴェルサイユ宮殿で挙式が行われました。

 

フランス宮廷での暮らし

王室で生まれ育った彼女は、気品や教養においても申し分ない王太子妃でした。夫ルイ・オーギュストとは政略結婚で結ばれましたが、夫婦の仲は良かったそうです。彼女が王太子妃の頃に賭博に熱中していたことから、彼女が浪費癖があることが噂され始めました。しかし、そんな浪費癖が垣間見える中でも、彼女は宮廷内でカンパを募り、恵まれない者たちへ寄付していたそうです。

結婚から7年経ち、やっと子供に恵まれたことで、彼女の賭博行為はピタリと止み、無人だったプチ・トリノン宮殿で、子供たちとのんびりとした生活を送るようになります。

 

王妃としての暮らし

1774年に夫がルイ16世として即位したことにより、彼女は王妃となります。王妃として権力を握った彼女は、昔からのベルサイユ宮殿の習慣や儀式の数々を廃止させたり、緩和させました。しかし、この中でも、地位によって便器の形が変わることなど、貴族のステータスとも言える事柄まで廃止され、貴族からは反感も買ったようです。

この頃、地味な印象のあるルイ16世を見下していた彼女は、「スウェーデンの貴族と恋愛関係にあるのではないか?」と宮廷や国内で噂されていました。

そんな、あまりよくない噂や、浪費癖があるという噂から、彼女の名前を悪用するような事件まで起こったといいます。

 

運命を分けるフランス革命・勃発

1789年に、フランス国内では、王が絶対的権力を握ることに対する民衆による反乱が起こるようになります。これが有名なフランス革命です。

彼女は家族でパリ脱出を計画しますが、足は遅いが大きいベルリン馬車を使いたい、銀食器を持っていきたい、など彼女のわがままを全て受け入れたが為に、計画は失敗し、パリへ連れ戻されてしまうのです。

連れ戻されてしまった一家は、タンプル塔に幽閉されてしまいます。幽閉生活とはいえ、彼女には必要なものを与えられたり、家族で過ごす時間を与えられたり、待遇は悪くはなかったようです。

 

マリー・アントワネットの革命裁判

1793年1月には、夫であるルイ16世に死刑判決が言い渡され、刑が執行されています。1793年8月2日に、既に王位継承でルイ17世となった息子と引き離され、彼女だけコンシェルジュリー監獄に移されます。

その後、彼女の革命裁判が執り行われますが、彼女は無実を主張し続けるのです。なんとか有罪にしたいと考える人たちは、息子ルイ17世に「母親に性行為を強要された」と嘘の証言までさせるのですが、彼女は頑として無実を訴え続け、その姿勢に女性からの共感を得ることはできました。しかし、共感を得られただけで判決が覆ることはなく、彼女にも死刑判決が下ってしまいます。

 

処刑台へ…

1793年10月16日、死刑当日が訪れます。
彼女は監獄で髪を切られ、白衣と白い帽子を着せられ、手を後ろに縛られていたそうです。

ギロチンに掛けられるとき、普通は顔を地面のほうに向けられるのですが、マリー・アントワネットの処刑の際は、顔をわざと上に向けられたといいます。自分の首が落とされる恐怖を最後まで感じさせる為だったのでしょうか。

12時15分…彼女の刑が執行され、彼女の刑を見に行った民衆からは「共和国万歳」という声が鳴りやまなかったそうです。

 

 

過密スケジュールと豪遊

 

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彼女がフランス王室に嫁いでから、どのような一日を過ごしていたのでしょうか?彼女が王太子妃の位の時期と、王妃の位の時期では、一日の過ごし方に雲泥の差があるといっても良いでしょう。ここからは、王太子妃と王妃それぞれの時期ごとの日々の過ごし方を比べてみましょう。

 

王太子妃時代の過密スケジュール

彼女が王太子妃として生活していたころ、母マリー・テレジアに一日のスケジュールを書いた、日記のような手紙を送っています。そこから起こした彼女の一日のスケジュールを見ていきましょう。

 

9:30-10:00 起床、

朝のお祈り後、叔母たちの部屋に行く

11:00 髪のセット
12:00 高貴な方たちと会う、

ミサに出席

13:00 昼食
13:30 王太子の部屋に行く

公務多忙の場合は、自室で読書や仕事を行う

15:00 叔母たちの部屋に行く
16:00 神父様の訪問
17:00‐18:00 クラブサン(チェンバロ)か、歌の稽古
18:00 散歩
19:00‐21:00 トランプゲームか散歩
21:00 夕食後、叔母たちの部屋に行く
22:45 国王が見えるまで待つ
23:00 就寝

 

以上が、マリー・アントワネットが王太子妃であった時のスケジュールですが、ほぼ1時間単位でやることが決まっていますね。この時期は、ミサであったり、仕事であったり、教養をつける時間であったり、王太子妃としてやらねばならないことがビッシリでした。彼女は、賭博に熱中だったとされていますが、実際19:00からのトランプゲームの時間くらいしかなかったのではないでしょうか?

 

王妃時代の豪遊ぶり

彼女が王妃になると王太子妃時代の過密スケジュールの様なものがほぼ無くなり、自由奔放な暮らしに変化していきます。仮面舞踏会に始まり、オペラ鑑賞、バレエ鑑賞、そして子供を産んで以来やっていなかったとされる賭博行為にも明け暮れています。仮面舞踏会で知り合ったフェルセイン男爵との恋愛関係が噂されたのも、ちょうどこの時期のようです。また、幼少期から活発だった彼女は乗馬も楽しんでいました。しかし、落馬の危険を心配した母マリア・テレジアは、彼女に乗馬を止めるように何度も説得しましたが、彼女は聞く耳をもたなかったそうです。

カリスマ的存在マリー・アントワネット

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マリー・アントワネットは、ファッションにおいても、生活スタイルにおいても、当時のフランスでは斬新的なアイディアを生み出し、カリスマ的存在にありました。現代において”当たり前””とされていることも、当時は当たり前ではなく、彼女が先導して行ったり決めたことが、現在にも反映されているのです。彼女が、多くの人に影響を与えたことは一体なんなのでしょうか?

 

私がファッションリーダーです

マリーアントワネットが、お洒落に気を使っていたことは、現代でも語られていますよね。実は、彼女のファッションセンスを支える大きな味方がいたとわれています。その方は、ローズ・ベルタンという女性で、帽子デザイナーである彼女と一緒に、数多くのドレスやヘアスタイルを生み出しました。

エピソードでは、彼女と対立していたカトリーヌ夫人が、カラフルな生花のバラをふんだんに使ったドレスを着用し勝ち誇っていましたが、マリー・アントワネットは、珍しい黒バラのみで飾ったドレスで対抗し”圧勝”したといいます。

彼女のヘアスタイルも個性的なもので、高くまとめた髪に草木を装飾した「庭ヘア」や、船の模型を装飾した「舩盛りヘア」などを考え出し、人々の注目を浴びていたそうです。

 

入浴は毎日行うものです

現代では、国ごとにその習慣は異なるものの、毎日お風呂に入ることは一般的になっていますよね。しかし、マリー・アントワネットが生きた時代のフランスでは、毎日の入浴は習慣化されていませんでした。一方、彼女の出身国・オーストリアでは毎日の入浴が習慣化されており、彼女にとってはそれが当たり前で、その習慣をフランスや現代に取り入れたのは彼女だという話があるようです。

彼女は、この入浴の習慣は幽閉されても尚、守りたかったようで、幽閉先のタンプル塔にも浴槽を持ち込ませたといいます。

 

香水は香りを楽しむものです

前述で記述したように、当時のフランスでは毎日入浴しないため、かなり体臭がきつかったようです。当時、体臭対策で用いられていたのが香水で、貴族たちは動物系の香りや、ムスクを愛用していいました。

しかし、毎日入浴している彼女は、体臭とは無縁といっていいほどです。そんな彼女にとっての香水とは、香りを楽しむもので、バラやスミレなどの女性らしい香りを好んだようです。この香水への新しい考え方も現代に通じるところがありますね。

 

ハンカチは四角形でなくては

この記事を読んでいる方で、ハンカチとは丸いものだという考えを持つ方が何人いるでしょうか?おそらく、ほとんどいないかと思います。現代人の私たちが日々使用しているハンカチは、ほとんどのものが正方形だと思います。そんな、現代のハンカチの”常識”を作り出したのも彼女、マリー・アントワネットなのです。

当時のフランスでハンカチというのは、豪華な刺繍や装飾が施され、貴族のステータスにもなっていました。しかし、当時は長方形や三角形、卵型など形はそれぞれバラバラで、それに煩わしさを感じていた彼女が「国内のハンカチを全て正方形と定める」と発言し、法令として民衆に言い渡されたのです。それがきっかけとなり、現代でも正方形が一般的な形となっているようです。

 

チョコレートは固形のものです

「チョコレートは固形」というのも、現代では”当たり前”なのですが、当時のフランスでは”斬新的なアイデア”だったようです。なぜなら当時、チョコレートは「食べ物」ではなく、チョコレートドリンクという「飲み物」でした。チョコレートが固形化されるきっかけというのは、マリー・アントワネットが苦い薬を飲めなかったということが要因で、王室の薬剤師が「チョコレートで薬を包んでしまおう」と考えたのです。彼女の発案ではないにしても、彼女の存在がチョコレートの固形化に影響を与えたといっても良いでしょう。

また、この時に彼女が名付けた「ピストル」というチョコレートは、現代でも再現され販売されているようです。

まとめ:常識に捉われない生き方

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彼女の生涯について追っていきましたが、心が痛くなりますね。彼女は本当に不運だったのですから。考えてみてください、もし彼女の姉がもし死亡せずに無事結婚していたとしたら…もし彼女の時代がフランス革命でなければ…彼女の運命はどこかで変わっていたのかもしれないですよね?また、後半では、彼女のカリスマ性について見ていきましたが、現代での”あたりまえ”の多くをを生み出したのが彼女だったなんて、驚きでしたね。私たちも、常識に捉われず、新しい考え方に貪欲でありたいですね。

 

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