聖徳太子総まとめ !これだけ押さえておけば大丈夫

 

聖徳太子と聞いてだれもが思い浮かべることは、やはり10人の話を同時に聞き分けたエピソードではないでしょうか?このように天才的に聡明だったとされる聖徳太子ですが、歴史的にどのようなことを行ったのかについては、あいまいになっている人も多いのではないでしょうか?聖徳太子について押さえておきたい話題をまとめていきます。

 

聖徳太子の資料

日本書紀の画像

日本書紀/wikipediaより引用

謎が多いとされる聖徳太子ですが、そもそもなぞが多くなってしまうのには理由があります。聖徳太子については確実な資料があまり存在していません。多くの出来事が日本書紀を根拠としていますが、この書物が完成するのは聖徳太子の時代の百年ほどあとになり、成立の経緯などから記述の真実性に問題があるとされてきました。ここにとりあげる話題も多く日本書紀からとられていることにご注意願います。

 

 

聖徳太子の政治的業績

ライオンの画像

七星剣/wikipediaより引用

 

まず聖徳太子の政治的な業績を見ていきます。
皇族に生まれた聖徳太子は、若年から仏教受容派として活躍し、仏教排斥派の豪族と対立しました。また、推古天皇の摂政に就任してからはこれまでの家柄に基づいて役職を決める制度を、個人の実力を評価して決める制度に改め、またこれによって天皇への中央集権化を進めました。海外遠征もあり、一般のイメージとは異なり精力的で好戦的な側面もあった太子の実像をうかがい知ることができます。

 

推古天皇の摂政

593年に推古天皇が即位する以前、仏教の受容をめぐり、受容派の蘇我馬子と排斥派の物部守屋が激しく対立していました。受容派に加勢した聖徳太子が戦勝祈願の四天王像を作るなどしたおかげもあり、仏教受容派が勝利します。その後日本最初の女帝、推古天皇が即位したときに、皇太子となった聖徳太子は蘇我馬子とともに推古天皇を支えることになりました。摂政、聖徳太子の誕生です。

 

新羅征伐

聖徳太子以前の飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事侵略を行っていましたが、結局撤退していました。推古天皇の時代に2回にわたり朝鮮半島に侵攻します。これが新羅征伐です。一時的な勝利はあったものの、この試みは結局頓挫しました。聖徳太子には文化人のイメージがありますが、好戦的な側面もあったのでしょう。

 

遣隋使の派遣

推古天皇の時代に、600年から618年にかけて当時隋と称されていた中国の技術や制度を学ぶために、5回以上の使節が派遣されました。これが遣隋使です。この時の書状で隋の皇帝と日本の天皇をまったく同等の立場、「天子」と称したことが、隋の皇帝、煬帝を立腹させました。このあたりにも聖徳太子の野心家ぶりをうかがい知ることができます。

 

冠位十二階と十七条憲法の制定

推古天皇の即位後10年程経過した603年、摂政の聖徳太子は国内政治の改革に乗り出します。人事制度として603年に冠位十二階を導入し、これまでのように家柄により役職を決めるのではなく、個人の実力を評価して役職を決めていく制度を導入しました。この制度はのちに646年の大化の改新における律令制の導入の先駆けとなります。
また、604年に導入されたとされる十七条憲法は、主に官吏の職務につくものの心得を箇条書きにしたもので、冠位十二階により実現しようとした天皇集権体制の精神的支柱とすることを目指したとされます。十七条憲法については偽物説も有力です。

 

 

聖徳太子の文化的業績

 

法隆寺/wikipediaより引用

聖徳太子はいくつかの文化的業績を残しました。ここでも大使が仏教を中心に据えた天皇集権国家を目指して活動したことを考えると業績の一貫性が見えてきます。

 

中国の高僧を招く

推古天皇は即位後まもなく、仏教興隆の詔を発します。また595年に高句麗の僧慧慈(えじと読むようです)を招き、仏教を精神的支柱とした国家建設に着手します。こうした動きには摂政に就任した聖徳太子の影響も大きかったでしょう。慧慈は聖徳太子の師となり、仏教のみならず中国(当時は隋)の官僚制度についても伝えました。この出会いが太子の後の政治活動に影響を与えたことは間違いないでしょう。

 

三経義疏を著わす

三経義疏(さんぎょうぎしょ)は615年に聖徳太子が現したとされる仏教経典の三つの注釈書を総称したものです。中国の学僧の注釈を基礎に独自の解釈を加えたもので、大乗仏教の精神に貫かれ日本仏教の原義的意義を持つとされます。推古天皇と聖徳太子に招かれた高句麗の僧慧慈はこれを携えて帰国しました。先生を感心させるほどの出来栄えだったのでしょう。なおこの書物についても聖徳太子の真筆であるかどうかは意見が分かれれいます。

 

法隆寺607・四天王寺593を建立する

仏教を中心とする天皇集権国家の建設を目指した聖徳太子は、いくつかの寺院を建設しました。その中で実際に建てた信ぴょう性が特に高い寺院は法隆寺と四天王寺です。推古天皇の即位前、仏教排斥派の豪族との戦いに勝利したら建立するとの誓いを果たすために建てた寺院が四天王寺です。推古天皇の前の天皇で、聖徳太子の父である用明天皇の発願を果たすために建設した寺院が法隆寺です。残念ながら当時の建築は残っていませんが、七世紀末に再建された西伽藍は世界最古の木造建築となっています。

 

国史の編纂『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』

聖徳太子はその晩年、620年にいくつかの歴史書を編纂したとされます。『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』です。残念ながらこれらの書物は原本も写本も今日に伝わっていませんが、日本書紀に言及があることがこうした活動がなされたとされる根拠になっています。本当だとすると日本書紀に先駆けて天皇の支配力の正当性を主張するための書物を編纂したことになりますが、これは太子のこれまでの活動と一致しますね。

 

 

聖徳太子こぼれ話

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最後に聖徳太子に関するよく知られた逸話を見ていきます。

 

10人の話を聞き分ける

たくさんの請願を一度に聞き分けたという逸話です。

 

馬小屋生まれ

馬小屋で生まれたため厩戸皇子と呼ばれたという逸話です。キリスト教のイエスとの類似性が連想されますが、むしろ当時の中国文化に同様のモチーフがあり、そこから影響を受けたようです。

 

若いころは武闘派

推古天皇推移直前は仏教受容派として排斥派との戦闘に参加していました。

 

聖徳太子信仰

すでに日本書紀において聖徳太子は聖人として扱われ始めましたが、後に観音菩薩の生まれ変わりと言われるようになり、室町時代の終わりころから太子講という職人の間の信仰の集まりが始まりました。

 

聖徳太子の紙幣

1930年に始めて紙幣の肖像画になって以来、1984年に一万円札の肖像画が福沢諭吉に代わるまで、累計7回と最も多く紙幣の肖像画として採用されました。現在でも年齢の高い方はお札と言って聖徳太子を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

 

 

まとめ、聖徳太子と私たち

聖徳太子/wikipediaより引用

以上、聖徳太子について押さえておきたいトピックをまとめてみました。
仏教を中心とした天皇集権体制を目指した点において、後の大化の改新の先駆けとなるような活動を行ったことが分かります。その一方で古代の人物で実在性がもう一つ確証できないところから様々な逸話が生まれたり信仰の対象となったりもしました。業績とイメージの両方を押さえておきたいですね。

 

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