プラトンの人物像に迫る!西洋哲学の源流をなした思想とは?

プラトンと聞くと何を思い浮かべますか?私は昔やっていたサントリーのCMソングの「ソクラテスかプラトンか、みんな悩んで大きくなった」を思い出します。何はともあれ、西洋哲学史の源流のプラトンについてまとめていきます。

 

哲学者プラトンはいつの人?どこの人?

 


プラトン/wikipediaより引用
プラトンはいつどこで生まれたのでしょうか、まずはそこから押さえていきましょう。
プラトンは紀元前427年、王族の血をひくものとしてアテネに生まれます。歴史上、前5世紀から前4世紀末までのギリシアを「古典期」と呼びます。この時代は、ポリス市民を担い手とした「アテネ民主制」が最高潮に到達しましたこの時期のアテネはアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人の活躍、アクロポリスのパルテノン神殿の建立、ヘロドトス、トゥキディデスの歴史書、今日クラシックと称される自然主義的な美術など、文明史上もっとも重要な成果を生み出しました。ギリシア古典期のもっとも重要な哲学者は師弟関係にある三人、ソクラテス、プラトン、アリストテレスであり、哲学者プラトンの活動はこうした時代背景のなかで行われたことを押さえておきましょう。

 

政治家志望者プラトン

名門に生まれたプラトンは若いころは政治家を目指していたようです。
ソクラテスの弟子として哲学的素養を身に着けつつ、いつの日か実際に政治の場でそれを活かそうと考えていました。

 

実はレスラーだった!

名門に生まれたプラトンは、文武両道を目指し知的のみならず体育の面でも教育を施されました。後の哲学者としての活躍を考えると、知的教育も十分に成果を挙げていたとおもわれますが、若いころはむしろ体育の面での活躍が目立っていたようです。アリストクレスという名前があったのにもかかわらず、体格が立派だったため、レスリングの教師からプラトンと呼ばれるようになり、それがそのまま名前として定着したという逸話もあります。当時開催されていた古代オリンピックのどれかの大会に参加したとか、さらに優勝したとかいうものです。ただし、現代の研究者の多くはプラトンのオリンピックへの参加や優勝について懐疑的です。

 

 

哲学者となった経緯

ソクラテス / Wikipediaより引用

プラトンがの哲学者としての生涯を決定づけたのは、青年期の師、ソクラテスでした。
ソクラテスの哲学については次の節にゆずることにして、ここではソクラテスの生涯とプラトンとの関わりについてみていきます。

 

プラトンの師、ソクラテス

ソクラテスは、その生涯のほとんどをアテネで過ごし、思想家、哲学者として活動する一方で、重装歩兵としてペロポネソス戦争をはじめとするいくつかの戦闘に参加しました。
ソクラテスは著作を残しませんでした。思索は対話の中で、生きている言葉で行われるべきであり、人格のぶつかり合いのなかで行われるべきものでした。
ソクラテスにはたくさんの弟子がいました。ソクラテスの哲学的な議論は誰でも聞くことが出来、また議論することも出来ました。ソクラテスの話を聞いたり議論したりした人々の何人かは弟子を自任するようになりました。
ソクラテスの議論は結果的に様々な題材に疑念を呼び起こす種類のものであり、本人にとっては謙虚に生きることを促すものであったものの、若者を反抗的にする部分もあったのでしょう。そうしたことが権威ある人々にとって都合に悪いものだったのでしょう。ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」という罪状で死刑に処されます。

そんなソクラテスに教えを受けた人々の中で最も重要な人物がプラトンです。
プラトンはソクラテスから次節で見る「問答法」による思索や議論の進め方を教わり、また正義・徳・善といった古代的な徳目を真剣に吟味することで社会や人生に関する様々な問題に解答しようとする姿勢を学びました。政治家を目指していたプラトンでしたが、民主制の退廃を目の当たりにしたり、28歳ころソクラテスが死刑になってしまったこともあり、次第に現実の政治に幻滅を覚え、距離を置くようになりました。シケリア旅行に出かける前、30代のプラトンは主にソクラテスを主人公とした「対話篇」と呼ばれる哲学的対話劇を執筆しつつ、哲学者が王となって統治するのが理想の政治形態だという「哲人王」思想を温めていました。

 

ソクラテスの教え

プラトンの哲学や行動を理解するうえで、その師、ソクラテスの教えを理解すしておくことが必要となります。そこでここではソクラテスの教えについて見ていきますソクラテスが生きたギリシア時代、人々は「真」、「善」、「美」、「勇気」、「節制」、「名誉」といった徳に今日よりも多くの関心を寄せていました。
我々現代人もそうしたものに注意を払うものの、そうした徳目よりも「利益」の概念が強力で利益やお金に結び付けて物事を判断する傾向が強くなっています。古代ギリシアと我々現代人を分かつ大きな分水嶺があります。
ソクラテスにとって最も重要な問いは、「如何にすればよく生きることが出来るのか」ということでした。彼は何が真実かを見極め、真実に基づいて判断することが重要と考えました。こうした姿勢は西洋哲学、あるいはすべての哲学にとって根幹をなすものであり、重要な哲学者はみなこの問いに取り組んできました。また、一般に生きる我々も、特に若いころは、何が正しいのかわからず悩んだ経験があるのではないでしょうか?
さて、この重要な問いに答えるために、ソクラテスは当時賢人と呼ばれた様々な人々と議論します。「問答法」と呼ばれる対話法で、一つ一つの主張や概念の根拠を一つ一つ遡って問うていくような方法です。問答法を駆使するソクラテスと対話した賢人たちは、なぜ、なぜ、なぜ、と追及を受け、最終的にそこから先はわからないと告白することになりました。
賢人たちは確かに個別の事柄についてよく知っているものの、それらが最終的な徳目とどう結びつくかはうまく説明できませんでしたし、最終的な徳目が具体的にどういった内容を持っているのかについてもうまく説明することが出来ませんでした。
当時のデルフォイの神託で、「ソクラテス以上の賢者はいない」とされましたが、賢者たちは結局答えられなかったが、自分は答えられないことを知っていた点において彼らより勝っていたのだろうと考えました。これを「無知の知」と呼びます。

 

 

哲学者としての人生

 


アカデメイア/wikipediaより引用

ソクラテスが死刑になったことや当時のアテネの民主制の腐敗を見たプラトンは、現実の政治に幻滅し、哲学者として活動するようになりました。そして30代の頃は師ソクラテスを主人公とする対話篇を執筆したり「哲人王」の構想を温めたりしていました。ここからはその後の哲学者としての人生をみていきます。

 

学園を創設し、教育に当たる

40歳ころ、シケリアから帰ったプラトンはアテネ郊外のアカデメイアの地に学園を解説します。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教えられました。またソクラテスの教えを活かすべく、対話が重んじられ、教師と生徒の問答による教育が行われました。基礎的な学問として重視されていたのは算術、幾何学、天文学でした。こうした学問を通じて、論理的な思考力を十分に身に着けた後で、理想的な統治者が身に着けるべき哲学を教授しました。理数科の重視は明白で学園の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」額が掲げられていました。こうした教育への姿勢は今日でも有効なのではないでしょうか?早稲田大学は政経学部の入試でも数学が必須になりましたね。

 

プラトンの弟子、アリストテレス

プラトンが60歳の頃、17歳のアリストテレスがアカデメイアに入学します。アリストテレスはその後プラトンが亡くなるまでの20年間アカデメイアで過ごします。学者としてもっとも重要な時期をプラトンを師としアカデメイアで過ごせたことはアリストテレスにとって幸運でした。師プラトンからは「学校の精神」と評されたアリストテレスにとってこの時期の勉学が後に非常に広範囲にわたる膨大な著作を生み出すことになる基礎となりました。

 

奴隷に売られた!

ソクラテスの死後、政治家になることを断念したプラトンでしたが、政治については思索はやめませんでした。そして、「哲人王」の思想を胸に抱いていたプラトンにとって、思想を実現するチャンスがなんどか巡ってきました。40歳ころシケリア島のシュラクサイの王に自分の理想を実現してもらおうとして機嫌を損ね、死刑になりかけたところ奴隷として売りに出されて助かり、最後に買い戻されました。プラトンはそれでもめげず、60歳ころにもまた哲人政治を実現しようとして危険な目に遭っています。

 

 

プラトンの学説

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ここではプラトンの学説について、イデア論を中心取り上げ、他の学説との関連を見ていきます。

 

イデア論

プラトンの学説としてもっとも有名なものがイデア論です。イデア論とはいったいどのような学説なのでしょうか?またなぜイデア論を唱えることになったのでしょうか?
イデア論の形成に最も大きな影響を与えたのは、上で見た師、ソクラテスの「問答法」と「無知の知」でした。ソクラテスは「如何にすればよく生きることが出来るのか」という問いに答えようとしたソクラテスは問答法を通じて古代的な徳目の精緻な理解をめざしました。しかしその結果見えてきたことは、われわれはそうした概念をよくわかっていないということであり、これを「無知の知」と呼びました。
これは少し困ったことです。何を議論しようにも、土台が曖昧ということになってしまい、議論が止まってしまいます。
ソクラテスの死後、こうした問いが胸の内抱えながら、ピタゴラス派と交流を持ちます。ピタゴラス派は数学的な概念の実在性を信じ、数学的な均整がこの世を支配していると考えた学派です。ピタゴラス派との交流はプラトンにとって胸の内に抱えていた問題に対して、一つの回答を与えるように見えたのかもしれません。
数学的な真実の実在性にの感覚を、ソクラテスや彼の同時代人がより大きな関心を抱いていた古代的な徳目に敷衍できれば、議論に確固とした基盤を与えられるのではないでしょうか?つまりこれらの徳目はイデアという形で、この世の通常の実在物とは別の形で存在する、とい考えたのです。
我々は地面にたくさんの「三角形」を描くことは出来ます。しかし、それらの具体的な図形を「三角形」として認識できるのは、「三角形」の概念、つまりイデアを我々が共有しているからではないでしょうか?それと同様に、正しい法律について議論するときでも、「正しさ」の概念、つまりイデアが実在しているとすれば、イデアに照らし合わせて議論すれば、我々は結論に到達できるかもしれません。プラトンにとって特に重要だったのは「善のイデア」でした。なにが善かをしっかり認識することで、個人としても集団としても正しく行動できるようにあるはずだと考えたのです。

 

多岐にわたる思索

特にに重要な「イデア論」について詳しく見ましたが、プラトンは他にも多岐にわたる思索を残しました。ここではそれらを簡単に見ていきます。数学や天文学はその内容よりも論理の訓練として重視していたようです。「魂」について考察し、人間の本性は、理知、気概、欲望であるとしました。倫理学、政治学、法学については、良き統治を行うという観点から思索し、「善のイデア」に基づく「哲人王」思想に結実しました。

 

感情や芸術には否定的

イデアを最高のよりどころとしたプラトンは感情や芸術など具体的な感覚や経験に基づく詩歌や演劇はあまり評価しませんでした。具体的なものの背後にあるイデアを捕らえなけらばなりません。

 

 

後世への影響

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プラトンの哲学は後の西洋哲学に決定的な影響を与えました。20世紀の哲学者ホワイトヘッドは、西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈であると言った趣旨のことを述べています。実際、ソクラテスのテーマと問答法により西洋哲学にとって重要なテーマと議論の方法が提出たと言ってよいでしょう。

 

多く残されているプラトンの著作

プラトンは多数の著作を残しました。初期の著作は師のソクラテスを主人公とし、問答法を展開し懐疑に終わる筋書きのものが多いようです。中期になるとイデア論が前面に出てきます。後期は自然や宇宙といった人間を超えた物事を考察する一方で、「哲人王」よりも現実的な政治組織として「夜の会議」が提出されます。

 

 

まとめ:プラトンと私たち

プラトン/wikipediaより引用

以上、プラトンについて、そのなかでも特に重要なソクラテスとの関わりとイデア論を中心にまとめました。まとめていて思うことは二つあります。第一にプラトンや古代人たちは徳目について真剣に考えていましたが、我々現代人はそうしたことをあまり考えくなりました。我々はなにごとも金銭に換算される「利益」に変換して考える傾向があります。資本主義以前と以後ではものの考え方に根本的な差異が生まれました。
第二に「哲人王」思想はあまりに若々しい考え方だと思いました。三角形については論理に基づく厳密な議論が可能ですが、良い法律や良い政治については概念そのものの人によるばらつきが大きいので、対話により相手を理解し調整していくプロセスが欠かせないのではないでしょうか。こうした思考パターンは青年に多く見られます。
古代ギリシャ文明は人類の青年期に開いた美しい花のように思われます。

 

 

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