マリーアントワネットの子供について〜王族だった彼女に何が?〜

 

今回の記事では、フランス革命の時代に生きた、マリー・アントワネットの子供たちについてまとめました。王族として生まれた彼らに起こった悲劇とはどんなことなのでしょうか?もし、あなたが彼らの立場なら、耐え忍ぶことができたでしょうか?想像力を働かせながら読んでみてください。

 

マリー・アントワネットの子供マリー・テレーズの生涯

 

マリーテレーズ/Wikipedia引用

マリー・アントワネットには、4人の子供が居ました。その内2人は、幼少期に亡くなっており、残された子供はマリー・テレーズとルイ・シャルルのみでした。今回はこの二人のうち、主にマリー・テレーズについて、どのような生涯を辿ったのかをご紹介していこうと思います。王室に誕生したはずの、マリー・テレーズは一体どのように悲惨な生涯を遂げるのでしょうか?

 

マリー・テレーズとルイシャルルのプロフィール

マリー・テレーズやルイ・シャルルの生涯を追っていくために、まずは彼らのことを詳しく知ることにしましょう。簡単なプロフィールを表にまとめました。

 

マリー・テレーズ

名前 マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス
称号 マダム・ロワイヤル(王族の称号)
母親 マリー=アントワネット=ジョゼフ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ
父親 ルイ16世
誕生 1778年12月19日
性格 プライドが高く、大人びている
死没 1851年10月19日
享年 73歳
死因 肺炎

彼女が生きた時代は、ちょうどフランス革命が起こった時代で、そんな中でも生き延びたことがお分かりいただけたでしょうか?彼女が生き延びることができた理由とは何か、一体何が力となったのでしょうか?

 

ルイ・シャルル

名前 ルイ・シャルル
称号 ルイ17世
誕生 1785年3月27日
性格 活発だが神経質
死没 1795年6月8日
享年 10歳
死因 激しい呼吸困難の末死亡

お姉さんと比べるとかなり若くして亡くなっているようです。なぜ彼はたった10歳で命を落とさなければならなかったのでしょうか?

 

王室は躾や教育が厳しくて大変!

1778年12月19日、マリー・テレーズは、第一王女としてヴェルサイユ宮殿で誕生しました。母親マリー・アントワネットに厳しい教育を受けていた彼女ですが、王族としては仕方のないことだったのでしょう。しかし、そんな中「母親が落馬した」という話を神父から聞かされた時は「母親がもし死んでいたら何をしても自由だったのに!!」と言い放ったそうです。それだけ彼女が、がんじがらめの生活をしていたことが窺えますね。しかし、彼女はまだ子供で、息抜きの遊び相手は勿論いたようです。王室の小間使いの娘や、養育係の娘とは弟のルイ・シャルルと共によく遊んでいたそうです。

 

2年にも及ぶ幽閉

彼女が10歳の時に”フランス革命”が勃発しました。フランス革命というのは、つまり「王を絶対的権力とする社会制度はもうやめよう」という運動や、クーデターです。

彼女は幽閉され、彼女の下の階に弟も幽閉されました。彼女は自分も危機的状況にある中、幽閉中の劣悪な環境で病気になったと思われる弟を心配し、何度も何度も「弟の治療をお願いします」と国民公会(革命政治の中央機関)に手紙を送ったといいます。しかし、治療どころか、弟は暴力と性的虐待が日常茶飯事の上、身体的ケアも、メンタルケアも行われることはありませんでした。

恐怖政治家として名高いロベスピエールが処刑された後、彼女への待遇は良くなり始めていました。身の回りの世話をするド・シャトレンヌ夫人という者が付いたり、シャトレンヌ夫人から衣類や筆記用具などの差し入れがあったり、庭園を散歩する許可まで出たそうです。その時点で彼女の幽閉生活は2年に及んでいます。

一方、弟はどうなったかというと、マリーテレーズの待遇がよくなったころに、彼を救おうとジャン・ジャック・クリフつと・ローランという人物が現れ、後見人となりました。彼は、ルイ・シャルルに清潔な環境を与えたり、医療を提供しましたが、全て手遅れの状況でした。弟はわずか10歳で、自分が国王になっていたことも、両親の処刑すら知らされることなく、激しい呼吸困難の末、亡くなってしまったのです。

 

知らなかった両親の処刑

マリー・テレーズがシャトレンヌ夫人と親しくなってきた頃、シャトレンヌ夫人自身、彼女に同情心を抱くようになっていました。シャトレンヌ夫人は、両親のことを彼女に伝えることは固く禁じられていましたが、彼女を気の毒に感じ「両親と叔母さんが処刑された」と伝えてしまします。マリー・テレーズは、幽閉されてる中、両親が処刑されたことを事後報告として伝えられてしまったのです。家族が処刑されたと知った彼女の心にもしかすると、憎悪が芽生え始めたのかもしれません。

 

亡命の日々

マリー・テレーズは、その後、オーストリア、ロシア領クールラント、ワルシャワ、イギリスなどに亡命することになります。まず亡命のきっかけですが、幽閉されていた際に、神聖ローマ皇帝フランツ2世がフランス人捕虜と、マリー・テレーズを交換することとなり、1795年7月30日に、母の祖国であるオーストリアに亡命することができたのです。しかし、この亡命では厳しい監視下に置かれていました。

1799年春ごろ、次に向かったのはロシア領クールラントでした。ここには同じく亡命中の叔父ルイ18世が居たようです。彼女は、この亡命の中、従兄のルイ・アントワーヌと結婚しています。彼女の結婚は叔父ルイ18世も当時のロシア皇帝パーヴェルも喜び、多くの贈答品を用意したとそうです。

1801年3月6日に訪れたのはワルシャワでした。ワルシャワでは彼女はとても歓迎されたようです。彼女は、この亡命生活で自分と同じようにフランスから亡命した貴族の支援や、修道院や貧しい人を見舞う慈善活動に力を入れていました。しかし、この亡命では、彼女は節約しなければいけないほど貧しく、強く生きてきた彼女ですら、よく涙を流していたという記録があります。

その後、再びロシア領クーラントへ戻ったのですが、ヨーロッパ大陸に彼女たちの居場所はなく、イギリスへ向かうことになりました。イギリスの人々にも受け入れられ、彼女らに優しく接していたそうです。この亡命での彼女の暮らしは比較的、恵まれたもので、イギリス王ジョージ4世から多額の手当てを支給されたり、舞踏会に招かれたりなどしていたようです。

 

王太子妃へと返り咲く

1814年に、マリー・テレーズらが亡命中に”フランス国民の皇帝”と称賛されていたナポレオンが、ロシア遠征で敗れたことを機会に、彼女はフランスに舞い戻ることを決意します。彼女の田舎臭い格好はフランス国民や貴族に白い目で見られることになりますが、彼女の亡命生活やその間、叔父を支え続けた勇気を称賛されました。また、この時、彼女のもう一人の叔父であるアントワ伯がシャルル10世として即位したことにより、彼女は王太子妃となります。

 

再び亡命と静かな余生

再び革命時代が訪れることとなってしまい、彼女も再び亡命することを決意します。亡命先はオーストリアです。彼女たちは、オーストリアの城を転々としていたようですが、刺繍をするなど穏やかな日々を過ごし、その収益はやはり、恵まれない者のために寄付したとされています。そして、1851年10月19日に、73歳になった彼女は肺炎で息を引き取りました。

 

 

フランス革命が生んだマリー・テレーズの憎しみ

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ここまで、マリー・テレーズの生涯を把握できたと思うのですが、家族が殺されたり、幽閉生活を送ることとなった彼女の心には憎しみが芽生えていたと思われます。彼女の憎しみの根源や、またそれに関連して、どうしても嫌いな人がいたこと、なぜその人を嫌いだったのかなど、詳しく解説していこうと思います。

 

彼女を生涯苦しめた後遺症と幽閉の憎しみ

マリー・テレーズが幽閉されたのは、12歳の時からおよそ2年間でしたが、彼女が言葉を発する機会は、国民公会による尋問への最低限の返答のみでした。それ以外で彼女が言葉を発することはなく、結果的に発声異常をきたしてしまいます。これは、声帯の異常で、彼女は”ガリガリ”という様な声しか出せなくなり、それが生涯彼女を苦しめたようです。

彼女に生涯治ることのない後遺症を与えることになった幽閉生活。その機会を生むこととなったフランス革命を彼女はどれほど憎んだのでしょうか。

 

家族を殺した人たちへの憎しみ

彼女の両親や叔母は、革命裁判により死刑を宣告され、ギロチンに掛けられてしまいます。また、教育係から弟への虐待や暴力、或いは目を塞ぎたくなるような劣悪な環境を彼、女がどこまで知っていたか分かりませんが、そのせいで弟は命を落とすことになってしまいます。

彼女は、ただ王家に王女として生まれただけなのに、なぜ何もかも奪われなくてはならなかったのでしょうか。

きっと、彼女は深い憎しみを抱えると同時に、それを生きる糧とていたのかもしれませんね。

 

フランス革命で甘い汁を吸った人たちへの憎しみ

彼女がどうしても嫌い、好きにはなれないと思っていた人とは「ナポレオン・ボナパルト」です。まず、王族である自分を差し置いて、皇帝の地位についたことも不服だったとみられます。彼女がフランスに戻った際に暮らすこととなったテュイル宮殿ですが、そこは彼女が辛い経験をした場所でもあったのですが、ナポレオンにより、様々な場所に「N」と刻み込まれたり、鷹やミツバチの装飾がされたことも気にくわなかったようです。

また、彼女はナポレオンの時代に貴族となった人々も嫌っていたようです。

他にも、帝政下で成功を収めたかつての仲間も嫌うようになっていたそうです。

 

 

まとめ:二度と繰り返さないように

 

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今回の記事では、悲惨な人生を歩むこととなってしまったマリー・アントワネットの娘・マリー・テレーズと弟・ルイ・シャルルについて見ていきましたが、王族であったとは思えない扱いを受けた彼女たちは、本当に辛い日々を過ごしたのだと感じられます。家族を殺された彼女の憎しみの芽生えは、ごく自然なことのように思えます。また、酷い虐待を受けた弟に関しては、その事実が認められ、関係者は逮捕されるに至っています。

私たちは、二度とこのような悲劇と過ちを犯さないように、正しく、誠実でいなくてはならないのではないでしょうか。

 

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