クレオパトラ7世の生涯とは?世界三大美女の真実に迫る

絶世の美女クレオパトラについて

 

クレオパトラと聞いて最初にイメージするものと言えば、日本の小野小町、中国の楊貴妃と並び称される、「世界三大美女」である方が多いかと思います。「絶世の美女である」「コブラの毒で自害した」ということは有名ですが、美しさの所以や追い込まれるまでの経緯に注目されることは稀です。クレオパトラの女王としての実績とその生涯について紐解いていきます。

 

クレオパトラの画像

クレオパトラ / wikipediaより引用

 

プトレマイオス朝の統治体制

最初にクレオパトラが在位したプトレマイオス朝の特徴や世界的な時代背景について見ていきます。プトレマイオス朝は現在のエジプトにあたり、マケドニア人プトレマイオスによって紀元前306年から紀元前30年の長期にわたって成立した国家です。王様とその一族が治める直系国家であり、支配者層の名称も代々「プトレマイオス2世」、「クレオパトラ2世」といった同じ名称に順番を付与していくものでした。ここで言う「クレオパトラ」は7世であり、国家における最後の女王となります。王は15世まで続き、成立期間こそ長いですがその治世は安定しないものでした。

 

権力をめぐっての闘争

王朝内では権力を巡った武力抗争が当然のように続き、共同統治とは名ばかりのものでした。クレオパトラも例外ではなく、14歳の頃に姉ベレニケ4世と父プトレマイオス12世による闘争を目の当たりにします。18歳にして姉と父親の両方が倒れ、後継者クレオパトラ7世として弟との共同王座に就任します。

 

ローマとの関係

クレオパトラが20歳のころ、ローマでは当時の二大巨頭であるユリウス・カエサルとポンペイウスによる
支配者の座をかけた内戦が行われていました。ポンペイウスは子息の小ポンペイウスをプトレマイオス朝に
派遣し、軍事的支援を求めます。代々における政治的関係もあり、クレオパトラは十全な支援を行います。
しかし弟のプトレマイオス13世はポンペイウス側に傾倒する姉を不審に思います。時を同じくして起きた
民衆の蜂起に乗じて臣下を動かし、姉を僻地へと追いやります。

 

 

カエサルとの出会い

絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ/wikipediaより引用

 

プトレマイオス13世の介入もあって、ローマ内戦はカエサルが勝利を収めます。エジプトに逃れたポンペイウス追討のため、カエサルはエジプトに入ります。しかし増長するプトレマイオス派の臣下によって既に謀殺されていると判明しました。それを知ったカエサルは隣国の情勢に不安と疑念を持ち、自ら仲裁に入って姉弟の和解実施を命令します。話の場を首都に定め、クレオパトラ達にアレクサンドロスまで来るよう伝達しました。弟と内戦の只中であるクレオパトラの耳にもそれは届きましたが、戦場を潜り抜けて首都へ着くのは至難の事です。そこで一計を案じ、当時は宝箱代わりであった絨毯の中に自らを包み、カエサル宛の贈答品として戦場を抜け出しました。こうして対面が叶い、その大胆な手法とクレオパトラの気品に惹かれたカエサルは恋仲になります。これを知ったプトレマイオス13世は激昂し、王冠を床に投げ捨てたと言われています。

 

エジプト内紛の終結

一旦は和解が成立しましたが、実権に執着するプトレマイオス側の臣下達にとって実権を持つ姉の帰還は見過ごせない出来事でした。カエサルと共に帰路にあるクレオパトラを排除するため、攻撃を仕掛けます。手薄であったカエサルは苦戦しますが、折よく到着したローマ軍の増援によって形勢は逆転し、臣下達はプトレマイオス13世共々滅ぼされます。これによって内政は安定し、クレオパトラが実権を取り戻しました。
このとき同時に敵対していた妹・アルシノエ4世も捕らえることに成功します。

 

カエサル暗殺まで

カエサルという後ろ盾を得たクレオパトラは、残る弟をプトレマイオス14世として形式上の王座に置き、実質的なクレオパトラ政権の運営を開始します。この頃にカエサルとの子と言われるカエサリオンを設けました。政権はしばらく続き、やがてカエサルが臣下の救援のためエジプトを離れます。この行軍で大勝利を収めたカエサルはローマの独裁官へ任命され、凱旋します。これに内密に同伴してローマでのひとときを過ごしますが、約2年後にブルータスやカッシウスなどによってカエサルが暗殺されると急いでエジプトへ戻りました。ローマ内を纏め上げていたカエサルの逝去はクレオパトラのみならず、エジプトにとっても新派閥による今後の圧力、武力介入などの危機だった為です。

 

 

第二回三頭政治

プリマポルタのアウグストゥス/wikipediaより引用
カエサル暗殺後、エジプトに戻ったクレオパトラは程なくこの世を去った14世の後継としてカエサリウスをプトレマイオス15世として王座に置きます。この交代劇にはクレオパトラが暗躍したとの説もありますが、事実としては全く不透明です。ローマ内ではカエサルの指名した後継者・息子オクタウィアヌス、そして軍人アントニウス、神祇官アエミリウスの三者による第二回三頭政治が成立していました。第一回はクレオパトラが20歳の頃であり、成立した理由など第一回と違う事はありますが、権力者間の闘争が盛んなのは共通の特徴です。その一幕として、三頭政治軍とブルータス軍の戦いがあります。特にオクタウィアヌスにとってブルータスは仇敵でしたが、クレオパトラはブルータスを支援します。戦いは三頭政治軍の勝利に終わり、アントニウスがクレオパトラへ己の拠点タルソスまで来るよう命じます。これに対し、クレオパトラは美の女神アフロディーテのごとく装い、あでやかな魅力を纏って出発します。アントニウスは瞬く間に魅了され、クレオパトラと親しくなります。さらにエジプトの豪華な船上パーティーに招待されたアントニウスはその財力とクレオパトラの人望、巧みな話術によって虜となります。己の支配勢力圏に近いエジプトと友好的になることが戦略的な利点であったことは、翻意した理由の大きな一つだと言われています。友好を結んだクレオパトラは早速、聖域逃避しているアルシノエ4世の排除を思いつきます。アントニウスを巧みに言い包め、依頼ではなく思想の修正による自律的な排除を遂げさせました。

 

ローマとの対立

その後、クレオパトラはアントニウスとの間に三人の子を設け、それまでの配偶者であったオクタウィアと
離縁しました。ここで2人は結婚したとの説もあります。アントニウスは2度の東方遠征を行い、1度目のパルティア遠征では惨敗を喫して辛くも帰り着きます。2度目のアルメニアで大勝利を収め、敵国王を捕虜とします。この時にはローマ人でありながらエジプトで凱旋式を催行しました。さらには「エジプトに骨を埋める」と書状に記すなど、もはやエジプト人のように振る舞うアントニウスにオクタウィアヌスを始めとしたローマ陣営は憤慨し、エジプトに対して宣戦布告します。

 

アクティウムの海戦

こうして両軍は総力を挙げ、ギリシャのアクティウムで激突します。この海戦は総勢600隻以上の船が投入された一大決戦であったといわれています。陣容はエジプト側の方が大規模でしたが、ローマ側が中型船舶による機動力を発揮して次々とエジプトの船を沈めてゆきます。不利を悟ったクレオパトラ、それを追ってアントニウスが各々戦場を離脱しました。クレオパトラは妥当としても、前線指揮官アントニウスの逃亡はエジプト側の兵隊を深く幻滅させました。戦況は決定的となり、ローマ側の勝利に終わります。首都まで逃げ果せたクレオパトラは停戦交渉を試みますが、失敗に終わります。このとき、オクタウィアヌスはアントニウスのクレオパトラによる排除を条件に全面的な協力を提案しますが、頑強な否定により決裂した背景があるといわれています。進撃を続けるオクタウィアヌスを止めるため、アントニウスが最後の決戦を挑みましたが、既に失望した兵隊たちの裏切りなどもあり、これも敗北に終わります。失意のアントニウスにクレオパトラ自刃の報告が届き、自らも後を追おうとします。ただこれは原因不明の誤報であり、結果として半死半生をさまよったのち一人で他界します。

 

クレオパトラの最期

クレオパトラは全く生きており、自刃を危惧するオクタウィアヌスによって監視されていました。しかし、
他所から以前贈られたイチジクの中に忍ばせた毒蛇コブラに己を噛ませて自害します。コブラでの自害には現実味などの点で疑念が残りますが、あらかじめ配下の隷奴たちを使って様々な毒の摂取による経過と結末を確かめ、その上で王室の象徴でもあったコブラに決めたとも言われています。クレオパトラの逝去によりプトレマイオス朝の衰退は決定的であり、最後の王であるカエサリウスもオクタウィアヌスによって排除されました。のちにエジプトはローマに統合され、プトレマイオス朝は滅亡を迎えます。しかし、アントニウスとの子どもは保護され、後にローマ皇帝の座に就任する歴史があります。

 

 

クレオパトラの人物像

 

クレオパトラの生涯には権力者との蜜月が多く、魅力的な人物であったというのが通説です。その容姿で混迷するエジプトに更なる激動をもたらし、ローマの権力者カエサルとアントニウスを扇動して戦乱を巻き起こした「傾国の美女」であったと解釈できます。妲己や玉藻前にも使う表現ですが、クレオパトラは才覚によって多くの英雄を魅了しました。若くして政権を治め、様々な事態を立ち回ったクレオパトラの人物像についてみていきます。

 

クレオパトラの性格

クレオパトラは王座に就く18歳ごろから既に賢明であり、エジプトの行く末を懸念して大国ローマとの外交に乗り出すなど積極的な政治を図っていたことからも責任感の強さが窺えます。これが周囲の権力にこだわる臣下の気に召さず、プトレマイオス13世との抗争に繋がったとの見方もあります。また、当時の地中海圏の全ての言語に堪能であったとの伝承もあり、カエサルも彼女の頭脳を称賛しています。この博識は故郷であるアレクサンドリアで育まれたといいます。非常に聞き上手であったとも言われ、自然と話しかけたくなるような雰囲気を持っていたようです。また、アレクサンドリアに戻るため絨毯に自らを包む(寝具袋であったという説もあります)など突飛な手段を考案して実行する才覚に富んだ人物であったといえます。

 

世界三大美女の所以

実際、クレオパトラの容姿は「確かに優れているが、絶世の美女と言うほどでもない」との伝承が有力です。後世に残る当時の通貨と彫刻にその容姿が見て取れますが、少なくとも上記の伝承を残した学者プルタルコスにとっては一般的な基準の範疇であったようです。それでも後世にわたって「世界三大美女」と称された理由として、クレオパトラの才覚と品位の高さ、落ち着いた雰囲気や透き通った声、様々な分野にわたる豊富な知識によって自然と相手の話を引き出す技量などが挙げられます。カエサルも、複雑な状況を突拍子もない手段で突破してきた女王に驚き、尊敬の念をもって協力を申し出ました。アントニウスに対しては単純に色香で篭絡したようにも取れますが、手近だからといって見境なく近づいた訳ではありません。財力を欲するアントニウスを絢爛な宴に誘い、アントニウスにとっては己の心理を的確に読んだクレオパトラの振る舞いと万全の出で立ちが協力の決定的要因となっています。ローマの一部学者からは「英雄を堕落させた妖婦」など酷評されていますが、実際のクレオパトラは優れた容姿と非常に練達した精神を兼ね備える「性格美人」として絶世の座にあると言えます。

 

 

まとめ

 

564758.jpg

クレオパトラは数々の権力者を魅了し、自らも女王としてエジプトの安定に尽力しました。最初の出来事が弟であるプトレマイオス13世から政争を仕掛けられるなど、その生涯は激動のものでしたが、時の権力者を才覚で振り向かせ、当時としてはきわめて革新的な試みを多く成功させてきました。ローマとエジプトの両国を混乱の渦に巻き込みましたが、権力を振り回すような暴君のやり方ではなく、有力な強者を味方につけることで理想の国造りを推し進めました。政敵を合理的に排除していく冷徹さと、機を見て迅速に動く抜け目のなさを兼ね備える術数に長けた人物であったといえます。

 

<関連記事>カエサルの生涯!古代ローマの偉人ガイウス=ユリウス=カエサル纏め