ダンテ・アリギエーリって何をした人?イタリアの国民的詩人の生涯に迫る!

 

「神曲」を著した詩人ダンテの生涯について

 

ダンテ/Wikipediaより引用

 

叙事詩「神曲」を著し、イタリアの国民的詩人と言われるダンテ。ここでは彼の壮絶な人生についてご紹介していきます。

 

ダンテ誕生~「新生」を著すまで

ダンテ・アリギエーリは、1265年にイタリアのフィレンツェで、教皇派の小貴族である父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネとその妻ベッラの子として生まれました。先祖には、第2回十字軍に参加して戦死した人物カッチャグイーダがいることが、「神曲」の一節から明らかになっています。
聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受けて以後、ダンテがどのように育ったかどうかについては、資料が乏しいためによく分からない点が多いです。
ダンテの最初の詩作品である「新生」によれば、ダンテが9歳の時に春祭りの中で、同い年の少女であるベアトリーチェ・ポルティナーリと出会い、その美しさに「魂を奪われるかというほどの」感動を受けた、とあります。それから9年後に18歳になった二人は聖トリニタ橋のたもとで再開します。二人はすれ違っただけでしたが、以降ダンテは猛烈な恋慕にかられ、取りつかれたように詩を書きました。しかし、この詩は恋心を他人に悟られないようにするために別の女性にあてて書いた形をとっていたので、悪い噂が立ってしまい、ベアトリーチェの感情を害してしまいます。二人は二度と会うことはなく、ダンテは結局いいなづけの女性ジェンマと結婚、ベアトリーチェも銀行家の男性と結婚し、1290年に亡くなります。ダンテは気が狂ったように悲しみますが、それを乗り越えて、詩の中に彼女を永遠の存在として生かして賛美することを誓い、また詩を書き始めます。この時に書かれた生前のベアトリーチェについて書かれた詩の数々が、ダンテの最初の詩作品である「新生」(1293年ごろの作品)として形になるのです。

 

壮年時代~フィレンツェを追放になるまで

13世紀のイタリアではローマ教皇庁と神聖ローマ帝国の勢力が激しく対立し、戦っていました。各自治土地は教皇派と皇帝派に分かれて、にらみ合いを続けていました。ダンテも教皇派の党の党員として市政に参加することになり、1289年のカンパルディーノの合戦にも参加しました。
教皇派はなんとかこの大合戦に勝利しますが、教皇派内で内部分裂が起こり、新興勢力の白党と保守派の黒党とに分かれて激しい対立が起こります。1301年にフィレンツェが黒党の支配下に置かれると、白党の幹部であったダンテはフィレンツェから永久追放となってしまいます。今まで慣れ親しんだ土地との別れというこのつらい体験は「神曲」の中にも次のように描かれています。
「他人のパンがいかに苦いかを知るだろう」
フィレンツェを追放されたダンテは、各地を流浪して廻ります。ダンテが自らの代名詞となる最高傑作である「神曲」を書き始めたのは1307年のことでした。

 

ダンテの晩年~死去まで

長い孤独な放浪の旅を続けていたダンテですが、1318年頃にはラヴェンナの領主のもとをようやく安住の地として選びます。ラヴェンナに子供を呼び寄せ、ダンテは生涯をかけた大作である「神曲」の総仕上げに入ります。「神曲」の全篇が完成した1321年、完成したのもつかの間、ダンテはマラリアという熱病にかかり、56歳の若さでこの世を去りました。

 

 

ダンテの作品について学びましょう

「神曲」の初版本/Wikipediaより引用

 

ダンテの生涯について学んだところで、次はダンテの作品についてご紹介していきます。イタリアの国民的詩人と呼ばれるダンテの作品とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

 

ダンテの最高傑作「神曲」

「神曲」は1304年頃から書き始められ、1321年に完成したダンテの長編叙事詩で、「天国篇」「煉獄篇」「地獄篇」の3部からなる超大作で、均整の取れた構成からしばしばゴシック様式の大聖堂に例えられるほどです。
また、当時としては珍しくラテン語を用いずにトスカーナ方言で書かれています。この文体が現在のイタリア語の基礎になっていると言われています。
ベアトリーチェを求めてあの世の世界を、詩人ウェルギリウスに導かれてさまよい歩くダンテの姿が描かれています。

 

もう一つの代表作「新生」

「新生」は「神曲」に次ぐダンテの傑作で、1293年ごろに書かれました。ベアトリーチェを喪った悲しみを乗り越えて、詩の中で彼女を永遠に生かし、賛美することを決意したダンテが、生前のベアトリーチェの美しい姿を賛美した詩などをまとめた詩文集です。
ソネット(十四行詩)25篇、カンツォーネ5篇、バッラータ1篇の合計31篇(数え方にはいくつか説があります)から成ります。

 

ダンテ未完の大作「饗宴」

「神曲」が書かれたのとほぼ同じころ、1304年から1307年にかけて作られた作品です。全15巻の大作として構想されましたが、第4巻で執筆は中断されました。中断された理由は定かではありませんが、同時期の叙事詩「神曲」の製作に注力したいと思ったのかもしれません。
もし完成していたら、相当な規模の大作になり、「神曲」と並ぶダンテの代表作の一つになっていたかもしれません。ダンテの燃え盛るような創作意欲を感じさせますね。

 

 

まとめ

 

ヴェローナにあるダンテ像/Wikipediaより引用

 

愛する人ベアトリーチェとの実らなかった恋、そして死別を乗り越えて、詩の中に愛する人を永遠に生かすことを決意し、実行したダンテ・アリギエーリ。彼にとっては生きて詩を書き続けることが、ベアトリーチェへの弔いであったことは間違いありません。
その純粋な心が生んだ数々の作品は、イタリアの国民的詩人の作品であるとして、現在も世界中で読まれ続けています。

 

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