ゴッホの生涯と作品について 〜知られざるポスト印象派の世界〜
情熱の天才画家ゴッホの生涯
オランダの芸術家フィンセント・ファン・ゴッホは「情熱的」「狂気的」等のイメージが後世に伝わる天才画家のひとりとして有名です。「ひまわり」は特に有名な作品であり、知っている方も非常に多いかと思われます。ファン・ゴッホの有名な作品の殆どは晩年に描かれており、晩年以前には行く先々で批判を受けています。後世になって評価の機運が高まり、ゴーギャンやセザンヌと並ぶポスト印象派の代表的人物に数えられるようになりました。19世紀後半を駆け抜けたファン・ゴッホの生涯と、残した数々の作品についてご紹介します。
印象派とポスト印象派の違い
ゴッホの過ごした時代はフランスを中心とするヨーロッパにおける芸術の転換期です。これまでの主流であった光や色彩の正確な描写に心血を注ぎ、対象の日常を見たままに描き出す等の特徴を持つ、クロード・モネやカミーユ・ピサロに代表される「印象派」に追いつき、追い越そうとしたポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、そしてゴッホなどに代表される同じ目的の元に動いた画家たちを指して「ポスト印象派」と呼称します。それぞれの画家に画風の共通点はほとんどなく、19世紀後半において印象派の長所と己の思想を合わせて優れた絵画を生み出した画家達全般を形式的にまとめるための呼称でもあります。
ゴッホの出生から少年時代
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年3月30日にオランダ南部にあるズンデルトの村で、プロテスタント派の牧師の家に長男として生まれました。ひとつ補足すると、ファン・ゴッホの「ファン」は個性を表すミドルネームです。当時のオランダ南部では統一性を求めるカトリックが主流であり、聖書信仰以外を求めないプロテスタントは少数派にあたります。親の影響もあり、フィンセントはプロテスタントとして幼少を過ごします。フィンセントには5人の弟妹ができましたが、子どもの頃から癇癪持ちであり、両親や周囲の人々は扱いに手を焼きました。フィンセント自身は自然の中でのびのび過ごし、11歳の頃には農場の小屋を精緻に描写した線画を描き上げているなど、この頃から才能の片鱗を見せていました。
絵の世界に入る
1869年、ファン・ゴッホはフランスの大手美術商グーピル商会のオランダ・ハーグ支店の店員となります。経営者であるセント伯父との不和などから、ここでの4年間をゴッホはあまり良く思わなかったようです。そんなゴッホに会うため、五男のテオドルフがハーグに訪れました。ファン・ゴッホにとって五男との会話や散歩の時間は良い時間であり、帰った以後も、長期にわたって書簡による交流が続きました。また、このハーグの美術館においてファン・ゴッホはフェルメールなどの著名な画家の絵に触れます。このときから美術、ひいては絵画に興味を持つようになりました。
キリスト教への傾倒
エッテンの牧師館と教会/wikipediaより引用
1873年、セント伯父との溝が深まり、自身の問題行動も重なったことで、ファン・ゴッホは半ば放逐のような形でイギリス・ロンドン支店に転勤となりました。この頃になると周囲との不仲が性格にも影響を及ぼし、浮世から逃れるように牧師の説教を聞き、キリストについての伝記などを読みあさります。この傾向はパリ本店に転勤しても続き、同じキリスト教の信者である同僚によって更に加速します。この頃になるとファン・ゴッホはグーピル商会での仕事にすっかり後ろ向きであり、忙しいから仕事に出てほしい、というグーピル商会の連絡を無視して実家に帰ってしまいます。この件でグーピル商会と喧嘩別れになり、ゴッホは画商の仕事を辞めます。
聖職者へのあこがれ
一度故郷に戻ったゴッホは、かねてより意欲的だった聖職者への道を開くためにオランダ・アムステルダムの大学に入ろうとします。しかし、試験勉強というものは宗教的な事だけ学んでおけば良い、というものではありません。様々な常識を学ばなければならないことにファン・ゴッホは幻滅し、ブリュッセルの伝道師学校へと狙いを移し、仮ではありますが入学を果たします。ここでの3か月の期間を経て、ファン・ゴッホは伝道師としての活動のためベルギーのボリナージュ地方へ赴きます。そこでの熱心な活動が実を結び、月給50フラン(約5700円)と仮免許を賜ります。ゴッホは人々への熱心な説教や献身を惜しまず、労働者たちと同じ目線で物事を見るために恰好まで労働者と同じ、使い古された衣類を纏います。しかし当時の貧困に苦しみ、抑圧された不満を持つボリナージュ地方の労働者達にとって、苦しみを理解しようとするだけのゴッホは受け入れがたい存在でした。伝道師の教会から見ても、ゴッホの捻じ曲がった過剰な自虐行為は伝道師と呼ぶに相応しくないと判断を下します。手法や考えを改めるよう促しますが、ゴッホは改めなかったので協会は月給と仮免許を剥奪します。
家族との対立
1879年、失意のゴッホはボリナージュ地方内の炭鉱夫のもとに下宿します。収入は親頼みであり、次第に働かないゴッホに対して家族の目は厳しくなってきます。かつては友好的だった弟・テオドルフもその放蕩ぶりを批判しました。もはや厭世的になったゴッホはあてもない旅に出ます。幾ばくかの月日を経て実家へ戻りましたが、この奇行に父親から怒りを通り越して心配され、善意から精神医の世話になることを勧めます。ゴッホはこれに猛反発し、実家近くのクウェムに移り住みます。ゴッホの状態を心配した弟のテオドルフが金銭的援助を決定します。ゴッホは次第に立ち直り、絵画への夢と憧れが再燃しました。
ブリュッセルでの経験
遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作/wikipediaより引用
ゴッホは絵を学ぶため、突如としてブリュッセルに旅立ちます。ここで実際に絵の手法を学び、その才能が育ち始めます。しかしブリュッセルという都会において資金の問題は重く、1年あまりという短期間で実家へ戻ることとなります。ゴッホにとって充実した時期であり、集中的なデッサンの経験や、行先で出会った画家たちとの交友は確実な糧となってゴッホ自身の力強い作風はこの時から現れ始めます。
ハーグでの経験
ゴッホは画風ハーグ派の代表的存在であるアントン・モーヴに師事を仰ぎます。モーヴは快く応じ絵の手ほどきや資金提供を行ってくれました。信頼できる師を得たゴッホの筆は進み、人物像のデッサンに傾倒します。しかしここでゴッホの癇癪持ちが悪いほうに働きます。軽くたしなめる意図で注意したことを、全否定されたかのように憤慨するゴッホに対してモーヴも気苦労が蓄積してきます。さらに己が資金援助したアトリエを「牧師」ゴッホが勝手に他人に明け渡した事がとどめとなり、次第に二人は疎遠になっていきました。信頼を裏切るという悪い形で終わってしまいますが、この時に得た経験とモーヴに対する敬意は終生続きます。
実家ニューネンへの帰省
1883年、親が暮らすオランダのニューネン村に帰ってきたゴッホはかつて自身を追い出した父親に激しい文句をぶつけます。父親も当然反論して険悪になりますが、実家で親の手助けをするゴッホにやがて怒りは消え、家の一角をアトリエとして提供します。これによって絵の習熟は進みますが、いぜん収入がないことは支援者であり弟のテオドルフにとって問題でした。当時の主流である明るい印象派の絵画を描いて売るよう提言しますが当のゴッホは暗い自然風景画に傾倒しており、互いの意見は全く合いませんでした。
追い込まれるゴッホ
1884年、家族の不和や関係の悪化した友人の躍進などで苦悩が蓄積したゴッホは、一度は解決した父親との問題を再び吹っ掛けました。これの解決を待たず、父が急逝します。この結末にゴッホも憔悴し、当分のあいだ仕事も、執筆も、何も出来なかったといいます。しかし、ファン・ゴッホが父の精神を追い詰めた形であるのは事実であり、妹をはじめとした親族からも批判が集中します。実家に入ることも出来ず、以前父親から借り受けたスペースに篭ることになりました。
最初の代表作「ジャガイモを食べる人々」
1885年、それまで数年の歳月をかけたゴッホの力作『ジャガイモを食べる人々』が完成を見ます。この絵はゴッホが自身の築き上げてきた経験に基づく「ゴッホの画風」によって描き上げられた最初の絵画になります。その出来栄えに本人は最大級の喜びを表しましたが、弟のテオドルフを含む周囲の評価は芳しくありませんでした。先述した険悪な友人、ラッパルトからもデッサンの粗末さを微に入り細に入り批判した手紙が届きました。これにゴッホは激怒して、ラッパルトに絶交を言い渡します。誤解を防ぐために史実から補足をしますが、この『ジャガイモを食べる人々』は後世の評価において「時代を代表する作品」とされています。
ベルギーでの生活
1885年末、ゴッホはベルギーのアントウェルペンに住処を移します。絵画への傾倒は更に深まり、食事すら最低限の粗野な物で済ませ、活動費の大半を絵のために費やしました。この地で有名な芸術家ルーベンスの絵画探求、当時のブームであったジャポニズムの絵画、浮世絵との出会い等を経てゴッホの作風には如実な変化が現れます。対象を正確に描くことにこだわらず、自分の描きたいところを強調した自由な絵画を描くようになりました。全体的な色調も明るく活力のあるものとなり、後世でイメージされるゴッホの特徴が多く出現しました。
パリにおける出来事
1886年、ゴッホは弟テオドルフとの同居を始めます。この時期のゴッホは優れた美術を積極的に作品に反映していきます。特にアドルフ・モンティセリの作品に強い感銘を受け、後にモンティセリについて編纂した本に関与したといわれています。画風においては風景画を明るく描くようになり、その点においては流行を重視する弟・テオドルフの見解と一致しました。ゴッホの画風は近代的なものとなり、若い画家達との交流も増えていきます。1887年には共同の展覧会を開くなど、精力的な活動を重ねていきます。
ゴーギャンとの出会い
1887年後半、商会の代表となっていた弟のテオドルフを訪ねた画商から見せられたポール・ゴーギャンの絵画に兄のフィンセントともども感銘を受け、約10万円で購入して飾り付けます。これをきっかけにフィンセントとゴーギャンは交友を持つようになりました。
アルルでの活動
アルルの跳ね橋/wikipediaより引用
1888年、ゴッホは活動の場を南フランスのアルルに移します。この地の美しい海や風景に感銘を受け、海にかかる橋や花の咲き誇る風景を意欲的に描き続けました。この間もゴーギャンとの手紙による交流は続いており、互いの生活苦の解消を目的とした共同生活の提案も行われています。この提案をゴーギャンは承諾し、アルルに出発する準備を始めます。ゴッホの有名な作品のほとんどがゴーギャンが到着するまでの約半年に集中して描かれており、ゴーギャンに受けた影響の大きさと直接会うにあたって見事な作品をそろえて高い評価を得なければならない、という焦りが現れています。
ゴーギャンとの生活
1888年後半、アルルに到着したゴーギャンとの同居が始まります。2人は互いに同じ風景をテーマに絵を描くなど、当初は友好的に過ごします。しかし数週間後から、ゴッホのしつこい批判と反発するゴーギャンによる罵り合いが激化してきます。そして同居から9週間後、ついにこの雰囲気に辟易したゴーギャンから互いに距離を置くべきだとの提案がされます。
ゴッホの耳切り事件
共同生活解消の決定的要因と言われており、ゴッホに気性の激しさ等のいったイメージがつく原因となった理由として、ゴッホが自らの左耳を切り落として女性に渡したという「耳切り事件」があります。このとき過度な飲酒や絵に執念を燃やしすぎていたことが原因とも言われていますが、その異常性は明らかです。ゴッホは耳の治療のため、病院に収容されました。この入院は2週間ほど続きます。
「芸術家ゴッホ」の再開
ゴッホはその後も精神的な要因で入退院を繰り返しますが、かつての友人との再会をきっかけに活力を取り戻します。長く中断していた絵画に再び取り組みますが、以前のように一人で絵描きに没頭することが困難であると実感します。そんな折、居宅のアルルから比較的近いサン・レミでの療養を勧められます。
ゴッホの晩年
ドービニーの庭/wikipediaより引用
1889年、ゴッホはここで初めて「発作間隔の長い”てんかん”」であるとの診断を下されます。病室での絵描きも認められ、ゴッホは花や夜空を中心に多くの作品を描き上げます。この時の絵画には浮世絵の影響による大胆な構図、さらに強調された豪壮な色使いが現れていました。その出来に弟のテオドルフは称賛を贈りつつも、あまりの熱量の高さにゴッホの体力、精神が摩耗しないか不安を抱きました。ゴッホは発作に悩まされながらも絵を描き続けますが、しだいに発作の間隔と強さが悪化し、ひどい時は石像のように何も手につけられませんでした。
ゴッホの終着地オーヴェル
発作がいったん治まったゴッホは、友人ガシェを頼ってパリ近郊オーヴェル=シュル=オワーズに移住します。ここの教会にゴッホは強い感銘を受け、教会を作品として描き上げます。その暮らしは穏やかなものでしたが、唐突に終わりが訪れます。友人の医師ガシェの元へ、胸部に銃創のあるゴッホが現れました。あわてて傷を検分しますが、既に当時の技術で治せるものではありませんでした。しばらくは意識があり、弟テオドルフとの会話を残すことが出来ました。ゴッホは諦めた様子で現世への執着の薄れを伝え、1890年7月29日、ファン・ゴッホはこの世を去ることとなります。
ゴッホの作品群
ゴッホは約37年という短い生涯に2100点以上に及ぶ作品を残しました。以下に代表的な作品とその背景を紹介します。
1885年「ジャガイモを食べる人々」
ゴッホが自身の画風を表した本格的な絵画としては初の作品。少年期を農耕が盛んな村で過ごしたゴッホは農夫の日常を描くことが多く、その中でも当時の集大成として描かれたものです。
1885年「開かれた聖書のある静物」
この分厚い書籍はゴッホの父親が持つ聖書であり、その手前にある小さな本は当時のゴッホの愛読書であったエミール・ゾラ著「生きる歓び」の写本である。この構図は父親との宗教に対する考え方の差、伝統的な考えを古いものとして嫌ったゴッホの考えが背景となっています。
1886年「黒のフェルト帽をかぶった自画像」
ゴッホが自画像を描き始めた1886年における作品の1つ。
1886年「パリの屋根」
1887「モンマルトルの家庭菜園」
1887「日本趣味(広重)」
1887「日本趣味(花魁、渓斎英泉)」
ヨーロッパ内で当時における流行であったジャポニズムの影響を受け、浮世絵を模写した作品群。
1887~88「タンギー爺さん」
制作当時における若い画家たちとの交流の場であった画材店の経営者、ジュリアン・タンギー爺さんを模写した作品。
1887~88「画家の自画像」
1887「麦わら帽子をかぶった自画像」
1887~88「フェルト帽を被った自画像」
この時期におけるゴッホの自画像作品群。過去の作品に比べて鮮やかな青や黄色を多用した明るい色調であり、印象派、より理論的に印象派を解釈した新印象派の特徴を取り入れた作品であることがうかがえます。
1888「アルルのゴッホの部屋」
ゴーギャンとの共同生活が終わった後の作品であり、2つある椅子がゴッホの失意を表しているようです。また、この作品は浮世絵の影響を受けたとの説があります。やや不自然に長いベッド、主観的ですがどこかゆがんだ様に見える空間など、遠近感にこだわらないダイナミックな作風を持つ浮世絵の特徴を取り入れようとした風にも思われます。
1888「夜のカフェ(アルルのラマティーヌ広場)」
ゴッホにとって夜のカフェは「異様な熱気のある場所」であり、明るい色調でありながら屈折した情念を表したような暗い雰囲気の作品です。
1888「夕方のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」
1888「ひまわり(15本)」
ゴッホのもっとも有名な作品の1つである「ひまわり」。これはゴーギャンの来訪までに描かれた7枚の「ひまわり」のうち1枚です。ゴッホはひまわりに良いイメージを抱いており、ゴッホの良好な精神状態を象徴するものであったとの説があります。
1888「ラ・ムスメ」
日本美術に影響を受けたものであり、「12~14歳くらいの女性」を描いた作品だと言われています。女性は全くの無表情であり、強い色調の服も相まって不自然な迄に暗い印象を受けます。題名は「ラ・ピュセル(お嬢さん)」を和風に捩ったものと思われます。
1888「種まく人」
1889「耳を切った自画像」
「ゴッホの耳切り事件」の後に描かれた自画像。これ以降に描かれたゴッホの自画像は全て右耳が見えない構図で描かれている。
1889「自画像」
1889「自画像」
ゴッホの生前最後の自画像。
1890「花をつけたアーモンドの枝」
1890「ヒナゲシの咲く野原」
1890「アイリス」
1890「ブドウ畑と農婦」
1890「オーヴェールの聖堂」
ゴッホが晩年に感銘を受けたオーヴェールの聖堂。
1890「オーヴェールの道」
1890「カラスのいる麦畑」
1890「ドービニーの庭」
<まとめ>
ゴッホの作風はその時々に影響を受けた人物・画風に大きく、即座に左右されています。やや極端ともいえますが、知識の習得に熱心な姿勢がゴッホの強い個性を生み出し、ポスト印象派の代表といえる天才芸術家の座に上った理由だと思われます。幼少期から生涯続いた極端な言動、振る舞いは精神を患っていたせいであるとの見方が強く、本人にその自覚が出来た晩年に至るまで対人関係で無自覚に問題を起こし続けていることも一定の納得がいきます。そのような原因もあって晩年までのゴッホに対する世間の評価は低く、手掛けた絵画の価値は後世になればなるほど上がるという不遇の画家であったと言えます。これはゴッホに限った話ではありませんが、特定の分野に没頭、特化しすぎた結果として「変わり者」と呼ばれる歴史上の人物がとりわけ芸術の分野には多く存在します。人物背景を知ったうえで美術館に行くと、また違った感想が浮かんでくるかもしれませんよ。
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