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歴史

大化の改新について徹底解説!「日本」はここから始まった!

 

国号「日本」の始まり、大化の改新について

 

 

教科書でも有名な「大化の改新」。西暦645年に端を発する政治改革であり、当時の国家に様々な変革を起し、後世の政治の礎を築いた出来事ともいえます。その中でも明確で現代にもつながる事柄として、この大化の改新をきっかけに、それまでの「ヤマト政権」という呼称から「日本」と正式な国号を定めた事が挙げられます。自国を「日本」と呼ぶのはここが始まりとも言えます。もうひとつ、日本で最初の元号である「大化」が制定された事による元号制の始まりも、この645年となっています。「大化の改新」という名称はこのときの元号が基になっているわけです。

 

大化の改新の背景と概要

大化の改新が起こるまでは地方有力者である豪族を中心とした政治が行われていました。6世紀中盤(西暦540~560?)には葛城郡の蘇我氏、摂津郡の大伴氏、山辺郡の物部氏による三大体制が敷かれていましたが、大伴氏の外交失敗による失脚、武力衝突による物部氏の衰退などを経て、政治は蘇我氏の独裁状態となります。この事態に中大兄皇子と中臣鎌足らが蜂起し、当時の権力者である蘇我入鹿を打ち倒し、残る蘇我蝦夷を自滅へと追い込みました。この一幕を「大化の改新」と理解している方も多いかと思いますが、これは「乙巳の変」であり、乙巳の変以後の西暦646年から始まる政治改革を正しく、大化の改新と呼びます。豪族による政治から天皇による政治へ転換のきっかけをもたらした歴史の一里塚とも言えます。

 

乙巳の変による蘇我氏の盛衰

蘇我氏は蘇我入鹿の大叔父である蘇我稲目の代から既に政権の一翼を担う豪族であり、稲目の子息である馬子の代には蘇我氏が全政権を掌握する最盛期を迎えます。そこからの蘇我馬子、蝦夷、入鹿の親子三代の振る舞いは身勝手を極め、親族はおろか天皇をないがしろにした専横政治が「乙巳の変」に繋がり、蘇我氏による独裁は終わりを迎えます。尤も、これで政治の表舞台から退くわけではありません。蘇我倉山田石川麻呂が右大臣の位に就くなど、事の起こりである飛鳥時代後期から奈良時代、平安時代初期まで長く政権の一角に座り続けました。

 

 

律令制の礎となった改新の詔

 

wikipediaより引用/孝徳天皇

 

蘇我入鹿らを打ち倒した中大兄皇子と中臣鎌足らは、政権を天皇に集約した「律令国家」の創設を宣言します。
実現への道のりと一連の公約を「改新の詔」と称し、天皇をはじめとして、皇太子、左大臣、右大臣、天皇補佐の内臣、知識人として国博士を政治の中枢に据えました。このとき中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣です。
これは二人が天皇の座を欲して乙巳の変を起こしたと思われないための一計が案じられています。過去に皇太子である聖徳太子が実権を担っていたことをなぞって、中大兄皇子が実質的な最高権力者となるための仕組です。
改新の詔の主要な誓約については次項から解説します。

 

公地公民制への転換

これまでは全国各地の有力者たちが各々土地を治め、穀物などの各種資源もそれぞれ占有していました。これを
私地私民制と呼びます。地域単位でのまとまりはありますが、国全体の有事において連携が取れないという欠点があります。当時は海を挟んだ隣国である隋(今で言う中国)とヤマト政権は一触即発の状態にあり、早急に全国をまとめなければならない背景がありました。そこで天皇、つまり公の政権が全てを管理する「公地公民制」へと転換する、というのが改新の詔の最初の誓約です。この制度は朝鮮半島や中国から発想を得たものであり、一元的な指揮体制による統率の実現を試みたものです。全国の支配者と人民を従わせるという所業は困難を極め、実際に公地公民制が形を成したのは7世紀後半と言われています。

 

駅伝制による交通制度の確立

改新の詔の二つ目の誓約として、遷都による首都の決定と交通の整備、今で言う県境の策定が挙げられます。首都の決定については乙巳の変から数年後に孝徳天皇による難波長柄豊碕宮への遷都が成されています。交通の整備については中国やモンゴルに発想を得た「駅伝制」が採用されました。ここでの「駅」は馬を指し、「伝」は
乗り継ぐことを指します。つまり、馬によって全国各地へと人や物資を運ぶ仕組みを駅伝制と言います。後世に残る道路などから、馬で通るための道路整備も同時に行われたとの見方があります。現代においてもそうですが県境策定は難航し、誓約から十年以上を経ての成立となりました。

 

 

天皇による律令国家への転換

 

wikipediaより引用/孝徳天皇

 

改新の詔は当時の天皇である孝徳天皇が、大臣である中臣鎌足と中大兄皇子と知恵を合わせて宣言した詔です。
それまで天皇は蘇我氏などの有力豪族と同列の存在とされ、特別な権限を持っている訳ではありませんでした。
乙巳の変、中国の増長を契機に豪族の分権支配から天皇への集権、律令国家への転換を詔として宣言しました。
律令国家という仕組み自体は百済・新羅・高句麗を参考にしたものであり、知識を持ち帰った「南淵請安」の塾に参加した大臣二人が中央集権国家の必要性を強く認識したのがきっかけとされています。律令国家への転換は早期に一定の成果を挙げ、後世に繋がるさまざまな近代制度の礎を築きました。

 

新政権による国政の改革

蘇我氏の衰退、天皇中心の新政権の開始という要素が重なって実現した事として、天皇の一存による生前譲位が挙げられます。改革以前、天皇の代替わりには他の有力者たちの同意が不可欠でした。対立者を排してきた蘇我氏の衰退によって相対的に天皇の影響力は強まり、律令制の宣言によってその地位はより堅固になります。これによって他の有力者を介さずとも天皇自身が後継者を決定できるようになりました。譲位宣言は最たるものであり、様々な政策を自由に提案し、打ち出すことが可能になったこと自体が大化の改新における大きな改革です。

 

大化の改新、その後

 

大化の改新は旧来の体制を根本から変える挑戦といえます。先述の通り、万事上手くいった訳ではありません。
653年には孝徳天皇と中大兄皇子の関係が悪化し、中大兄皇子は孝徳天皇以外の有力者を軒並み引き連れ、難波宮から飛鳥へと戻ってしまいます。これは中大兄皇子の増長による権力抗争が原因であるとの説もありますが、明確な理由は不明です。孝徳天皇は654年に没し、その後も友好国である百済への唐、新羅の侵攻、白村江の戦いにおける百済への救援失敗による国力の疲弊と百済の滅亡などの事態に直面します。事態の収拾を図り、大津宮への遷都や要衝の整備を経て668年に中大兄皇子が天智天皇として即位します。671年に没するまでの間に初の全国的な戸籍である「庚午年籍」の制作、「日本」初の法典「近江令」を作り上げるなど多くの功績を残しました。改新の詔の誓約は発布から55年後の701年、大宝律令の制定によってほぼ全ての達成を見ます。

 

 

大化の改新がもたらしたもの

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大化の改新は、それまでの不安定な分権体制を改め、現代日本の礎となる譲位制度、中央集権体制という政治モデル、元号制の開始など多くの優れたシステムを日本に築き上げました。この時点で完成を見なかった法による統治、律令制度、統一的な税制の制定などについても、後世への課題という形で日本最初の国家像を示した歴史的な改革であると言えます。

 

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