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歴史

高杉晋作の名言集!享年27歳、若くして亡くなった情熱家の名言とは

高杉晋作のことをご存知でしょうか。歴史上の人物ではありますが、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と比べてしまうとやや見劣りする知名度であるため、高杉晋作のことはあまりよく知らないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

その太く短い生涯で、高杉晋作が遺した名言は数多く存在しており、一読の価値があります。これから高杉晋作の人生の軌跡について触れ、彼の遺した名言をご紹介していきます。

高杉晋作とはどんな人物だったのか

高杉晋作は江戸時代に奇兵隊を作るなど歴史に名を刻んだ人物です。その性格は破天荒で、常識や既成概念にとらわれない、負けん気の強い性格でした。

負けん気の強さは幼い頃からのもので、こんなエピソードがあります。ある年の正月に高杉晋作が遊んでいた凧を通りがかった武士が踏んづけて壊してしまいます。何食わぬ顔でそのまま通り過ぎようとする武士に高杉晋作は立ち向かい、大の大人である武士に謝らせたという逸話が残っています。また、近所の円政寺に飾ってある天狗のお面を他の子どもたちが怖がって通っていく中、幼少時の高杉晋作は好んで見に行ったというエピソードも残されています。

高杉晋作の生涯

長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)に高杉小忠太とみちの長男として誕生します。高杉家は戦国時代毛利家中興の祖・毛利元就からの家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門です。

嘉永5年(1852年)藩校の明倫館に入学し、安政4年(1857年)に同士・久坂玄瑞の誘いで、吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・吉田松陰と出会います。物事を知識だけで頭でっかちになるのではなく、行動に移す力をもっていた吉田松陰という生きた教材を目の前にして、高杉晋作の人間形成の基礎となる部分をこの時期に体得したとされています。

安政6年(1859年)藩命により、萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会い出来るでしょうから、その時にお目にかかりましょう」との書簡を松陰に送り、江戸を出発しました。ところがその10日後、吉田松陰の死罪が確定し、死刑が執行されてしまいます。予期しなかった師・吉田松陰の死に、深い悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、倒幕を心に誓い、江戸の時代の大きなうねりの中に自らの身を投じていきます。

高杉晋作は27歳という若さでこの世を去りました。江戸時代では27歳で亡くなることは決して早過ぎるわけではなく、平均寿命よりも少し早い程度でした。高杉晋作は当時不治の病とされていた肺結核を患い、それが原因でこの世を去りました。

高杉晋作が成した事柄

高杉晋作が成した事柄として有名なのは、奇兵隊を生み出したことが挙げられます。上海で中国の半植民地化を間のあたりにした高杉晋作が、安政期以降の長州藩軍制改革の大目玉として、藩主の信任のもとにつくったのが奇兵隊です。

奇兵隊は町民市民など身分は問わずに、闘う意思のある民衆を巻き込んで結成された組織です。徴兵ではなく有志を集ったことが特徴的と言えるでしょう。また、土佐藩の坂本龍馬を仲介として、薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結したことはとても有名です。

高杉晋作の名言

高杉晋作は決して長くはない生涯の中で名言を残しています。数多くある名言の中から、選りすぐりの5つをピックアップしてご紹介します。

おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり。

高杉晋作が亡くなる直前に残した言葉だと言われています。すみなすものは心なりけりという下の句は、高杉晋作が病床に臥せっていた際に看病していた福岡の女流歌人・野村望東尼が付け加えたものとされています。ただし、高杉晋作が亡くなる数年前から辞世の句として作っていたのではないかとされる見方もあり、その真相は明らかになっていません。

また、明確な文書が残っていたわけではないので、接続詞の「を」が「に」だったのではないかという説もあります。つまり、【おもしろきこともなき世「を」おもしろく】ではなく、【おもしろきこともなき世「に」おもしろく】だったのではないかとする説です。一文字違うだけでも言葉の伝わり方やニュアンスは大きく変わってきますが、どちらの句が正しいのかという真実は現在も分かっていません。

苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこうじゃないか。

高杉晋作はネガティブなイメージの言葉を口にすることを嫌っていました。それは青年時代に学んだ「松下村塾」で出会った、生涯の師である吉田松陰の教えから見出した人生の答えかもしれません。苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこうじゃないか。という高杉晋作の言葉に彼の信念の強さが伺えます。

真の楽しみは苦しみの中にこそある。

苦しい時こそ、弱音を吐かずに辛抱してきた高杉晋作のモットーのような言葉です。真の楽しみは苦しみの中にこそあるという言葉は、苦しみや挫折を知った高杉晋作らしい言葉であると言えます。

シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。

準備期間は若い時分には必要であり、どんなにシャクトリムシのように身を屈していても、いずれ龍のように伸びるためのものであると高杉晋作は述べています。さらに、龍のように伸びるためなら、奴隷になっても下僕になっても構わない、という強烈な言葉を選んでいます。この言葉は、型に当てはまらない彼の破天荒な性格を表すとともに、なにかを成し遂げるためには我慢が必要なのだというメッセージが込められています。

過ちを改めれば、それは過ちではないのだ。

過ちを犯した後に改めればなにをしてもよいという意味ではなく、過ちもしっかりと悔い改めれば、それは過ちではなく、自らの糧になるのだということを伝えようとした高杉晋作の言葉です。

まとめ

高杉晋作のことをお分かりいただけたでしょうか。20代で亡くなったにも関わらず、多くの言葉を残し、激動の江戸時代を駆け抜けた高杉晋作の生涯やその言葉に共感するところがあったでしょうか。高杉晋作の言葉が読者の方の心に残り、熱い人生を送るきっかけになれば嬉しく思います。

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