伊達政宗の名言を紹介!天下人にも臆さない独眼竜の信念とは

知名度的にも戦国時代の3英傑に次ぐ人気を誇っている伊達政宗ですが、彼が生涯に渡って数々の名言を残していることは、歴史が詳しい方でないと知らないかもしれません。

そこで、伊達政宗とはいったいどのような人物だったかのか、12個の名言とともに紹介していきます。

伊達政宗とは

伊達政宗は、1567年出羽国にある米沢城当主・伊達輝宗の嫡男として生まれます。伊達政宗は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、68歳でその生涯を終えます。

奥州の雄とも呼ばれ、天下を取れる器の持ち主であったと言われる程、力のある武将です。トレードマークの独眼竜は、政宗が幼少期に患った病気の影響で片目が失明してしまった影響で、眼帯をつけたことが由来である説が一番有力です。ただし、文献では眼帯ではなく白い布を付けていたという説もあり、なにが本当に正しいのかは現在でも不明です。

伊達政宗の名言

それほどまでに力のあった伊達政宗は、生涯を終えるまでの間に数々の名言を残しています。以下では後世にも伝わる名言の数々を紹介し、いかに彼が信念溢れる人物だったのかを紹介していきます。

「渦はうちより起こりて、外より来たらず」

これは伊達家の親子間、兄弟間での争いが絶えない中成長した政宗が、自身も兄弟間の争いに巻き込まれた経験から皮肉として発言したものだと言われています。

「まともでない人間の相手をまともにすることはない」

政宗が豊臣秀吉に仕えていた頃、当時朝鮮出兵を考えていた秀吉は、兵士たちに対して、出兵にふさわしくないと思われる恰好を命じます。それに対して、政宗は秀吉に仕える身分でありながら、「常識的に考えられない発言ではこちらもまともに動くことはできない」と言い放ち、朝鮮出兵自体を非難しました。その時の発言が上記の強烈な言葉です。

「大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし」

政宗が、自身で渡り歩いてきた戦国時代から江戸時代にかけての重要な転換期の際に、部下に送った言葉です。物事の決断を他者に委ねるのではなく、己の気持ちを信じろというメッセージ性の強い言葉です。

「物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。」

政宗は10代の頃から戦に出兵しており、相手方の女・子供も皆殺しにする程の獰猛さを持っていました。そのためか、例え誰もが気にも留めないことに対しても、油断しないようにしていました。その時はほんの少しの不安材料だとしても、後の大事になり得る可能性を捨てずに、注意深くあらねばならないと部下に説いたのです。

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。」

政宗は大の料理好きとして後世に語り継がれる程の人物で、仙台味噌やずんだ餅など様々な仙台名物の起源に関係していると言われています。そんな政宗は、当時仕えていた三代将軍徳川家光を接待する際に、全国各地から材料を集めさせ、自ら献立・味見・配膳を行ったというエピソードがあります。

「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。」

政宗は実の母親との仲が悪く、食事に毒を盛られて殺されかけたエピソードもあるほどです。しかし、政宗は独特の死生観を持っていました。あの世こそが自身の本来戻るべき場所であり、死に対して辛いと考えずに過ごせば気も楽になるだろう、と盛られた毒に対してもあまり深刻に捉えなかったといいます。政宗の人生観が見え隠れする名言です。

「伊達政宗五常訓」

人が守るべき5つの項目として儒教では五徳と呼ばれるものがあります。項目としては、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五つで構成されています。

「仁」…思いやりや優しさ、人を慈しみ心。

「義」…自分の利益にとらわれず、正しい行いをして筋を通す事。

「礼」…礼儀作法や相手に対する敬意。

「智」…知識や経験で積み、正しい判断を下す事。洞察力。

「信」…人を信頼し、誠実である事。

これに対して、政宗の経験から言い換えた五常訓というのが存在します。

「仁」…「仁」過ぎれば、弱くなる

これは他者に対して優しさを持ちすぎてしまうと相手がその優しさに甘えてしまうためこのような言い方をしています。

「義」…「義」過ぎれば、固くなる

相手の事を考えすぎて物事を捉えると、自身で思い描いたような考えや行動が制限されてしまい、良案を思い浮かべることができなくなるという言い方をしています。

「礼」…「礼」過ぎれば、諂(へつら)いとなる

相手に対して常に尊敬・敬意を振りまくという行動は、政宗にとってお世辞や媚を売ることと同様であるとして解釈をしています。

「智」…「智」過ぎれば、嘘をつく

洞察力を養う上で確かに知識や経験は大事な要素の1つです。しかし、知識が増えていけばそれを利用し嘘をつくようになってしまう可能性があります。果たして知識や経験を養うことが本当の洞察力に繋がるのか、という疑問を呈しています。

「信」…「信」過ぎれば、損をする

人を信頼することについて、戦国時代を生き抜いてきた政宗は持論を持っていました。彼は、裏切りなどは容易に起こり得ると考えており、自身の周りの側近にしても信じすぎるということはよくない、という解釈をしています。

「気長に心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。」

生まれて間もない幼少期に政宗は片目を失明し、また実の母親との仲も悪い上に、権力に左右させられ生き抜いてきた武将の一人です。

自身の経験を踏まえて、この世という今生きている場所には客人として招かれている、という考え方を持ってました。そうすれば、自身にとって苦手な物事でもやり遂げられる、という勇気に変えていたのです。

「仮初めにも人振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。」

戦国時代から江戸時代に入ると、徳川家の大名改易政策に巻き込まれないよう、政宗は将軍を自らの屋敷に招待して自身の料理を振舞って、難を逃れたというエピソードがあります。

また2代目将軍の秀忠から、料理を運ぶ際に毒を盛っているなどの言いがかりをつけられた際には、「戦で討ち取ることは考えても料理では考えたこともない」と言い放ちました。政宗の忠誠心の強さと潔さがわかるエピソードです。また、政宗は料理が趣味であり、自身の料理には細心の注意を払って料理を出していたということが読み取れます。

「わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがるたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。」

ここで出てくる太公望とは豊臣秀吉のことです。彼も夢中になってしまう釣りは面白いものであり、無用な殺生は罪であると言われていても、ついついそれが頭から離れてしまうほど政宗も釣りに熱中していたということを言い表した言葉です。

「人がこの世に生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は、方六尺の穴一つ、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一人として我に伴うはない。我は客人であったのである。」

亡くなるまでの間に数々の功績を築いた政宗ですが、死ぬ時にはその地位や財産を全て死後の世界に持っていくことができないという現実を知っていました。

政宗は、この世に生まれてきたのは、単に客人としてという意味だったのだという境地に至ります。この世に存在する全ての者たちが最後に残すのは石碑一つだけであり、虚しさを表している言葉であります。

「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の間を 照らしてぞ行く」

政宗の辞世の和歌です。若い頃の政宗は天下を取る、という目標を叶えようと日々奮闘してきましたが、その夢も叶いませんでした。暗闇を月の光を頼りに一歩一歩辿るように、政宗も戦国時代という暗闇の中を一歩ずつ歩んできたことを表しています。

歳を取り、戦国時代から江戸時代に移り行く中で、政宗は自身の天下の夢ではなく伊達家の安泰のために尽力します。そして自身の最後を悟った時に、信じてきた道をただひたすら歩んできた一生であったと振り返って、詠んだ歌がこの作品です。政宗が自身の信念を曲げず進んできた真の戦士であることが伺える素晴らしい歌です。

まとめ

この記事では、伊達政宗のプロフィールと名言について紹介しました。独眼竜・伊達政宗は、その生涯において様々な名言を残しました。

名言一つ一つに、現代を生きる我々でも共感することができます。自身の信念を曲げずに生きていくことは、簡単にできることではありません。政宗のように自身の信念を貫く姿は、現代を生きる私たちのお手本になることでしょう。

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