濃姫の力強い人生に迫る!カリスマ信長を支え抜いた「美濃のマムシの娘」とは?

大河ドラマや時代劇、映画でしばしば取り上げられる織田信長。その正室である濃姫(のうひめ)は、作中では、目力のある意志の強そうな美女として描かれることが多々あります。

戦国の世にあって、気性の激しい信長の妻として生きた濃姫。彼女の周りには、そうそうたる武将達の姿が垣間見えます。ここでは、彼女を中心として時代背景や関わった人物達との物語、そして高貴な女性の宿命を辿ります。

濃姫が生きた時代、群雄割拠の戦国時代~安土桃山時代

戦国時代とは、15世紀末から16世紀にかけて戦乱が頻発した時代です。応仁の乱に始まり、織田信長が足利義明を奉じて上洛した永禄十一年が終りだとされています。ただし、信長の上洛後は安土桃山時代(永楽十一年~慶長八年)という時代に区分され、相変わらず戦争が続いた不安定な時期でもありました。

関ケ原の戦いを経て、慶長八年に徳川家康が江戸幕府を開き、戦乱の世は終わりを告げました。濃姫と、その夫である織田信長は、そんな戦乱の真っ最中を生きました。

当時の織田家と斎藤家

濃姫は斎藤道三の娘です。元々、織田家と斎藤家は敵対関係にありましたが、和睦を結んだ方が得策と考えた斎藤道三は、親睦の印に娘を織田信長の正室として差し出すことにしました。

これは、当時でいう政略結婚です。このような政略結婚や、娘や息子を相手方に人質に差し出すことは、相手に対して敵意がないという恭順の意を示すという意図があり、戦国~安土桃山時代にかけては頻繁に行われた戦略の一つです。

濃姫とはどのような人物?

この婚礼によって、濃姫は織田信長の正室となりました。濃姫という名前は、美濃から来た姫という意味で呼ばれた通称であり、本名は帰蝶(きちょう)もしくは胡蝶(こちょう)です。

父・斎藤道三がマムシと呼ばれた事から、濃姫が「マムシの娘」と呼ばれた事は周知の通りです。昔は今と違い一夫多妻制で、信長には正室の濃姫の他に7人の側室がいました。

濃姫は信長に直言できる数少ない人物だったと言われています。公家である山科言継の日記「言継卿記」によると、信長は濃姫の実家である斎藤家に攻め入り、稲葉山城に入城します。その城にあった有名な壺を差し出すよう信長が斎藤側に命じたところ、「壺は行方不明だ」と拒否されます。これに信長は納得しません。すると濃姫が「信じられないなら、私は一族の者と自殺します」と信長に伝えました。私達が知る信長像からすると、怒り狂って納得しないように思いますが、濃姫の言葉を聞いた信長は壺をあきらめました。

「言継卿記」は、山科言継が岐阜城滞在中に有力武士の一人から聞いた話として信憑性が高い文書です。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という俳句が有名な信長には非情な人柄のイメージがありますが、正室の濃姫の言葉には逆らえなかったことがこの逸話からわかります。濃姫は、才覚ある道三のDNAを受け継ぐ、強い意思の持ち主だったのでしょう。

濃姫の出自

濃姫は美濃国国主・斎藤道三の娘として生まれました。母親は道三の正室である小見の方です。小見の方は明智家の出身です。後に本能寺の変を起こす明智光秀の叔母にあたり、光秀と濃姫は従兄妹同士でした。

濃姫は正室小見の方の唯一の娘として育ちましたが、幼少期の詳しい様子は記録が残っていないため、確認が難しい状態になっています。当時、女性は文書にその名が載る事自体が少なく、濃姫についても記録が殆どないのです。

二度の政略結婚

濃姫が織田信長の正室として嫁いだ事は歴史的にも有名ですが、実は信長に嫁ぐ前に一度結婚をしています。

斎藤道三は守護・土岐頼芸を追放し、その兄弟を殺して美濃国の国主になりました。土岐頼芸は、信長の父である信秀を頼ったので、道三と信秀の間で戦がおこりました。また、頼芸の甥・土岐頼純も攻め込んできたことで、道三は苦戦を強いられました。道三は、この苦境を脱すべく、濃姫を土岐頼純へ嫁がせました。しかし、この婚礼後、一年も経たないうちに土岐頼純は大桑城落城の際に討死します。未亡人となった濃姫は実家である美濃へ帰ることになりました。

その一方で、道三と信秀は大垣城を巡って小競り合いを続けていました。そこで和睦を結ぶために、今度は濃姫が信長の正室となるべく二度目の政略結婚に臨んだわけです。

濃姫を取り巻く武将達

 

濃姫の周りには当時の大物武将が大勢いました。父・斎藤道三、夫・織田信長、いとこ・明智光秀、信長の家臣・豊臣秀吉など歴史の教科書に載っている武将達がそろい踏みしています。

道三の勢力拡大、信長の天下統一、光秀の本能寺の変、そのいずれにも濃姫は陰ながら関わっています。

父・斎藤道三

濃姫の父である斎藤道三は元々武士の家の生まれではありませんでした。

幼少時、京都の妙覚寺に入り僧侶となりました。その後、僧侶をやめて今度は油売りの商人となりました。この頃、美濃国の国主である土岐氏の重臣である長井氏や斎藤氏のもとに商人として出入りをし始め、親しくなります。

そんな中、長井家の家臣である西村家を継ぐことになり、その際に西村勘九郎という名に変え、商人から武士となりました。勘九郎は、その能力を遺憾なく発揮し、土岐頼芸の信頼を得ます。平民から武士に取り立てられ、主君の信頼を得るところは、後の豊臣秀吉にも似ています。こうして見ると、戦国武将は必ずしも大名家の出自でなくても本人の才覚次第で出世できたことがわかります。

土岐氏の重臣の斎藤氏の主が病死したのを境に、勘九郎はその跡を継ぎ斎藤新九郎と名をかえました。のちの斎藤道三の誕生です。道三は、隣国である尾張の国の織田信秀(織田信長の父)とも何度か戦をしますが、娘の濃姫を信長に嫁がせることで織田と同盟を結びました。道三は、この婚礼に先立って信長と会見した際に、信長の度量を見極め、濃姫を嫁に出す事を決心しました。

天文23年、道三は家督を息子の義龍に譲り隠居しました。しかし、道三は義龍よりも弟達を可愛がっていたため、義龍と対立します。義龍は弟達を殺し、父である道三も殺してしまいました。その際、織田信長は舅の救援に向かいました。世に言う長良川の戦いです。しかし時既に遅し。道三は義龍側に首を討たれ没しました。戦国時代は、肉親同士といえどもしばしば殺し合った時代でもあるのです。

夫・織田信長

織田信長といえば、戦国時代における三英傑の一人として挙げられている誰もが知る人物です。様々なエピソードがありますが、その最期は謎に包まれていて、本能寺の変では、明智軍がどんなに探しても、信長の遺体が見つからなかったという言い伝えがあります。

織田信長が、若い頃には「大うつけ」と呼ばれていた事は有名です。風変りな服装、型破りな言動で異彩を放ちました。実父の葬儀に際しては、父の位牌に抹香を投げつけたという驚きの行動の持ち主でもあります。ただ、こうした行動は、世間を欺くための芝居だったとする見方もあります。

成人した後は、城主としていわば会社の経営者のような立場で家臣を取り立て、領地を拡げていきました。古い習慣や前例にとらわれず、新しい物をどんどん取り入れる。鉄砲の導入や楽市楽座制度を発足させ、商業を発展させました。通貨を統一し、経済の発展にも尽力しています。農民であった羽柴秀吉の能力を見出し、家臣に取り立てました。非情なイメージがありますが、舅、道三危機の際には、助けに駆け付けました。人が好きで繊細な一面もあったようです。戦さにおいては、勝てる可能性があれば、攻めまくる人物でした。

外に向けては、アグレッシブという言葉がぴったりな信長。家庭においてはどうだったのでしょうか?

当時は、正室と側室の仲がこじれたり、妬みや恨みで女性関係がもつれたりする武将も数多くいました。しかし、8人も妻がいたにもかかわらず、信長に関してはそうした醜聞が残っていません。それには濃姫のの度量が大きく関わっています。内向きの事を濃姫がしっかりと守っていたからこそ、信長は天下統一に向けて突っ走ることができたのです。

従兄弟・明智光秀

本能寺の変で織田信長を滅ぼした明智光秀。光秀は美濃国の明智城で生まれました。濃姫と同じ美濃の国の出身です。実は、濃姫の母親である小見の方は明智氏出身でした。「明智氏一族の相伝系図書」という書物によると、小見の方の父親は明智光継。光秀の父である光綱は小見の方の兄にあたると書いてあります。とすると、濃姫と明智光秀はいとこ同士だったということになります。光秀は斎藤道三の近習であり、濃姫とは親密な関係だったということが推測されます。天文18年、濃姫は信長のもとに嫁ぎました。一説には、光秀と濃姫が恋仲であったという話もあるようですが、その信憑性は低いようです。

後に本能寺の変で信長を殺した光秀。幼少期親しくしていたいとこの伴侶を手にかける事に光秀はどんな思いを抱いていたのでしょうか。

当時の高貴な女性の役割

国主の娘として生まれた女性達。彼女達は、戦乱の世にあって自由恋愛による結婚など考えようもなく、敵国への人質として嫁がせられるのが常だったのです。当時は一夫多妻制でしたから、女の子も一家に何人かいたでしょうが、濃姫のように正室の娘となると、強大な力を持つ武将の元へ嫁がされました。嫁ぎ先での彼女らの役割はいわば実家のスパイです。嫁ぎ先にあっても、心は常に実家の利益を考え、そのために動いていました。

濃姫の役割

濃姫は、信長の元へ輿入れする時に道三から懐剣を託されます。道三は「信長が噂通りのうつけ者であれば、その刀で寝首を搔け」と濃姫に申し渡します。それに対して濃姫は、「わかりました。しかし信長がうつけでなかったら、この剣は父上を刺す刀になるかもしれません」と道三に言い返しました。この話は、後の世の創作かとも言われていますが、武士の妻のありようを示す逸話です。

お市の方や女性の役割

織田信長の妹、お市の方。彼女もまた濃姫と同じように政略結婚させられ、結婚後も尚、実家のために尽力した女性です。

21歳の時に、近江小谷城主・浅井長政の元に嫁いだ事で、織田と浅井は同盟を結びました。永禄13年、信長は浅井家と同盟関係にあった朝倉家を攻めました。理由は、朝倉家が信長の上洛命令に従わなかったからです。浅井長政は、信長の背後をつきました。

この時、お市は信長宛てに陣中見舞いと称して小豆入りの袋の両端をしばったものを送りました。それはとりもなおさず、その時の信長が「袋の中のネズミ」であり、前後から攻撃されている事を意味するお市の暗号を意味していました。信長はそれを見てすぐに兵を引いたそうです。

お市の機転で窮地を脱した信長。この小豆袋がなければ、その後の歴史も変わっていたかもしれません。この話は取りも直さず、嫁いでも尚のこと実家を大切に思う当時の女性の考え方が如実に現れていると言えます。彼女らの機転がなければ、武将といえど戦さに勝つ事はできなかったかもしれません。

濃姫についての様々な謎と諸説

一般的に、当時の女性についての記録は、殆ど残されていません。これは濃姫についても同様です。その為、男性サイドから書かれた文書を追っていったり、エピソードや言い伝えからその人物を紐解くしかありません。濃姫も信長の死後どのような生活をしていたのか、少ない手掛かりから追ってみます。

信長と濃姫の子供

信長と濃姫の間には子供はいなかったというのが通説です。しかし、信長は側室との間に、20人以上の子供をもうけました。男子が11人、もしくは12人、女子が12人と言われています。

そのうち、庶長子信正は信長死後に出家しました。濃姫は側室の子供である信忠を養子にして家督を継がせています。しかし、信忠は本能寺の変の後に明智光秀の軍と戦い、自害してしまいます。

ちなみに、今の織田家の直系は、次男信雄の子孫にあたります。元フィギュアスケート選手の織田信成は七男信高の子孫だと言われています。

離縁説、死亡説

先述したように濃姫に関しては、残された記録が少なく、謎が多いのです。諸説ありますが、「子供ができなかったため離縁された」、「早くに亡くなってしまった」、「本能寺の変で信長と一緒に死亡した」など様々な憶測が存在します。

しかし、本能寺の変のすぐ後に書かれた「織田信雄分限帖」という文献によると、「安土殿」と呼ばれる一人の女性が出てきます。安土城にちなんでそう呼ばれています。

城の名前にちなんで呼び名をつけられるのは、かなり身分の高い女性であり、城の主です。これが濃姫である可能性が高いと言われています。この「織田信雄分限帖」によれば、安土殿は80歳近くまで生きたことになっています。信長亡きあと、その菩提を弔って過ごしたのではないでしょうか。

まとめ

織田信長の正室でありながら、子供に恵まれなかった濃姫。他の側室達が出産するのを恨めしく思っていたのかと思いきや、彼女はもっと器の大きい女性だったようです。

織田信長が世直しに取り組んでいた間、家では大勢の側室やその子供達をまとめ、一たび事が起これば、実家のために、魔王とも呼ばれた信長に意見する。さすが、マムシ道三が信長に嫁がせるだけの器量を持った女性だと言えます。戦乱時代の女性達は、男性にしいたげられ、粗雑に扱われていた訳ではありません。しっかりとした意思を持って行動に移し、旦那さんにも譲れないものは譲らない。強くしなやかな濃姫の姿がそこに垣間見えます。

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