木戸孝允、「明治維新の立役者」の生涯に迫る!

明治維新の立役者で、維新の三傑と呼ばれた「木戸孝允」をご存知でしょうか。またの名を「桂小五郎」として知られる、長州藩の偉人です。

幕末から明治初期にかけ政治家として大いに活躍しました。この記事では、そんな木戸の生涯と彼のエピソードをご紹介します。

木戸孝允の生涯

(木戸孝允(一番左の人物)/Wikipediaより引用)

木戸孝允は、幕末から明治初期にかけて活躍した政治家で、西郷隆盛や大久保利通らと並ぶ、維新の三傑と称されています。

幕末にあっては討幕の過程で活躍し、明治維新では数々の改革を推し進め、近代国家の基礎を作った中心人物です。そんな幕末・明治維新を語るうえで欠かせない人物である木戸孝允の生涯に迫ります。

聡明な少年期

木戸孝允は、1833年に長州藩の萩城下(現在の山口県の萩市)に、藩医である和田昌景(わだまさかげ)の長男として生まれます。しかし医業へは進まず、長男でありながら、7歳で向かいに住む桂家の養子になり、侍になります。

木戸は、幼少時代より学業優秀であり、10代になると、藩主・毛利敬親に対する進講で、褒章を2回も受けるなど、藩内で若き俊英として知られるようになります。

剣豪として名を馳せる

1848年に元服をすると、木戸は桂小五郎と名乗ります。ちなみに、木戸孝允という名前は明治維新後の名前で、幕末時代は桂小五郎として活動しています。

元服した桂は、剣術に励み、やがて腕を上げて、1852年には江戸への剣術修行の遊学を藩から認められています。

江戸では三大道場の一つである練兵館に入門するや、瞬く間に実力をつけ、免許皆伝を得て、わずか入門後一年で練兵館の塾頭となりました。この練兵館の塾頭は、長州に帰国するまでの五年間務めあげ、その間に桂は剣豪として大いに名を馳せることになります。

攘夷の志士として

江戸で練兵館の塾頭を務めていた桂ですが、1854年にペリーが再度来航し、これが桂の運命を大きく変えます。このペリー来航の知らせに大いに刺激を受けた桂は、いてもたってもいられず、なんとペリーの艦隊を実際に見聞します。そして、黒船来航の衝撃が桂の向学心に火を付け、留学を希望するにいたりました。

しかし、藩に留学の希望を届け出たものの叶わなかったため、国内において西洋の知識に明るい人々を尋ね歩いて、西洋兵学や造船術、英語などを学び、西洋の学問の吸収に努めました。

こうして学問に励みながら、長州藩の中枢で頭角を現しつつあった桂は、1862年、藩論を開国攘夷へと導きます。そして、藩の上位において、欧米への留学視察をした上でその文化を吸収し、その上で攘夷を実行するという方針が決定されます。この時、後に長州五傑と呼ばれる5人の秘密留学生を密かに英国へと送り出しました。その中には後の首相となる伊藤博文や、外相となる井上薫などがいました。

しかし、1863年に長州で大事件が起こります。一部の過激な長州藩士が、下関で外国船に対し戦争を始めたのです。桂は、かねてから早期の攘夷には慎重でしたが、仲間の暴発を止めることはできませんでした。この戦争は2年近くも続き、最終的には幕府が英米仏蘭の4ヵ国に賠償金を支払うことで決着します。桂は、この頃から大政奉還と新国家の建設の夢を胸に抱くようになります。

蛤御門の変から潜伏生活へ

外国船への攘夷戦争後、長州藩を巡る情勢は急変します。まず、1863年9月30に発生した「八月十八日の政変」において長州藩は朝廷から追放され、続く1864年の「池田屋事件」で新選組により多数の長州藩士が斬られ、尊王攘夷派は大打撃を受けます。

これらの事件に対し、長州藩の過激派は、桂らの反対も虚しく暴発し、京都において挙兵しました。朝廷に対して、自分たちの正当性を認めてもらおうとしたものでした。

しかし、それは叶わず、京都において、長州軍は会津や薩摩の連合軍に敗れてしまいます。敗れた長州軍への残党狩りは凄まじく、桂は何度も危ない思いをしては切り抜け、以後、潜伏生活に入ります。

第一次長州征討と長州への帰還

朝敵となった長州に対し、幕府は第一次長州征討を開始します。しかし、この征討は長州藩の不戦敗となり、長州は幹部の自決や死刑で責任をとることになります。そして敗戦の結果、長州藩内は内部抗争に陥り、藩が真っ二つに割れてしまいます。長州藩は正に存亡の危機でした。

そんな中、高杉晋作が立ち上がり、藩内で軍事クーデターを起こします。高杉はこのクーデターに成功し、政権を掌握します。そして高杉らは、桂がどこかに身を潜めていることを知り、遂には桂を長州藩を率いるリーダーとして迎え入れます。

薩長同盟を結ぶ

1866年、長州藩は土佐藩の坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩との間に薩長同盟を結びます。薩長同盟の締結以来、桂は長州を代表し、薩摩の西郷隆盛や大久保利通らと会合を重ね、同盟を不動のものにしていきます。また、この薩長同盟の下、長州は薩摩名義で英国から武器や軍艦を購入し、幕府との戦に備えます。

第二次長州征討で幕府軍を破る

幕府側は、1866年、長州藩の軍備増強や秘密貿易を口実に、第二次長州征討を仕掛けて来ました。

しかし、薩長同盟により秘密貿易を通して武器や艦船を購入し、近代的な軍隊へと生まれ変わっていた長州軍の士気は極めて高く、坂本龍馬が感激して、「日本最強」と激賞したほどの強さを誇りました。そのため、幕府軍は長州軍の前になすすべなく敗れ続け、ここで幕府の威信は地に落ちます。

明治維新後の木戸孝允

江戸幕府を倒し、明治新政府を打ち立てた木戸孝允は、岩倉具視からその能力を買われ、政治全般の実質的な最終決定者となります。

そして、明治政府誕生以来、木戸は数々の開明的な政策を実行し続けていきます。具体的には、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、憲法の制定、三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実などの提言を行い、明治政府に実施させました。

また、木戸は岩倉使節団の一員として欧米に渡り、西洋と日本の文化の差の大きさに驚きます。その結果、内治優先を強く主張するようになり、憲法の制定と二院制の議会の設置、国民の教育の充実などを積極的に訴えました。

そして、1877年、西郷隆盛が西南戦争を起こします。当初木戸は西郷軍の征討を希望しますが、彼は明治天皇とともに京都へ出張することになります。しかし、かねてから持病の病状の悪化していた木戸は、この地で倒れます。そして意識もうろうのなか、大久保利通の手を握って「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を最後に、この世を去ります。43年の生涯でした。

木戸孝允にまつわるエピソード

明治維新の立役者である木戸孝允には、多くのエピソードがあります。ここでは数ある木戸のエピソードのなかから、2つの逸話を紹介します。

エピソード①池田屋事件の難を逃れる

1864年に、新選組が多数の長州藩士を斬った「池田屋事件」において、木戸孝允は危うく難を逃れています。その日木戸は、池田屋で尊王攘夷の志士らと会合をする予定だったのですが、早く着きすぎてしまったため、一旦池田屋を離れたところ、新選組に襲われずにすみました。木戸は、維新後に当時を振り返って、今までで一番危なかった経験は、「池田屋騒動の一件是なり」と答えています。

エピソード②名前の変遷

木戸孝允は、桂小五郎の名前でも知られていますが、彼は生涯、変名を含めて10以上の名前を名乗っています。木戸を名乗る前の旧姓は、8歳までが「和田」で、8歳以後が「桂」でした。小五郎は通称です。33歳になると、藩主の毛利敬親から「木戸」の姓を賜ります。「孝允」の名は、戊辰戦争が終わり明治時代に入ってから名乗るようになり、私達が知っている「木戸孝允」は、彼が36歳に時から名乗っています。

まとめ:京都に眠る木戸を偲んで

明治維新の立役者である木戸孝允の生涯をご紹介しました。木戸は、幕末から数えきれないほど命の危険にさらされており、生き残って明治時代の中心人物にまでなった、正に奇跡のような人物です。そんな木戸ですが、今は京都の霊山護国神社の墓所で志士達とともに眠っています。近代日本の創建を担った男は、一体どんな夢を見ているのでしょうか。幕末・長州の生んだ逸材、木戸孝允に思いをはせてみませんか。



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