董卓は「三国志最大の暴君」だった?その波乱万丈な生涯に迫る!

三国志最大の暴君と呼ばれた「董卓」(とうたく)をご存知でしょうか。権力を握った董卓は暴虐の徒として名を馳せましたが、彼は一体どのような人物だったのでしょうか。武将・董卓の生涯に迫ります。

董卓の生涯

董卓は、中国北西部の涼州(現在の甘粛省)に生まれた、中国の後漢(25~250年)末期の武将です。三国志ファンならば、三国志における悪人として真っ先に名を上げる人物が、この董卓でしょう。辺境の地の武将の1人に過ぎなかった董卓が、中央に上るや立身出世を遂げて、ついには皇帝を凌ぐ権力を手にします。しかし、驕れる人も久しからず、彼の天下は長くは続きません。栄華を極めた董卓も、悲運の最期を遂げます。こうした董卓の生涯を詳しく見ていきましょう。

武芸に秀でた青年期と地方官時代の活躍ぶり

董卓の生まれた年は現在でも分かっていませんが、亡くなったのは初兵3年4月23日(西暦では192年5月22日)とされています。上述したように、董卓は中国北西部の涼州(現在の甘粛省)の出身です。若かりし頃の董卓は、腕の力が非常に強い弓矢の達人で、武芸に秀でた豪傑でした。

その後、郡の役人となった董卓は、盗賊の取り締まりや、異民族の討伐で大いに活躍し、順調に出世を重ねていきます。そして、并州刺史(へいしゅうしし)や河東(かとう)太守という、一州の長官に就任します。

涼州で力をつけ、時勢を伺う

昇進を重ねた董卓は、中郎将に任命され、黄巾の乱の討伐を命じられます。黄巾の乱とは、184年に太平道という道教の一派の教祖である張角(ちょうかく)が起こした農民反乱です。その反乱の規模は非常に大きく、中国各地で農民が武装蜂起し、漢帝国の衰退を招きました。そして、黄巾の乱の平定に向かった董卓ですが、敗北し、免職されてしまいます。

しかし、同じ年の冬に、涼州で反乱が起こると、再び中郎将に任命され、討伐に向かい、今度は敵を大いに破ります。この功により、188年、董卓は前将軍に任命され、さらに力をつけることになります。

その後、朝廷より少府に任命され、董卓の軍を引き渡すように命じられますが、董卓はこれを拒否します。そして大軍を率いたまま駐屯を続け、時勢を伺いました。

都・洛陽に上洛し、政権を握る

189年に、漢の皇帝である霊帝が没すると、大将軍の何進(かしん)は、霊帝の時代に権力を握っていた宦官たちを排除すべく、董卓の軍勢を都・洛陽に呼び寄せます。しかし、董卓が都に着いた頃には、何進は宦官たちの反撃にあって殺されていました。そして何進を討った宦官たちもまた、司隷校尉(しれいこうい)の袁紹(えんしょう)によって討ち果たされます。

このような混乱のさなか、軍勢を率いて都入りした董卓は、何進の勢力を吸収して強大な力を得ます。またこの時、生き残った宦官たちが、幼い皇帝とその弟を連れ出して、都から逃走するという事件が起きていますが、董卓が彼らを救出します。このことは董卓にとって正に僥倖でした。皇帝を保護することにより、董卓の発言力は大いに増しました。

しかし、その董卓にも目障りな存在がいました。都の警備を司る執金吾(しつきんご)の丁原(ていげん)です。董卓は丁原を排除しようともくろみ、丁原の配下である天下第一の猛将とされた呂布(りょふ)を取り込んで、丁原を殺害します。そして呂布とは父子の契りを交わし、呂布は董卓の「息子」となりました。このようにして都で最大の武力を持つにいたった董卓は、遂に幼い皇帝を廃し、その弟を新たに皇帝(献帝)とするなど、政治を欲しいままにする力を手にしました。

位人臣を極め、暴虐の限りを尽くす

献帝を即位させると、董卓は、相国(しょうこく)という最高位の地位につきます。相国とは現在の首相にあたるポストです。地方の役人にすぎなかった董卓は、ここに位人臣を極めます。そして、悪名高い董卓の非道は、ここから始まるのです。董卓は、気に入らない人物をことごとく処刑し、その一族郎党まで皆殺しにします。また、富豪から金品を奪い取り、歴代皇帝の墓を暴くなど、暴虐の限りを尽くすのです。

しかし、こうした董卓の専横に反発する勢力も現れます。袁紹、袁術、曹操、劉備、孫堅といった、後に三国志を代表する人物たちが、各地で董卓に反旗を翻したのです。この反董卓連合軍が結成されるや、董卓は都・洛陽に滞在することに不安を覚えます。そこで洛陽を焼き払い、宮殿や民家をことごとく焼き尽くしたうえで、自身の本拠地に近い長安へ遷都を強行します。

「息子」呂布の裏切り、長安に死す

長安を都とした董卓は、自らを大師(たいし)と称し、さらに専横を極めます。そして家族や親族を国家の要職につけて、事実上、漢帝国を董卓の一族で支配しました。また、皇帝にしか許されない、青い蓋のついた車で外出をするなど、その横暴ぶりも、留まることを知りませんでした。一方、地方に目を転じると、反董卓連合軍も一枚岩ではなく、袁紹派と袁術派に分かれて抗争を始め、天下はますます混沌としてきました。

このような情勢下で、都・長安において、董卓の信頼する人物は、司徒の王允(おういん)と「息子」呂布でした。司徒とは、王室を支える役職で、王允は清廉潔白な人物だったため、皇帝である献帝から信頼され、董卓さえも王允のことを尊敬していました。しかし王允は、決して董卓に従っていたわけではなく、従ったふりをしていて、董卓を討つ機会をじっと待っていたのです。一方の呂布は董卓の侍女と密通しており、その発覚を恐れていました。露見すれば、董卓に処罰されることが明らかだったからです。

そこに目をつけた王允は、董卓の「息子」である呂布に、董卓の暗殺を持ちかけます。呂布は、董卓を暗殺すれば、自らの密通を咎められることもなく、また、出世する好機であると考え、董卓の暗殺計画に加担します。

そして、その暗殺計画は192年5月22日、遂に実行されました。その日、それまで病に臥せっていた献帝が快癒したお祝いの会が開かれ、董卓も招かれました。この時を好機と見た王允と呂布は、董卓の暗殺を決行します。暗殺計画のことなど何も知らない董卓は、宮殿の門に到着するや、兵士達によって中に入るのを拒まれます。これに激怒した董卓は呂布を呼びだすものの、呂布はふところから、董卓の暗殺を認めた皇帝の詔(みことのり)を取り出して、「詔だ!」と叫んだ後、董卓を斬り捨てます。

こうして、栄華を極め、皇帝を凌ぐ権力を手にした董卓は、生涯の幕を閉じたのでした。そして、董卓死後、彼の一族郎党はことごとく処刑され、ここに董卓一族は完全に滅び去ったのです。

董卓のエピソード

三国志最大の暴君として悪名を轟かせた董卓ですが、意外にも、若い頃は気さくで人情味を感じさせる人間であったと伝えられます。この章では、そんな彼の異民族との交流を巡るエピソードや、『三国志演義』において、どのように描写されているのかをご紹介します。

西北の異民族「羌」(きょう)との交流

若かりし日の董卓は、西北の地である西涼を放浪していたことがありました。この地には、遊牧民族である羌族が暮らしていたのですが、いわば彼らは異民族です。当時、漢帝国から見た異民族は、すべて「蛮族」と見なされ、差別を受けており、漢民族と異民族との交流は多くありませんでした。かし董卓は、異民族である羌族と交流し、すべての顔役と親交を深めたと伝えられています。このことから、董卓は異民族に対して差別意識を持っていなかったのではないかと考えられます。

またある時、郷里に戻った董卓のもとへ羌族の人々が訪ねてきたことがありました。当時貧しかった董卓には、客人をもてなすだけの食べ物がありません。そこで彼は、農耕用の牛を殺して、その肉で羌族の客人をもてなしました。そのことに感動した羌族の人々は、帰ると董卓に1000頭もの畜獣を贈ったそうです。

『三国志演義』における脚色

史実において、呂布は董卓の侍女と密通していたとされていますが、『三国志演義』ではこの話が脚色されています。『三国志演義』では、王允の養女である貂蝉(ちょうせん)が董卓の侍女となっており、董卓と呂布が貂蝉を巡って不和となって、遂に呂布が董卓の暗殺を決断するという話が描かれています。

まとめ

「三国志最大の暴君」と呼ばれた董卓の生涯をご紹介しました。地方の一介の役人に過ぎなかった董卓は、辺境の地である涼州で力を蓄え、時勢を伺いながら、遂には時の政権を掌握しました。いわば天下人となったのです。権力を握った董卓は、皇帝にしか許されない、青い蓋のついた車で外出をするなど、まるで皇帝のように振舞いました。そんな繁栄の絶頂にあった董卓も、「息子」呂布によってあっけなく討ち取られてしまいます。

彼の最期を思う時、どんなにお金や権力を手にしても、それはほんの一瞬の幻のようなもので、まさに諸行無常なのだと痛感させられますね。

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