ワイアット・アープはいかにして「英雄」となった?西部開拓時代のある保安官の生涯

19世紀アメリカ。人々が新天地を求めた西部開拓時代には、多くの危険や困難がつきものでした。そんな時代を意欲と勇気のあふれる多くのガンマンやカウボーイ、無法者たちが生きました。その中でも最も有名なガンマンの1人が、今回紹介する保安官ワイアット・アープです。

ワイアットはよく知られた「OK牧場の決闘」で勝ち残った保安官です。彼の名を知らなくてもこの決闘の名前を聞いたことがある方は多いでしょう。その一方で、実際のワイアットが西部劇に描かれるような「英雄」であったのか、疑問視する声もあります。ここでは彼の人生とその活躍を追い、どのようにして英雄視されるようになったのかを見ていきましょう。

ワイアット・アープって何した人?

 

ワイアット・アープは直接的に国を動かすようなできごとに関わった人物ではありません。ワイアットは無法者の多かった西部開拓時代のアメリカにおいて、治安を守る保安官として活躍した人物です。彼にまつわる有名なできごととして、1881年10月26日にアリゾナ州トゥームストーンで起きた「OK牧場の決闘」があります。

西部開拓史上最も有名な保安官

ワイアットはその「OK牧場の決闘」においてただ1人無傷で勝ち残った保安官で、そこでの彼の活躍は半ば神話のように人々に語り継がれることになります。20世紀から現代に至るまで、ワイアットは西部劇の主人公として何度も映画化されました。こうして彼は最も有名な保安官になったのです。

ワイアット・アープの生涯

ワイアットの生涯は持ち前のバイタリティによる挑戦と失敗の繰り返しです。各地を転々としながら治安維持の仕事をし、同時にギャンブルや各種経営などのビジネスチャンスを常に狙っていたようです。

生い立ち

ワイアット・ベリー・スタップ・アープ(Wyatt Berry Stapp Earp)は1848年3月19日にニコラス・ポーター・アープの4番目の子どもとしてイリノイ州で生まれました。

1861年、ワイアットが13歳のころ、後に「OK牧場の決闘」を共に戦うことになるバージルを含む3人の兄が北軍に入隊します。ワイアットはまだ若すぎて入隊できなかったのですが、父親に任された仕事を何度も抜け出しては勝手に軍に参加していました。

ワイアットは16歳になると貨物を輸送するワゴンの運転手となり、18歳でユニオンパシフィック鉄道を建設する資材の輸送を任されます。ワイオミング準州で働きながら、ボクシングとギャンブルを学んだ彼は、ボクシングの審判としても評判になりました。

成人したワイアットは平均身長が5フィート6インチ(約1.6m)の当時において身長6フィート(約1.8m)という屈強な男になりました。

21歳で巡査に。ウリラとの結婚・死別

1869年、ワイアットは父ニコラスが治安判事を務めるミズーリ州ラマーにて、巡査に任命されます。

その年の遅くにワイアットは、ホテルを営む家の娘で当時20歳のウリラ・サザーランドと出会い、翌年の1870年に結婚します。しかし、その年、ウリラは第1子を出産する時に腸チフスにより突然死亡してしまいました。

ワイアットはウリラとの死別後、負のスパイラルに見舞われます。彼は、任されていた免許手数料の集金と引き渡し、裁判所文書改ざんに関する訴訟や、馬の盗難の疑いによる訴訟など多くの法的トラブルを抱えていました。

カンザス州ウィチタへ。保安官になるも解雇

1874年にワイアットはカンザス州のウィチタに移り住み、そこで警察の手伝いなどをしていました。1875年の4月になると正式に任命されてウィチタの警察署で働くことになります。しかしながら1876年にワイアットは同僚と口論の末に暴力をふるい、ウィチタを離れることとなります。

ダッジシティで保安官助手になる

ワイアットはテキサスからの牛追いたちの主要なターミナルになっていた町ドッジシティにやってくると、1876年に保安官助手(assistant marshal)に任命されます。

その年の冬に彼は一攫千金のチャンスを求め、弟のモーガンと共にゴールドラッシュに沸き立つデッドウッドに向かいました。しかし、そこではすでに鉱区が占領されていたので、代わりに木材を購入してキャンプに馬で運ぶ商売をしました。

ワイアットは1877年の春に市長の要請でドッジ市警察に再び加わると、彼は遠くに逃げた無法者を追ったり、町に乗り込んで来て暴れていたカウボーイたちを銃によって武装解除させたりといった活躍を見せたようです。

チャンスを求めトゥームストーンへ移住

1879年になると牛の町のフロンティアとして栄えていたドッジシティも落ち着きを見せはじめました。ワイアットは兄バージルから銀の採掘の新興都市であるトゥームストーンの評判を聞き、そこへ移り住みます。

ワイアットはトゥームストーンでギャンブルをして稼いだり、兄弟らとともに鉱山を拡張する鉱区通知を出したり、水の権利を購入したりした記録が残っていて、様々なビジネスに関心を持っていたようです。

1880年には、その時アリゾナ州ピマ郡の連邦保安官補であった兄バージルからの要請を受け、ワイアットと弟のモーガンは、後に「OK牧場の決闘」で戦うことになるこの辺りの無法者の集団「カウボーイズ」(当時この地域でカウボーイという言葉には、「牛で生計を立てる者」というよりも、「牛泥棒」のような悪い意味合いがありました)をラバを盗んだ容疑で追跡しました。

アリゾナ州ピマ郡の副保安官になり活躍するも、辞任する羽目に

1880年に、ワイアットは当時トゥームストーンのあるアリゾナ州ピマ郡東部の副保安官(deputy sheriff)に任命されます。彼は仕事をうまくこなし、新聞には彼の名前が毎週のように登場しました。

この年の11月にピマ郡の保安官選挙が行われました。この選挙ではその地域で強く支持され、再選することが予想されていた共和党のボブ・ポールに、対抗馬として民主党のチャールズ・A・シベルが立候補しました。

また、当時アリゾナ州ではピマ郡が分割されて新しくコチセ郡が作られることが知られていました。ワイアットの住むトゥームストーンはコチセ郡に含まれることになるので、彼はピマ郡の次期保安官として有力視されるポールを支持することで政治的なつながりを持ち、ピマ郡の保安官となったポールが新たにコチセ郡を作る時にその最初の保安官として指名してもらおうと考えていました。

しかし、予想に反して選挙の結果ピマ郡の保安官に当選したのはシベルでした。実はこの時シベルはワイアットと敵対していたカウボーイズに支持されていて、彼らの不正な入札によって保安官の座を勝ち取ったのです。この選挙の後、ワイアットは副保安官の仕事を辞任します。この背景にはワイアットがポールを支持していたために、シベルに辞任を要求された可能性が高いと考えられています。ワイアットはトゥームストーン副保安官の座をわずか3ヵ月で失ってしまいました。シベルは新しいトゥームストーンの副保安官にジョニー・ベハンを指名しました。

この選挙結果を不服と感じたポールがシベルに対して訴訟を起こすと、翌年1881年の4月には公的にシベルの不正が認められ、行われた再投票の結果最終的にポールはピマ郡の保安官選挙に勝つことになります。

しかし、1881年の1月には既にピマ郡の東部からトゥームストーンが含まれるコチセ郡が作られ、そこにはベハンが副保安官として任命されていたので、4月にピマ郡の保安官になったポールはワイアットをトゥームストーンの副保安官に任命することができなかったのです。

トゥームストーンでの職を失ったワイアットですが、彼と彼の兄弟が所有する鉱山の権利とギャンブルからいくらかの収入を得ていました。

「OK牧場の決闘」──事件の背景──

1881までの間に無法者を取り締まるワイアットたちアープ兄弟と、カウボーイズとの緊張は高まっていました。

その年の9月にカウボーイズによるトゥームストーンエリアの駅馬車の強奪が発生しました。駅馬車は2人の覆面の男によって襲われたのですが、ワイアットたちの捜査によってこの犯人の正体が副保安官であるピート・スペンスと、フランク・スティルウェルであると判明します。2人は証人にアリバイを証言してもらい、証拠不十分として保釈金を払って釈放されますが、1ヶ月後の10月13日に連邦政府からの別の新たな疑いでバージル・アープに再逮捕されます。しかし、新聞は彼らが10月8日に発生したまた別の強盗で逮捕されたと報じました。

この誤報によってカウボーイズの一員であるフランク・マクロウリーはアープたちが不当にカウボーイズたちを何度も逮捕していると考えるようになります。そして、アープたちに対して次に彼らを逮捕することがあったらただではおかないと脅迫を始めました。

そして両者の緊張がピークに達した10月26日に「OK牧場の決闘(Gunfight at the O.K. Corral)」が起こります。ちなみにOK牧場と聞くと広い牧場を想像してしまいますが、実際に銃撃戦があったのはコラル(Corral)という牛や馬の小さなつなぎ場の近くです。この事件を基にした映画が日本で公開された時に、コラルという言葉が日本人にはなじみが無いので牧場と訳されていまい、そのまま事件の名前として定着したのです。

「OK牧場の決闘」──至近距離の銃撃戦──

1881年10月26日、カウボーイズたちは武装してフリーモントストリートのOKコラルの周りに集まっていました。そのことを知ったトゥームストーン保安官であるバージルは弟のワイアットとモーガン、その友人のドク・ホリデーにカウボーイズを武装解除してほしいと助けを求めました。この時ワイアットはバージルに任命されて保安官助手、モーガンは副保安官でした。

午後3時ごろにワイアットたちがOKコラルの裏口の空き地に到着すると、そこには5人のカウボーイズたちがいました。カウボーイズは武装解除の要求には応じず、銃撃戦が始まりました。現場はとても狭い空き地で、両者は6~10フィート(1.8~3m)しか離れておらず、決着はすぐにつきました。カウボーイズは2人が逃走、3人が死亡し、バージル、モーガン、ホリデーが銃弾により負傷した中でワイアットだけが無傷でした。

殺人罪で起訴される

ワイアットたちは事件後、逃げ出したカウボーイズの1人であるアイク・クラントンに殺人罪で起訴されます。保安官ベハンはカウボーイズが無抵抗であったとしてワイアットの逮捕を求めましたが、ワイアットはカウボーイズとの間のこれまでのトラブルを説明したうえで、彼らを武装解除するつもりであったが、先に発砲されたので自己防衛のために発砲したと証言しました。裁判の結果、証拠不十分としてワイアットは自由の身となりますが、彼の評判は落ち込みました。

カウボーイズの復讐

事件の後、バージルとモーガンは待ち伏せしたカウボーイズたちに復讐され、バージルは左腕を失い、モーガンは死亡してしまいます。
ワイアットはこの問題の解決を民事裁判に頼ることはできないと考え、自分の手でけりをつけることを決めました。

ワイアットは残された兄弟や友人、ガンマンらを引き連れ、アープ兄弟襲撃の容疑者を追跡しました。そしてこの2週間の追跡の中でワイアットは4人のカウボーイズを射殺したと見られています。復讐の旅を終えたワイアットたちはトゥームストーンに戻ってくると、そこで著名な牧場主であったヘンリー・フッカーに祝福され、素晴らしい馬を与えられると、そこを発ちました。

コチセ郡保安官ベハンはワイアットを捜索、追跡しましたがついに彼らを見つけることはできませんでした。

事件の後の人生

ワイアットの人生で最も大きな事件であったOK牧場の決闘の後は、西部アメリカの各地を転々としながらで鉱山事業やサロン経営、ギャンブルなどの様々なビジネスを行いました。ロサンゼルスに住むようになった晩年の彼は西部開拓時代の生き証人として、西部劇映画の監修も手がけました。物語の存在ではなくて実在する銃撃戦を生き延びたガンマンとして彼は強い影響力を持ち、今日までにワイアットを主人公にした映画はいくつも作られています。

そしてワイアット・アープは1929年の1月13日に80歳で亡くなりました。彼は長生きで、アープ兄弟とOK牧場の決闘に加わった者たちの中の最後の生存者でした。

ワイアット・アープは英雄だったのか

ここまで西部開拓時代の「英雄」ワイアット・アープの生涯を追ってきました。史実として記録に残っている彼の人生を見ると、映画の主人公のような清廉潔白な正義漢とは言えないような人物であったことがわかると思います。彼はここに記述した以外にも様々なビジネスの中でいくつも法を犯した疑いがありますし、何より彼が何度もくぐり抜けてきた銃撃戦が本当に正当なものとであったといえるのかは明らかになっていないのですから。

晩年に西部開拓時代のガンマンの数少ない生き残りとして西部劇を監修した彼ですが、当然本人を通して語られる逸話の数々には自身にとって都合の悪いものが含まれることは少なく、ある意味で調子のいい話が多かったのでしょう。そうした中で「保安官ワイアット・アープ」という人物は半ば神話的存在のようになっていったのだと考えられます。

まとめ:フロンティア精神の体現者ワイアット

映画のヒーローのような模範的英雄ではなかったガンマン、ワイアット・アープ。それでも彼が悪人と戦って町の治安を維持した事実があることと、彼が混沌とした西部開拓時代の中を、銃撃戦においても、経済的な意味でも生き抜いたタフな人物であったことは確かです。

何度失敗しても新天地で身を立てる旺盛な行動力と、勇気にあふれた彼はまさにフロンティアスピリットの体現者であり、その精神性にアメリカの人々は惹かれるのかもしれません。

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