王翦の生涯と戦功!中国の春秋戦国時代の終わりを告げる名将の生涯とは?

中国の春秋戦国時代において、戦で負けたことがない武将、王翦を知っているでしょうか。戦だらけだったこの時代、勝ち続けるのは大変難しかったでしょう。

それでも、王翦は趙・燕・楚を、彼の子・王賁は魏・斉を滅亡させ、七雄の5国を二人で征服し、秦の天下統一に大きく貢献します。その王翦にスポットを当て、彼はどんな人だったのか、どんな戦いをしてきたのか、詳しくご紹介します。

キングダムで大人気の王翦とはどんな人

王翦とは、中国の春秋戦国時代を生きた武将です。人気漫画「キングダム」において最強の武将として描かれていることも有名です。王翦は実在した人物で、秦に仕えた名将として名高く、戦いにおいて負けたことがありません。

一方で、驚くべきことに彼の特徴が「保身」であると述べる人もいます。自分を犠牲にしても祖国を護るという信念が彼にはなく、自分の将来の安定を計っていたというのです。

秦王に命ぜられ王翦は楚と戦う時に、土地が欲しいと秦王に対して進言します。表向きは子孫に土地を残したいという表現でしたが、その裏には別の意味がありました。彼が楚と戦う時に秦王から任せてもらった兵は60万です。秦の全軍のため、彼が反乱したら秦王は困ってしまいます。そうした反乱の意思はないと思わせるために、彼は土地が欲しいと進言したと言われています。保身のために戦っていると秦王に思わせることで、反乱の意思はないと示した彼の知略が伺えます。

秦の武将として趙・燕・楚を征服

王翦が歴史に初登場するのは、趙を攻めて9つの城を落とした時です。その時には既に将軍に就いており、将軍として兵を率いるまでのキャリアについてはよくわかっていません。

この戦国時代には、各国に大変優秀な武将がいました。例えば、趙では李牧のような名将が指揮をとっていました。そう簡単に他国を征服していけたわけではありません。

それでも彼は負け知らずで勝ち続けるほど戦に長けていました。彼の大きな実績は、趙・燕・楚を征服したことにあります。詳しく見ていきましょう。

趙との闘い

趙と秦は長く戦争状態で、趙には李牧が居たため、なかなか攻め落とせないでいました。紀元前260年に、秦の軍勢が長平の戦いで45万からなる趙軍を攻撃し、降伏した40万の兵を全て生き埋めに処します。これによって趙は弱体化しましたが、李牧の活躍でまた息を吹き返すのです。

紀元前236年に、王翦はまず趙の南部にある鄴を攻撃します。鄴は名都であり、思うように攻略ができません。そこで、まず周辺の9つの城を占拠します。他の武将に鄴の包囲を続けさせる他、自らは他の要所を占拠し、攻撃に備えます。その後、軍の内で精鋭を選び、鄴を攻撃し、ついに陥落させるのです。

趙の反撃もあるのですが、再び王翦は大群で趙を攻撃し、名将李牧を前線から下げさせる計略を上手く運び、ついに趙を征服します。平陽で趙王を捕虜とし、一年かけて趙の国土を平定し、秦の一部とします。始皇帝は、子供時代に人質として過ごした邯鄲に赴き、敵対関係にあったものを生き埋めに処することで復讐します。

燕の秦王暗殺計画

趙が秦に征服され、燕も情勢の緊迫化を感じます。秦の勢力が燕にも近づいていることに頭を悩ませた燕は、紀元前227年に、秦王の暗殺を目的に秦に刺客を送り込みます。刺客に秦王と会い、秦が土地を燕に返還しないようであれば、秦王を殺害するように命令したのです。

刺客は秦王に迫りましたが、秦王は危ない所でこれを避け、暗殺計画は失敗。秦王は怒り狂い、王翦など武将に燕への攻撃を指示します。

そして、彼は燕を易水の西の戦いで破ります。その次の年、彼は燕都を征服します。燕王は刺客を送り込んだ太子丹と共に、精鋭を引き連れて遼東に逃れて籠城しますが、秦は猛攻撃します。困った燕王は、太子丹の首を秦に献じて詫びを入れますが、秦王はこれを受け入れませんでした。

楚との対決

燕王が遼東に籠城している時に、燕都を手中にし事実上燕を追い込んだ秦王は、次に楚を攻めたいと思います。

燕との戦いで武勲を上げた将軍李信と王翦に楚を討つための兵力はどれくらい必要か、秦王は質問しました。李信は20万、王翦は60万の兵力だと答えます。答えを聞いて、秦王は王翦を見限り李信に20万の兵を預け、楚を攻撃させます。意見が採用されなかったため、彼は病を言い訳にして引退することを決意します。

その後の秦と楚の戦いを、以下でご紹介します。

王翦、解任後再び将軍へ

20万の兵力を以って楚を攻めた李信の軍は、初めは楚を打ち負かし大勝します。しかし、その後西進するうちに楚軍に追いつかれ、三日に渡る戦いで楚は李信の軍を破ります。7名の中級指揮官を処し、李信を敗走させるのです。

秦王はそれを聞き大変悔みます。王翦の進言が正しいことを知り、秦王は隠居した彼の元へ赴き、陳謝します。彼は、「大王が臣を用いられるならば、60万の兵力がなければ成せません」と進言し秦王はその通りに兵を用意します。そうして、秦は一度解任された王翦を再び大将として、動員可能兵力を全てつぎ込んだ史上最大の出兵をすることになります。

楚・項燕と秦・王翦の最終決戦から楚の滅亡まで

秦の将軍王翦は楚の将軍項燕との対決に入ります。秦の軍勢は60万なので、数では秦が優勢だったかもしれません。しかし楚にもここが最終決戦だという思いがあり、国中の兵力を集めたという既述も見られます。実際の兵力バランスがどうであったかは詳細不明です。

王翦の謎の行動

王翦は戦地に到着すると、塁を築き、兵士には「決して出撃はするな、塁を護っていれば良い」と命令を下します。兵力は60万で築いた営塁は相当に巨大であったと推察されます。楚もその間、指を咥えて見ていたわけではなく、攻撃をするのですが、秦の防御が固く、突破できないでいました。

王翦は休む兵士を厚くもてなし、談笑したり休憩させたり、沐浴して楽しんでいたとされています。やがて兵士は営塁の中で遊び始める者まで現れます。

それを見て、彼は「やっと使えるようになった」と言ったとされます。兵士を休ませていた裏には、兵士の恐怖心を和らげ、肩の力を抜かせる狙いがあったようです。

楚の滅亡まで

楚の間諜が偵察に来てそんな秦の情報を項燕に伝えると、項燕は秦は戦うつもりがないと判断して、撤収を始めます。王翦はそれを狙っていました。彼は撤収をした楚の軍勢を追撃したのです。結果、楚の軍は戦いの始めから秦に追撃される形になってしまうのです。

兵を休ませて遊んでいたかのような彼の軍勢ですが、敵に情報が流れる事を前提として撤収させることを狙っていたようです。項燕は最後までその戦局を引っ繰り返せず、大敗します。王翦は楚を滅ぼすためそのまま進軍し、都を落とし楚王を虜にします。

そこまできてようやく項燕も反撃を開始します。元秦の大臣であった昌平君を担いで王とし、楚の復興を目論んだのです。しかし、項燕と昌平君は王翦の勢いにのまれ、結局、楚は滅亡するのです。その後、王翦は東に軍を進め、百越の部族も平定しました。

楚の滅亡を以って、中国に残っている国は秦と斉のみになりました。その後、斉を攻め天下統一が成し遂げられたと史実に残っています。その際、斉は抵抗しなかったそうで、事実上楚の滅亡が戦国時代の終焉と捉えることもできます。

子・王賁と孫・王離

王翦は名将であったとここまでご紹介してきましたが、彼の子・王賁も名将であったそうです。王翦が活躍していた頃から一緒に戦いに赴いたりもしています。紀元前222年には、王賁を将軍とし、李信を帯同させる形で秦は大軍で出兵します。遼東に隠れていた燕王の軍を破り、捕えます。さらに代を攻め滅ぼし、魏の都である大梁を水攻めして魏王を降伏させています。斉を攻めるときも、燕を攻めている王賁を呼び寄せ進撃しました。斉は滅び、秦は天下統一します。

天下統一後、始皇帝が死ぬと各地で反乱が起きます。この反乱軍を沈静化させるために秦の軍を率いているのが王翦の孫・王離です。この時秦の正規軍は30万の大軍だったようですが、反乱軍に破れています。反乱軍に王離は捕えられた所までは史実として残っていますが、その後の記載はなく、殺されたのか、後に復活した楚に仕えたのかはっきりしないのが事実です。

まとめ:群雄割拠の時代に出色の活躍をした王翦

王翦が楚を攻略する際にとった、兵士を休ませる行為は、一見勝利とはかけ離れた作戦に感じます。しかし、楚を油断させて、相手を撤退させ、彼は楚の後ろを簡単に取ることに成功します。そのまま楚を征服してしまうという偉業は、彼の知略があったからこそ成し得たものです。

秦の武将として天下統一に尽力した王翦は、始皇帝が亡くなった以後は、史実からは姿を消しています。王翦の時代は群雄割拠の時代です。その中において、王翦は数多の武将の中でも勇者としてひときわ目立った存在だったことは、誰もが認める所でしょう。

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