稲葉一鉄は「頑固一徹」?西美濃三人衆筆頭の一生に迫る

戦国時代は数々の武将(大名)が天下統一を狙い、自国の領土を拡大しようと、お互いに争いあった時代です。

田信長・豊臣秀吉・徳川家康などが有名ですが、稲葉一鉄という武将はご存じでしょうか。今回は、歴代の武将に仕えた美濃国の稲葉一鉄を取り上げます。

稲葉一鉄とは

稲葉一鉄は戦国時代(安土桃山時代)の武将で、東山道に属する軍事・交通上の要衝である美濃国に住み、後に織田信長や豊臣秀吉の家臣として活躍したことが知られています。

当時美濃を治めていた斎藤利政(道三)の有力な家臣として、稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元の3人が挙げられ、西美濃三人衆と呼ばれました。

稲葉一鉄はその3人の中でも別格で、西美濃三人衆筆頭とされていました。なお、一鉄という名前は幼いころ出家した際の名前で、俗名は良通ですが、本稿では一般的に馴染みのある一鉄を用いることとします。一鉄の名は、頑固一徹の一徹の語源と言われています。

ここでは稲葉一鉄の生い立ちとその一生についてご紹介します。

 出生

稲葉一鉄は1515年(永正12年)に美濃池田の本郷城で生まれました。父親は、斎藤利政(道三)に追放される前の土岐頼芸の家臣である稲葉通則で、母親は、国枝正助の娘とも、一色義遠の娘とも言われています。

兄弟は、長男・通勝、次男・通房、三男・通明、四男・豊通、五男・通広の5人の兄がおり、一鉄は末っ子の六男でした。

なお、一鉄の父方の祖父は剛の者として知られ、名を塩塵といい、四国の伊予(現在の愛媛県)に住んでいました。元は僧侶だったのですが、旅の途中、山の中で山賊に遭遇した際、返り討ちにして退治したという話が残っています。

出家

一鉄は兄弟が多かったので、幼少時に出家し、美濃の崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の元で学んでいました。

崇福寺は、中国の福州から超然という僧侶を招聘して建立した寺と言われています。快川紹喜は臨済宗の僧で、妙心寺に仕えた後に崇福寺に移り、その後、甲斐の武田信玄に招かれ恵林寺に入りました。

当時武家では男子が多い時は末の子は寺に預けられるのが一般的で、一鉄もそれにならったとされています。これは、家に不測の事態が起きた時に備え、男子が一人生き残って家督を継げるようにするための措置だったと考えられています。

還俗

1525年(大永5年)、隣国の小谷城主・浅井亮政が美濃へ侵攻すると牧田の戦いがおこり、一鉄の父・稲葉通則が討ち死にしました。5人の兄達も全員討ち死にし、稲葉家は存亡の危機に立たされました。

当主を失った稲葉家は急遽、出家していた一鉄を呼び戻しました。一鉄は還俗し、祖父の塩塵と叔父の稲葉忠通の後見の下に家督を継ぎ、曽根城主となりました。

僧侶として一生を仏門に仕えるはずだった一鉄は、こうして歴史の表舞台に登場し、頭角を表して行きます。なお、一鉄の正室は三条西実枝の娘で、後に家督を継ぐ稲葉貞通が1546年に生まれています。

戦国武将に仕える

一鉄は文武両道に秀でており、その才覚を発揮し、戦乱の時代をしたたかに渡り歩きました。

家督を継いだ一鉄は、当主だった土岐頼芸に仕えますが、程なく土岐頼芸は斎藤道三によって追放され、一鉄は斎藤道三に仕え、道三死去の後も引き続き斎藤家に仕えます。

しかし三代目の龍興の時、斎藤家を離反し織田信長に仕えます。織田信長が本能寺の変で死去すると、信長の家臣だった豊臣秀吉に仕えます。いずれの武将の元でも一鉄は優れた功績を挙げ、重用されました。

具体的な功績については以下に記します。

土岐氏・斎藤氏に仕えた時代

家督を継いだ一鉄が最初に仕えた土岐頼芸は、土岐政房の次男として1500年(文亀元年)に生まれました。土岐政房は頼芸を溺愛し、長男・頼武に家督を継がせないと宣言しました。このことから頼武と頼芸の間で家督争いが生じ、1517年(永正15年)、内紛になりました。この戦いは1年続きましたが、最終的には頼芸が勝利しました。

その後しばらくは安定した美濃の統治が続いていましたが、家臣の斎藤道三が謀反を起こし、土岐氏は追放されてしまいます。一鉄は斎藤家と婚姻関係が強く、頼芸追放後も斎藤道三の重臣として活躍し、安藤守就、氏家直元と共に美濃三人衆として知られるようになります。

織田信長に仕えた時代

斎藤道三の娘婿である織田信長は、尾張国統一を成し遂げ、桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃攻略の機会を伺っていました。

その頃一鉄は美濃国三代目当主の斎藤龍興の能力を疑問視し、安藤守就、氏家直元と共に信長に近づきます。1567年(永禄10年)、一鉄ら美濃三人衆は美濃攻めを本格化させていた信長に内応し、稲葉山城の戦いで斎藤龍興の敗走を決定的なものとし、以後信長に仕えることになります。

その後の一鉄の戦功は著しく、1568年(永禄11年)の観音寺城の戦い、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦い、1571年(元亀2年)の長島攻め、1572年(元亀3年)の摂津交野城の後詰め、1573年(元亀4年)槇島城の戦いと一乗谷城の戦いなど優れた武功を発揮し、信長から美濃清水城を与えられます。

本能寺の変との関りについて

本能寺の変で信長が明智光秀に討ち取られると、その機に一鉄は美濃国人衆に美濃の独立を呼びかけます。甥の斎藤利堯を岐阜城主として擁立しようと画策します。

信長の死で分裂した諸将が、旧領を奪回しようと蜂起し、美濃国に攻め込んできますが、迎え撃って勝利し、彼らの領地を支配下に置きました。この一連の一鉄の動きは、豊臣秀吉が明智光秀を素早く討伐して混乱を鎮めたため、実ることはなく、美濃に国主を立てるという野望は叶わず、一鉄は秀吉に仕えることになります。

豊臣秀吉に仕えた時代

前述のように、信長が本能寺の変で倒れた後しばらくして、一鉄は秀吉を新たな主君として仕えることになります。信長の領地の分割を話し合う1582年(天正10年)の清洲会議で、美濃の岐阜城は信長の三男・信孝が相続することとなりましたが、一鉄は信孝に従わず、美濃で抗争を繰り広げ、信孝と対抗する秀吉に従うようになります。美濃は織田家のものではないという意識が強かったようです。

その後、信孝が死去して池田恒興が新城主になっても、一鉄は独立的立場を保ちました。1584年(天正十二年)、69歳になった一鉄は小牧・長久手の戦いに出陣し、それを最後に第一線から身を退きました。一鉄は1588年(天正16年)11月19日に美濃清水城で死去しました。享年74歳でした。

逸話

一鉄は武勇だけではなく、学問にも造詣が深く、1574年(天正2年)に一鉄を讒言する者がいて信長に疑われ茶室で殺されかかった際、掛物の絵に書いてある禅僧の虚堂智愚の墨蹟『送茂侍者』の漢詩をすらすらと読み上げ、その意味を詳しく説明して信長を感嘆させて許されたという話が残っています。

一鉄は茶室に招かれる際、ただならぬ雰囲気を感じ取り、自分の命が狙われていることを察知しつつもその席に出向きます。茶室には3人の供侍がおり、懐に短刀を忍ばせ、信長が合図をすれば一鉄を殺そうと狙っていました。ところが一鉄が前述のように掛物の漢詩を流暢に読み上げ、また、自分は謀反を起こす気は毛頭ないと忠誠を訴え、感心した信長が「私が間違っていた。今後貴殿を害することはない」と疑いを晴らしました。

まとめ

本稿では、その出生から土岐氏・斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉の各君主に仕えた生きざまをご紹介しましたがいかがだったでしょうか。戦乱の時代をその才覚でしたたかに生き抜き、多くの戦で様々な武功を立てた一鉄という人物が多少は身近に感じられたでしょうか。

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