高村光太郎、彫刻と詩にあふれた生涯に迫る
高村光太郎は、青森県の十和田湖にある「乙女の像」の製作者として有名ですが、彼の送った人生について知らない方もいるでしょう。また、詩の著書として「道程」「智恵美抄」などを出版していますが、本を読むのはちょっと難しそうと感じますよね。そんな方のためにこの記事では、出来上がった作品のエピソードを通しながら、彫刻と詩にあふれる高村光太郎の生涯について解説します。
高村光太郎とは?
高村光太郎は、父に西郷隆盛像を作った彫刻家の高村光雲を持つ、日本を代表する詩人・彫刻家です。主な作品として、彫刻「乙女の像」、ブロンズ塑像「手」、木彫「鯰(なまず)」と詩集の「道程」、「智恵子抄」などが有名です。また、教科書にも多く作品が掲載されています。他の作品として、評論や随筆や短歌などがあります。
高村光太郎の生涯
そんな高村光太郎の生涯は、彫刻と詩にあふれています。光太郎の波乱に満ちた生涯について紹介します。
幼少期
1883年に、高村光太郎は、西郷隆盛像を作った有名な彫刻家・高村光雲の8人兄弟の長男として生まれました。
幼い頃は、父親が絶対的存在で、自分が彫刻家になることを信じて疑いませんでした。下谷高等小学校を卒業した後、共立美術学館予備科に学期の途中から入学しました。卒業後、15歳の時に東京美術学校の彫刻科に入学し、芸術についてよく学びを深めていきました。その反面、この頃から父の職人的体質や俗物性に嫌気がさし始めていたようです。
またこの頃、文学にも関心を寄せていました。在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人作家として、「明星」に寄稿したりしていました。
1905年の22歳の時に、光太郎は雑誌「ステュディオ」に載っている、ロダンの彫刻「考える人」の写真を見て大きな衝撃を受けました。それをきっかけに、ロダンにのめり込みます。そののめり込み様は、カミイユ・モオクレエル著の「オオギュスト・ロダン」を読み漁り、「私は寝てもさめても手離さなかった。相当に詳しい此の伝記書を実に熱心に読んだ。食べるように読んだとは此の時の事であろう」と言ったくらいです。
光太郎は、ロダンに代表される新たな芸術に魅了されていくのと同時に、その対極にある体制側にいる古いタイプの芸術家の父・光雲のことがますます嫌いになっていきました。この出来事の3年後に海外留学に行くことになります。
欧米留学
光太郎が24歳の1906年に、父からの留学資金2,000円を元にアメリカへ渡ります。光太郎はニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れます。そこで彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会い感動しました。そこで、光太郎は熱心な手紙を書くことで、彼の助手になることに成功します。こうして、昼は助手として働き、夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学で美術を学ぶという生活を送ります。また、この夜学の美術学校で特待生になっています。
翌年の25歳の時、イギリスのロンドンに行き、画学校へ通い勉学に励むと同時に、図書館、美術館、劇場、音楽会などの西洋文化を忙しい合間を縫って満喫しました。さらに翌年の26歳の時、フランスのパリに向かいます。「私はパリではじめて彫刻を悟り、詩の真実に開眼され、そこの庶民の一人一人に文化のいわれを見てとった」と言うくらい、 光太郎はパリに魅了されました。パリの市街を歩き続けることで、そこにある様々な芸術を吸収していきました。
妻・智恵子との出会い
こうして、日本に帰国をした光太郎は、ことごとく父・光雲に反抗をします。東京美術学校の教職を断り、パンの会に参加し、芸術の自由を宣言した評論「スバル」で美術批評を行い、日本の社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義に反発しました。
そうしていく中で、光太郎は当時流行であったデカダン(退廃芸術)の道に進んでいきます。やけ酒を飲んで、芸術家仲間の会で暴れたり、女と遊んだり、どうしていいかわからない焦燥の日々を送っている時、智恵子との出会いで目が覚めます。そして、その2年後の1914年にデカダンとの決別宣言とも言える記念碑的詩集「道程」を出版しました。この中には「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」とうたっていて、目の前に何が待ち受けようとも自ら人生の道を切り拓いて行こうという強い決意を表したのです。そしてこの年に光太郎と智恵子は結婚します。
妻・智恵子の死
二人の幸福で充実した日々が十数年続いた後、智恵子に不幸が襲います。実家の父親が亡くなるのです。そればかりか、相続人のせいで実家が破産します。このせいで、智恵子は帰れる実家と故郷を失ってしまいます。
この事件をきっかけに智恵子は統合失調症という重い精神病にかかり始めます。一時は睡眠薬で服薬自殺を図りましたが、九死に一生を得ました。また、千葉県の九十九里浜に母親とともに保養生活をしますが、病状は進み一向に改善される様子がありませんでした。
約7年間の闘病生活の後、智恵子は静かに息を引き取ります。この日、智恵子は光太郎の持っていたレモンを食べて、一瞬意識が正常に戻りました。そう、健康な昔の顔になっていたのです。この感動的なエピソードを光太郎は「レモン哀歌」として書いています。
この出来事の3年後に、この「レモン哀歌」を含む二人の愛を綴った詩集「智恵子抄」を出版しました。
孤独な山小屋生活と乙女の像の製作
智恵子を失うことで、芸術の制作意欲が無くなってしまった光太郎は、心の空白を埋めるかのように戦争協力詩を書いていきます。しかし、敗戦となると戦争に協力してしまった自分の愚かさに気づきます。そして、罪を償うため、岩手県の山中で山小屋生活を行います。3畳のスペースで電灯が無いばかりか食料も乏しいという劣悪な環境でした。この劣悪な環境は罪を償うのと同時に、智恵子との思い出を自分の中に刻み込む時間でもあったようでした。
この後、十和田湖の記念像の依頼が舞い込んだのもあり、約7年の山小屋生活を終え、東京のアトリエで光太郎は智恵子像の制作に熱中しました。長い山小屋生活を送っていたため、体力もわずかしか無く、口から血を流しながらの壮絶な制作となりました。こうして、まるで自らの命を代償にして智恵子像は出来上がりました。智恵子像が完成した直後、肺結核のため光太郎は生涯を終えました。
まとめ
高村光太郎は、日本を代表する彫刻家であり詩人です。その生涯は愛と芸術に溢れています。幼少期から父の背中を見て彫刻家を志します。欧米留学を経て、ロダンに代表される新たな芸術に心酔し、帰国後、対極にある体制側にいる古いタイプの芸術家の父にことごとく反対をします。デカダン(退廃芸術)に流れますが、智恵子に出会うことで改心します。
智恵子が精神を病み亡くなり、心の空白を埋めるため、戦争を加担する詩を書いてしまいます。その後悔から、7年の山小屋生活を送ります。最後に自らの命を代償にして智恵子像(乙女の像)を制作しました。