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歴史

北原白秋のスキャンダラスで奔放な人生と代表作

詩人、歌人でありながら、現代にも歌い継がれる童謡作家でもあった北原白秋。数多くの詩歌と、童謡を残した白秋ですが、その一方で発表した作品が風紀を乱すとして発禁されたり、自身も姦通罪により逮捕されたり、さらに2度の離婚を経験するなど、奔放な天才らしい生涯を過ごした人物でもあります。

ここではその北原白秋のスキャンダラスな人生と代表作の一部についてご紹介します。

北原白秋とは

北原白秋は近代日本を代表する詩人の1人で、数多くの詩歌を残しました。また、「この道」や「あめふり」といった誰でも一度は耳にしたことがある童謡も手がけ、時を同じくして活躍した詩人、童謡作家である三木露風と共に評され、その時代は2人の名をとって「白露時代」と呼ばれています。

北原白秋の生涯

北原白秋(本名北原隆吉)は1885年(明治18年)熊本県南関に、九州の海産物問屋の子として生まれ、ほどなくして福岡県柳川に移り住みました。

その後彼がどのようにして詩人、作詞家として活躍していったのか、その生涯を追っていきましょう。

少年期~文壇の交友を広めるまで

白秋は1897年(明治30年)に12歳で県立伝習館中学に入学しますが、2年後の14歳の時には、成績不振により落第となってしまいます。この頃から詩や歌に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載、「白秋」の号を名乗るようになります。

1904年(明治37年)に父の反対を押し切って、家出し上京すると、早稲田大学英文科予科に入学します。

学業よりも詩作にのめり込み、同郷の若山牧水や、与謝野鉄幹・晶子、木下杢太郎、石川啄木らと交流し、作品を発表。文壇での評価も上がり始めます。

第1詩集「邪宗門」を出版

1910年(明治44年)、白秋24歳の時に自身初めての詩集「邪宗門」を出版します。同年には詩誌「屋上庭園」を創刊しますが、翌年1910年(明治44年)に同誌に発表した「おかる勘平」が風紀を乱すとみなされ発禁処分となり、「屋上庭園」はわずか2号で廃刊となってしまいました。

1911年(明治44年)第2詩集「思ひ出」を出版すると、高く評価されます。

第1歌集「桐の花」を出版。姦通罪で逮捕後、俊子と結婚。

1913年(大正2年)、白秋28歳の時に初めての歌集「桐の花」を出版します。

そのころ隣人の妻である松下俊子と恋に落ちるも、俊子の夫から訴えられ、姦通罪で拘留されてしまいます。示談により夫と和解し、釈放されると白秋と俊子は正式に結婚します。この時のスキャンダルによって白秋の名声は傷つくことになります。

俊子と離婚。2度目の結婚。童謡作品を手掛け始める

1914年(大正3年)に俊子が肺結核を患ったために白秋は小笠原へ移住しますが、すぐに東京へ戻ってきます。白秋の両親と俊子は折り合いが悪く、わずか14ヵ月で2人の結婚生活は幕を閉じます。

1915年(大正4年)に第2歌集「雲母集」を出版し、翌1916年(大正5年)に白秋は江口章子と2度目の結婚をしますが、4年後の1920年(大正9年)に再び離婚します。

1918年(大正7年)に創刊された児童誌「赤い鳥」の発行者である鈴木三重吉に誘われ、この時33歳の白秋は童謡作家としての活動に熱心になります。1919年(大正8年)には初の童謡集「とんぼの眼玉」を出版します。

晩年

1921年(大正10年)白秋36歳の時に佐藤菊子と結婚。1922年(大正11年)に長男に隆太郎が生まれ、1925年(大正14年)には長女の篁子が生まれます。また、1922年(大正11年)には山田耕筰と共に「詩と音楽」を創刊します。

1928年(昭和3年)43歳の時に白秋は20年ぶりに故郷の柳川を訪れた際には、感激の涙を流すほどに故郷への思いは強かったようです。翌1929年(昭和4年)には「白秋全集」が出版され、1934年(昭和9年)に全18巻をもって完結しました。

晩年の白秋は糖尿病と腎臓病を患い、50代のころには眼底出血を起こし、視力も失ってしまいました。しかし彼は熱心に詩作を続けました。また、晩年の白秋は国家主義に傾倒したことでも知られ、多数の軍歌を手がけただけでなく、1938年(昭和13年)には「万歳ヒットラー・ユーゲント」というナチスを礼賛する内容の歌詞を作っています。

1942年(昭和17年)11月2日に病状が悪化した北原白秋は享年57歳で亡くなりました。亡くなるまでの間も、病状が落ち着くと病床で熱心に執筆活動に励んでいました。

北原白秋の代表作

詩、短歌、童謡だけでなく、随筆、小説、評論、紀行などの幅広い分野にわたって活躍した北原白秋は生涯でおよそ200冊もの著書を残しています。

その中でもここでは代表的な2つの詩集と、1つの歌集についてご紹介します。

邪宗門

1910年(明治44年)に出版された第1詩集。

作風としては官能的な陶酔と異国情緒の中に、退廃的叙情と、自らの感覚の印象を表現しようとする象徴詩です。

歌人、石川啄木をもって「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」と言わしめたという作品で、本書と第2詩集「思ひ出」により白秋は詩壇的位置を確立したとされています。

思ひ出

1911年(明治44年)に出版された第2詩集(抒情小曲集)。

白秋が幼少時代を過ごした柳川の思い出を小曲(短い小さな詩)で描いた作品集です。

本作は詩人、評論家の上田敏から最高の評価を受け、白秋は一躍、文壇で出世することになります。

桐の花

1913年(大正2年)に出版された第1歌集。

「桐の花」という歌集の名前は歌集巻頭の随筆「桐の花とカステラ」からとられたものです。文明開化と異国情緒の象徴であったカステラから始まるこの歌集は、白秋のモダンな感覚と、西欧風のロマンティズムを特徴としています。

まとめ

ここでは自由で才能あふれる詩人、北原白秋の生涯を追いました。彼の一見すると奔放な、決まり事よりも情や愛、感覚を優先してしがらみを嫌う生き方は不品行とも捉えられかねません。しかし、その自由でモダンなセンスに向けられる人々の視線には憧れの感情も含まれていたのではないでしょうか。

そんなみずみずしい感性と、ふるさとへの郷愁とを持ち合わせた白秋が残した数々の詩歌やなつかしい童謡に私たちが心を揺れ動かされるのは自然なことなのかもしれません。

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