川路利良は”日本警察の父“? その激動の生涯を解説!

日々私たちの生活を陰で支えてくれている方々は多くいます。中でも治安の維持という面では、警察の助けはとても大きいはずです。警察の存在は犯罪の抑止力になっていますし、何かトラブルに巻き込まれた際も相談先として心強いですよね。

日本社会の規律を守るためには欠かせない警察ですが、そもそもの警察組織の発端やその中心となった人物をご存知でしょうか。存在するのが当たり前になっていると、組織そのものの歴史は意外と見落としがちです。

そこで今回は日本の警察の設立に大きく携わった、川路利良について詳しくご紹介します。彼の生涯を知れば、日本の警察の成り立ちも自然と見えてくるはずです。

川路利良の生涯

まずは川路利良のその生涯について詳しくご紹介します。どの様な経緯で日本の警察組織の設立に携わる事になるのか、是非注目して読んでみて下さい。

薩摩藩に誕生する

川路利良は天保5年(1834年)に誕生します。生まれたのは薩摩藩の下級武士の家でした。土地柄も身分制度に厳しかったのですが、川路家は与力という足軽に近い身分でした。しかし、利良はそうした状況でも全くめげませんでした。漢字や剣術の習得など、自分に出来る事を一生懸命に取り組みました。この真摯でひたむきな姿勢は、後の利良の活躍の礎を作ったと言えます。

利良の成長と同時に、時代も動乱の幕末に突入します。やがて利良は薩摩藩の実力者である西郷隆盛に見出される事になります。利良も時代の歯車に巻き込まれていく事となるのです。

禁門の変にて活躍

元治元年(1864年)に禁門の変が勃発します。天皇のいる御所に攻め入った長州藩と、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府勢力が激突した争いです。この争いにて、利良は大金星をあげます。長州藩は、猛将の来島又兵衛を中心に暴れ回っており、薩摩藩が劣勢に立たされる場面もあったそうです。そうした中、一発の銃声が響き渡ります。利良の放った銃弾が来島又兵衛を討ち取ったのです。これによって長州軍は劣勢となり敗走しました。

この功績を西郷隆盛や大久保利通は高く評価し、利良は出世街道を歩みます。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、大隊長まで務め、日本各地を転戦します。その後も利良は優れた軍事的才能を発揮して、新政府軍の勝利に貢献し続けました。

欧州各国にて警察を学ぶ

利良は周りの薩摩藩士の多くが軍隊に就職する中、異なる道を歩み始めます。それは西郷隆盛の勧めもあり、日本の警察制度の立ち上げに携わるものです。警察官の総長に任命された利良は司法省の西欧視察団の一人として、警察の設立の為に奔走します。

その中でヨーロッパ各国にも警察制度の視察のために訪れ、利良はある人物に強い感銘を受けます。それがフランスのジョゼフ・フーシェでした。フーシェの影響もあり、フランスの警察制度を参考にして、日本の警察制度を作りあげようとの情熱に燃えます。

日本の警察制度を確立

視察から戻ると、利良は日本の警察制度の設立に向けて即座に動きます。明治7年(1874年)に念願の警視庁が創設されると、利良は初代大警視に就任しました。この際の利良の年齢は40歳という若さで、いまだにこの最年少就任記録は破られていません。また利良の大警視としての働きぶりも凄まじく、警察に対する情熱も全く衰えませんでした。自分の仕事が終われば、東京各所の警察署の巡回を欠かさず行ったそうです。

利良は自分の立場に甘えることなく、理想とする警察組織を日本に根付かせるために尽力し続けました。

西郷隆盛との決別

新政府の現状と、自分の理想との違いに苦悩したのは西郷隆盛でした。彼は官職を辞して故郷に帰る道を選びましたが、利良は恩人である西郷と袂を分かつ決断をします。私情を捨てて公に身をささげる、つまり、利良は警察組織の更なる発展のために働く道を選んだのです。

この新政府と西郷の対立は後の西南戦争にも繋がりますが、利良も矢面に立たされます。薩摩藩の内情を探るために警察官をスパイとして送り込みますが、これが不平士族にバレてしまい、利良が西郷の殺害を指示したという自白書まで取られてしまいます。利良は不平士族からの憎悪の対象になってしまいます。

西南戦争にて西郷軍と対峙

スパイ行為の一件が引き金となって西南戦争が起こります。この争いの中で、西郷軍と利良を司令官とする別働第三旅団の衝突も避けられませんでした。両者互角で途中までは戦局は進んでいましたが、新政府側の精鋭である抜刀隊が投入されると西郷軍は一気に不利になりました。最終的に西郷軍は敗走し、新政府軍の勝利に西南戦争は終わります。大義とはいえ、大恩人である西郷の軍に刃を向けるのは複雑な心境だった事でしょう。

46歳の若さにて死去

明治12年1月に、利良は警察の視察のため再度欧州へ出向きます。しかしその行きの船内で利良は自分の体の異変に気が付きます。咳や痰、吐血の症状が現れたのです。欧州でも診察を受けたそうですが病状は回復しなかったそうです。最終的に利良は視察から10月に帰国しますが、病状が悪化してこの世を去りました。

川路利良のエピソード&名言

続いて川路利良の有名なエピソードと名言をご紹介します。エピソードはなかなかに強烈な話で利良らしさをよく表しています。名言はとても有名な言葉なのでご存知の方も多いのではないでしょうか。利良の意外な一面を発見してみましょう。

エピソード①「股間に銃撃事件」

見出しのタイトルだけを読むと大変痛々しいエピソードですが、利良は命に別状なくこの事件を切り抜けています。

この事件が起こったのは、戊辰戦争の磐城浅川の戦いでの事でした。そこで運悪く銃弾が利良の股間に被弾します。陰嚢上部を銃弾が貫通しましたが、利良は無事でした。普通なら重症ですが、利良は相当に肝が据わった男だったようです。戦場なので、多くの人は通常ではない恐怖を感じます。そうすると、精巣は縮み上がって上部へ移動するのが普通ですが、利良の精巣は垂れ下がっていたそうです。戦場であっても平常心を崩さないのは、さすが利良と言えるでしょう。

エピソード②「列車で腹痛事件」

こちらのエピソードもインパクトが大きいです。

この事件が起こったのは、利良がヨーロッパ視察を行っていた最中の列車の中でした。そこで利良は猛烈な腹痛と便意に襲われます。ここまでは誰でも一度は経験した事があるはずですよね。言葉も通じてよく知っている日本であれば、事の顛末も変わったかもしれませんが、利良がいたのは異国の地でした。トイレの場所も分からず外国語も出来ない利良は追い詰められ、ある決断をします。それは座席で排便をして新聞紙でくるむというものです。そしてその新聞紙を窓から投げたそうです。

ここまででもぞっとするような出来事ですが、話は続きます。投げた新聞紙が人に当たってしまい、地元の警察に調査されたそうです。新聞にも取り上げられたそうで、利良は意図せぬ武勇伝を作る事となりました。

名言「聲なきに聞き、形無きにみる」

利良の著書、「警察手眼」に記載された名言です。この言葉には、「警察たるものは声なき声に耳を傾けるべきだ。表面的な事象に惑わされる事なく、奥に隠されたものを見逃してはならない。真実を暴き出す心構えが必要である。」という思いが込められています。警察の在り方を示した名言で、今でも警察の行動指針として大切にされています。利良もこの言葉を体現しようと努めたからこそ、日本の警察制度の礎を築き、その組織のトップとしてみなの手本となったのでしょう。

我々の日々の生活でも物事の表層だけで判断してしまいがちです。そのような際はもう一歩踏み込んで、冷静に真実を見極めてみてはいかがでしょうか。

まとめ

さて今回は”日本警察の父“ と呼ばれる川路利良のその生涯について詳しくご紹介しましたが、いかがでしたか。日本の警察の礎を作っただけあり、その人生も読んでいるだけで引き込まれるものがありますよね。その一方で思わず笑ってしまいたくなるエピソードもあり、利良は色々な意味で語り継がれる人物と言えそうです。

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