マリア・テレジア、16人の子を持った女帝の生涯にせまる

マリア・テレジアという人物をご存知でしょうか。彼女はハプスブルク家を引き継いだオーストリアの女帝としても有名ですが、同時に多くの子供達を育てた母親としても歴史に名を残しています。子供の総数はなんと16人です。現代では驚くべき数ですよね。

今回はそのようなマリア・テレジアの生涯について詳しくご紹介します。本稿を読めば、マリア・テレジアについてきっと詳しくなれるはずです。

マリア・テレジアの生涯

早速ですが、マリア・テレジアの生涯について見ていきましょう。政局にも強い影響を与え、同時に母としても多くの子供を育てたマリア・テレジアの人生に迫ります。

不遇の子供時代

マリア・テレジアは1717年に誕生します。両親は神聖ローマ皇帝カール6世とエリザベート・クリスティナです。テレジアという子供の誕生は、不幸にも誕生した家柄が一般の家庭とはかけ離れていたため、祝福ムードとはいかなかったようです。それも父親であるカールはテレジア誕生の4ヶ月前に待望の王子を亡くしており、ひどく落胆していたそうです。カールは男の子の誕生を熱望していたので、女の子であるテレジアの誕生は素直に喜べなかったそうです。

そのためかテレジアの幼少期の記録はあまり残っておらず、この頃は後継者としては期待されていませんでした。

カール6世が国事詔書の発行

父親であるカールはある不安を抱きます。男子の継承者がいない事で、スペイン継承戦争のような事態がハプスブルク家にも起こってしまうのではないかと。そのような事態は是が非でも回避したいカールはある行動に出ます。それは「国事詔書」の発行でした。この国事詔書には「女系にも相続を認める」事が明記されていました。列国を納得させるには相当な苦労がありましたが、なんとか1738年には了承を得る事に成功しています。

ハプスブルク家を相続

不安から解放された安堵からか、カール6世は1740年に逝去してしまいます。死因は胃癌と言われています。早速に国事詔書の効果を発揮する場面が訪れます。テレジアは女性ですが、ハプスブルク家を相続したのでした。この当時テレジアは、4年前にロートリンゲン・トスカーナ大公のフランツ・シュテファンと結婚したばかりで、23歳の若さでした。

しかし領土をどうしても譲れないプロイセン・バイエルン・ザクセン・フランス・スペインは国事詔書を反故にして相続を認めませんでした。

オーストリア継承戦争が勃発

テレジアが帝位を相続した事に納得のいかない国が団結し始めます。フランスはプロイセンやバイエルン、ザクセンと組みハプスブルグ家の領地分割を模索します。領地分割で提唱される内容はハプスブルク家にとって到底受け入れられるものではなく、テレジアも反発します。そうしてオーストリア継承戦争が始まりました。

領土を拡大したいフランスですが、それを面白く思わない国もありました。それがイギリスでした。イギリスはハプスブルク家の味方につき、オーストリアも攻勢を強めます。最終的にこの争いは1748年にアーヘンの和約で講和に持ち込まれて、終戦を迎えています。

またこの戦争の最中、1745年には夫のフランツが皇帝に選ばれ、テレジアは女帝となっています。

7年戦争を経験

テレジアには、オーストリア継承戦争によって失い、どうしても取り戻したいものがありました。それがシュレージェンです。フランス軍やロシア軍の支援もあり準備万端で臨んだシュレージェン奪還のための戦争でしたが、結果的にシュレージェンは戻ってきませんでした。この戦争で100万人以上が命を落としており、テレジアもこの時代のことを「金も信用も軍隊も自らの経験も知識もなく、その上に助言する者もいない」と語っています。

母親としてのテレジア

戦争の最中にもテレジアは子供を産んでいます。実にテレジアは20年間で16人もの子宝に恵まれています。テレジアは良妻賢母としても有名で、忙しい仕事の合間を縫っては家庭生活も大切にしていました。天然痘などの伝染病が猛威を振るったこの時代、テレジアも最愛の子供を多く失っています。それでもテレジアはこの時代としては珍しく、自分の手で育てたといいます。

最愛の夫との別れとマリア・テレジアの最期

テレジアは夫のフランツと恋愛結婚で結ばれています。テレジアは夫の事を深く愛していたようで、彼が亡くなった際は深い悲しみに暮れました。なんと15年もの間、喪服で過ごしたと伝えられています。

1780年マリア・テレジアは最期を迎えます。死因は肺癌でした。息子や娘達など愛するものに見守られながらの最期だったそうです。

マリア・テレジアの16人の子供達について

続いてマリア・テレジアの16人の子供達についてご紹介します。そもそもなぜテレジアが、16人という今では考えられない数の子宝に恵まれたかというと、2つの時代背景が影響しています。

1つ目は、当時は天然痘などの伝染病がはやっており、成人を迎える前に亡くなってしまう子供も珍しくなかった事です。実際にテレジアの子供も、若くして亡くなってしまった方が多くいます。

2つ目は、王位相続が重要視されていた事です。めでたく男の子供が誕生したとしても、上述したように不幸にも病気で亡くなってしまう可能性も少なくありませんでした。それであれば、次男や三男が王位相続すればいいと考えられており、同時に子供を多く生むことは重要であるとされていました。

そのような経緯から多く誕生したテレジアの子供達ですが、どんな方々がいるのでしょうか。簡単ではありますが、以下にまとめてみました。

1.マリア・エリザベータ(1737~1740)
3歳で亡くなっています。

2.マリア・アンナ(1738~1789)
プラハのエリーザベト修道院長です。

3.マリア・カロリーナ(1740~1741)
わずか1年ほどで亡くなっています。

4.ヨーゼフ2世(1741~1790)
神聖ローマ皇帝です。ハプスブルク家待望の長男として生まれました。

5.マリー・クリスティーネ(1742~1798)
ポーランド王・ザクセン選帝侯アルベルト・カジミールと結婚しています。

6.エリザベータ(1743~1808)
インスブルックの尼僧院長です。その美貌でも有名でした。

7.カール・ヨーゼフ(1745~1761)
天然痘により15歳で死亡しています。

8.マリア・アマーリエ(1746~1792)
政略結婚にてイタリアパルマ公フェルディナンド・ボルボーネと結婚させられました。

9.レオポルド2世(1747~1792)
神聖ローマ皇帝です。トスカーナ大公国の領主になり、25年統治しました。

10.マリア・カロリーネ(1748~1748)
生後間もなく亡くなっています。

11.マリア・ヨハンナ(1750~1762)
天然痘により12歳で亡くなっています。

12.マリア・ヨゼファ(1751~1767)
天然痘により16歳で亡くなっています。

13.マリア・カロリーナ(1752~1814)
ナポリ王妃で、彼女もまた16人もの子宝に恵まれています。

14.フェルディナント・カ-ル・アントン(1756~1806)
モデナ皇女のマリア・ベアトリックスと結婚しています。

15.マリー・アントワネット(1755~1793)
フランス王妃で、最も有名なテレジアの子供でしょう。その最期は、フランス革命でギロチンの刑に処せられています。

16.マクシミリアン・フランツ(1756~1801)
ケルン選帝侯です。また彼は聖職者の道を歩んだため、生涯独身で過ごしました。

まとめ

さて今回は女帝マリア・テレジアの生涯について詳しくご紹介しましたが、いかがでしょうか。女性としてハプスブルク家を相続し、政局にも大きな影響を与え、16人もの子供も育てた彼女の功績は計り知れませんよね。また最後まで夫を愛し続けた姿にも、彼女の人柄がよく現れています。

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