関羽の生涯と愛刀「青龍偃月刀」に迫る

関羽雲長という名前を、一度は聞いたことがある方は多いでしょう。歴史小説やゲームに登場し、髭を蓄えた大男で大きな刀を振り回す一騎当千の武将というイメージがあることと思われます。しかし、これは三国志演義という時代小説でのイメージで書かれているものがほとんどです。では実際のところ、彼はどのような生涯を過ごしたのでしょうか?

この記事では、史実における関羽の生涯と、彼が愛用していたとされる特徴的な刀の「青龍偃月刀」について紹介します。

生涯

ここでは、劉備との出会いから死後の話まで、関羽の生涯を紹介していきます。

劉備との出会い

関羽は字(あざな)を雲長といい、出身は司隷河東郡解県というところです。幼少期に何をしていたかは不明ですが、出身地から琢郡というところへ移住しています。

その後、黄巾の乱が起きると、劉備という人物が結成した義勇軍に関羽が応募し、そこで劉備と張飛に出会い、以降張飛とともに劉備の護衛官を務めることとなりました。劉備は、関羽と張飛に対し実の弟のように恩愛をかけ、2人は劉備に絶大な忠誠を誓うようになります。2人も劉備を実の兄のように慕っていましたが、他者の前では劉備を主君として立て、自分たちは家臣として仕えてみせたといいます。

関羽の義心

劉備は、関羽たちの助けを得て黄巾の討伐で戦功をたてたことにより、やがて平原国の大臣に就任しました。

関羽と張飛は別府司馬(部隊長)に任命されました。関羽は部下の面倒をよく見たため、部隊も強くなっていきました。それからしばらくして、劉備は身分を高めて徐州の統治者になり、関羽は下邳という重要拠点の太守に任命されました。関羽は戦いに強いだけでなく、統治者としても優れた手腕を備えていました。

しかしその後、劉備は曹操との戦いに敗れ、徐州から逃亡しますが、関羽は捕虜となります。曹操は関羽を配下にしようとしますが、関羽の劉備に対しての義心に感嘆し、関羽を劉備の元に戻させることになりました。 

赤壁の戦い

208年(建安13年)、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎え重用しました。諸葛亮の策に従って呉の孫権と同盟を結び、曹操に対抗することとなります。劉備と孫権の連合軍は赤壁で曹操軍と激突しました(赤壁の戦い)。この戦いについては史書に詳細な記述がないため、実情がはっきりしません。結果は連合軍が曹操に勝利し、曹操の南下を食い止めることに成功しました。

その後、劉備は荊州南部を制圧し、広大な土地を手に入れました。劉備は功績があった者に地位を与え、これにより関羽は襄陽太守(じょうようたいしゅ)・盪寇将軍(とうこうしょうぐん)に任命され、長江の北に駐屯しました。この地は曹操の勢力圏が目の前であり、関羽は曹操を討つ際の先陣を任されたことになります。劉備の配下である将軍の中でも関羽の能力は総合的に優れており、名声もあったので最も重要な役割を担うことになりました。

孫権との軋轢

荊州に進出した孫権は、勢力拡大のために自分の子供と関羽の娘とを結婚させ、関羽に付け入ろうとします。しかし関羽は、その話を持ってきた使者を追い返し婚姻を許しませんでした。関羽は孫権の魂胆を見抜いていて、かつ娘を嫁にやることで人質にとられてしまうことを警戒したためと考えられますが、曹操と戦うためには、関羽のこの行為は軽率でした。

結果として、この出来事によって両者の関係が悪化してしまいます。

樊城の戦いと最期

219年(建安23年)、関羽は曹操から荊州を奪うため北上を開始し、曹仁が守る樊城に攻撃をしかけます。曹操は援軍に于禁を差し向けました。それに対し関羽は天候の悪化を利用して将軍の龐徳を斬り于禁を捕虜にしました。さらに関羽は中原の賊を利用して各地を荒らして回らせました。この事により、曹操は北への遷都を考える程におびやかされます。

しかし、関羽は傲慢な性格が災いして陸遜の策にかかり、呉の軍勢に裏切られ処刑されてしまいました。

関羽の死後

孫権は関羽の首を曹操に送り、曹操は関羽に敬意を払って首を葬っています。義弟の関羽を殺された劉備は、222年(章武2年)に孫権に対して夷陵の戦いを起こしましたが大敗を喫しています。

悲劇的な死を遂げた関羽は、後世の人間に神格化され47人目の神とされました。

愛刀「青龍偃月刀」

軍神とも呼ばれた関羽は、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を愛刀としていました。関羽が最強の武将と呼ばれる所以は、自身の実力と青龍偃月刀という優れた武器によるものでしょう。ここでは青龍偃月刀について触れていきます。

「青龍偃月刀」の特徴

関羽の青龍偃月刀は冷艶鋸(れいえんきょ)と言い、黄巾の乱に参加する際に作らせ、以降に愛刀として使用した大刀です。

青龍偃月刀は、長い柄の先端に曲がった片刃の刃を持つ薙刀のような武器です。重さは約48kgあります。刃に青龍を象った装飾がされていたので青龍の名が付くことになりました。なお、この大刀を作った鍛冶屋は張飛や劉備の武器も作ったとされています。

しかし、この冷艶鋸は、小説内で出てくる武器であり実在していません。三国志の時代には長柄の大刀自体存在しなかった可能性が高いとされており、当時の武器は剣・朴刀・ヒ首といった短物と戈・戟・矛といった長物の2種類とされています。

まとめ

以上、関羽の史実における生涯を紹介しました。実際の関羽は小説と比べると多くの違いがありますが、劉備と互いに深く信頼し合っていたことは変わらないようです。

関羽が現在まで中国人から神として崇められるのは、こうした忠義の心や力強さも理由の一端にあるのかもしれません。

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