徳川慶喜は「家康の再来」?江戸幕府最後の将軍に迫る!

戦国時代を終わらせ、日本を250年もの間治めたのが江戸幕府です。その初代将軍である徳川家康は日本人なら誰でも知っている有名人ですが、江戸幕府最期の将軍である徳川慶喜もまた日本史に必ず出てくる有名人です。大政奉還で朝廷に政権を返上し、その後に起る戊辰戦争で追われる身となった慶喜とはいったいどういう人物だったのか?今回は徳川慶喜の生涯や人物像を紹介していきます。

徳川慶喜の幼少時代と継嗣問題

幼少時代の慶喜は大変優秀だったと言われています。生まれは水戸ですが、その才能から将来の将軍として見込まれ、将軍のポストに縁の近い一橋家に養子に出されます。

 

武家だけではなく皇族の血も入っている

徳川慶喜は1837年10月28日(旧暦の天保8年9月29日)に水戸藩主の徳川斉昭の7男として江戸の小石川、水戸藩邸で七郎麻呂という名を授かり生まれました。母は皇族・有栖川宮熾仁親王の娘である吉子女王です。

水戸藩の教育方針で、生後7か月で江戸から水戸に移りました。水戸では藩校・弘道館で学問と武術を学び、当時から才覚を表しその優秀さは「神君家康の再来」とまで言われるほどでした。

 

若くして一橋家を継ぐ

才覚を見込まれた慶喜は老中・阿部正弘の口添えで御三卿の一つである一橋家の跡継ぎとして養子に出され、若干11歳にして一橋家を継ぐことになります。14代将軍候補として見込まれていましたが、結果として慶喜は将軍にはなりませんでした。

 

継嗣問題

問題が発生したのは13代将軍・徳川家定が生来の病弱で跡継ぎの男子をもうけることができないとされたためです。1853年、黒船来航のさなかに12代将軍の徳川家慶が死去。その後を家定が継ぎましたが、幕府を指揮する能力も後継者を残す能力もなく、いつまで生きていられるかも分からない状況でした。

家定が生きている間に後継者を探す必要があり、そのときに候補にあがったのが徳川慶福と一橋慶喜(徳川慶喜)です。

 

一橋派VS南紀派の継嗣騒動

14代将軍を決める継嗣問題は2つの派閥の間で起ります。1つは有能な人材を登用しようと考える老中・阿部正弘や徳川斉昭、島津斉彬や松平慶永といった幕末四賢候らが一橋慶喜を後継者として推挙する一橋派。もう1つは井伊直弼や保守的な譜代大名、大奥などが血筋が近い徳川慶福を推す南紀派です。

徳川慶福は12代将軍徳川家慶の異母弟である徳川斉順の子です。12代将軍徳川家慶の甥にあたり、徳川家定とは従兄弟の関係です。父の徳川斉順は紀州藩の藩主ですが、慶福が生まれる前に死去しており、藩主を継いだ叔父である斉彊も後を追うように亡くなったため、わずか4歳にして紀州藩の13代藩主となります。

それぞれの派閥には特徴があります。一橋派の特徴は譜代大名だけではなく、それまでは幕政に関われなかった島津斉彬ら外様大名がいたことです。老中首座の阿部正弘が能力のある人材を積極的に登用していたこともあり、外様大名であっても意見が述べやすくなっています。その一橋派が後継者に推していたのが幼いころより才能を発揮していた一橋慶喜です。血筋は申し分ないが当時はまだ少年だった慶福よりも、血筋は薄いが能力は高い慶喜を後継者としたかったのです。

一方で、南紀派は譜代大名が多く、血統を重視する方針から、徳川家定に一番近い血統である慶福こそが後継者であると考えていました。

 

騒動の結末

継嗣問題に勝利したのは南紀派の慶福です。当初は一橋派が有利であり、一橋派の意向を受けた篤姫が家定の正室になったことからも慶喜が将軍になるとされていましたが、慶喜の父である斉昭が大奥に嫌われていて、慶喜も人気がなかったこと、また家定自身も慶喜を嫌っていたため将軍にはなれませんでした。

継嗣問題の間に一橋派の中心人物であった阿部正弘や島津斉彬が死去。当時老中首座だった阿部正弘のあとに幕政を担ったのは南紀派の井伊直弼でした。

井伊直弼は継嗣問題決着後に一橋派に対して粛清を始めます。慶喜や徳川斉昭、松平慶永などの一橋派の中心人物たちに隠居謹慎を命じて幕府から遠ざけます。この処分をきっかけとして、井伊直弼に反対する武士たちを粛する安政の大獄が行われることになりました。圧倒的な勝利をした井伊直弼ですが、1860年の桜田門外の変で水戸や薩摩の藩士の襲撃を受け最期を迎えました。14代将軍となった慶福も1866年にわずか20歳で病死しました。

 

イバラの道の将軍時代

桜田門外の変が起きたことで安政の大獄が終り、慶福も死去したために将軍の座につくことになった慶喜ですが、幕末の動きをみせていた世を主導しようとするのは大変なことでした。のちの歴史に名を残す各藩の有力な人物や朝廷の意向とは反対の動きをしたかった慶喜は、「家康の再来」とまで言われた極めて高い能力を発揮するも、結果として朝廷に政権を返すことになります。

 

200年続いた幕府の幕引き「大政奉還」

黒船来航と日米通商修好条約によって朝廷は開国を進めることを良しとせず、開国方針の幕府と対立することになります。日本は開国派と攘夷派に分かれました。頭のきれる慶喜は、さまざまな策を打って幕府の威光を取り戻そうとしますが、今までの幕府主導の政治をやめて新たな体制で日本を治めていきたい雄藩や公家はついに武力で幕府を倒そうと考えました。このときに日本が内乱になることを危惧したのは慶喜だけではなく、かの有名な坂本龍馬もその一人でした。坂本龍馬は土佐藩の後藤象二郎を通して、「政権を朝廷に返上する」という策を建白します。それを受けた慶喜は、倒幕を目論んでる薩摩藩、長州藩が武力行使に出る前に建白通り政権を朝廷に返上し、200年以上続いた徳川幕府の幕を閉じたのです。これが世に言う「大政奉還」です。

 

思惑通りにはいかなかった「王政復古の大号令」

慶喜が大政奉還を行ったのは将軍になってから1年も経たないうちのことでした。慶喜には「政権は朝廷に返すが、まともに政治を行ったことがない朝廷はきっと自分を頼ってくる。実権は自分のままだ」という目論みがありました。しかし、慶喜の狙いは外れることになります。武力による倒幕を目指す薩摩を中心とした勢力がクーデターを起こして朝廷を制圧します。これが「王政復古の大号令」です。これにより若い明治天皇をトップとした新しい政権が生まれたのです。この政権には旧徳川幕府の人材はほとんどポストにつくことができず、新政権の決定も慶喜抜きで強引に行われたので幕府側は追いつめられる形になりました。このやり方に幕府側は反発し、旧幕府軍と新政府軍による戦いに発展していきます。

 

日本を二分した大乱「戊辰戦争」

旧幕府軍と新政府軍の戦いは1868年から1869年まで続きました。約1年間、十二支の戌と辰の間に起きた戦をまとめて「戊辰戦争」と言います。

最初の戦は現在の京都で起きた鳥羽伏見の戦いです。この戦いの前夜、慶喜は拠点にしていた大阪城から何人かの家臣を連れて江戸城へと向かってしまいます。戦は新政府軍の勝利、慶喜に追討令が出されます。徳川家を守るために勝海舟に新政府との交渉を任せ、江戸城を開城することになりました。この戦の後、慶喜は戊辰戦争が終わるまで寛永寺で謹慎しています。

その後いくつかの戦が起りますが、だんだんと幕府側が劣勢になってきます。戊辰戦争最後の戦いとなる五稜郭の戦いでは、徳川家海軍副総裁の榎本武揚が大将となり、新選組の副長だった土方歳三も参加しています。艦隊の引き渡しの命令を受けた榎本武揚は江戸を離れて箱館へ向かいます。表向きは蝦夷を開拓しにいくというものでしたが、実際は道中で兵を集めたり箱館から離れたところに着艦したりと軍備を整えるための時間稼ぎでした。五稜郭に拠点をかまえた旧幕府軍は蝦夷共和国という新しい国を立ち上げて海からくる新政府軍を防衛しましたが、兵站の確保が安定している新政府軍の猛攻に次第に劣勢になっていきます。それでも抵抗を見せていた旧幕府軍ですが、土方歳三が銃弾を受けて戦死するとともに求心力が落ち、ついに降伏しました。



徳川慶喜の人物像

慶喜は家康を彷彿とさせるとても有能な人物として語られています。頭の回転が速く弁舌も達者でしたが、超合理主義者で普通の人は慶喜の考えについていけませんでした。それでも我関せずと幕府のトップに立ち、徳川幕府の幕引きまで行った慶喜とは一体どのような人物だったのでしょうか?

 

家臣からは不人気だった?慶喜はこんな人だった

慶喜はその能力の高さから将軍になりましたが、我が強く、言う事もすぐに変えてしまうので家臣からは不人気だったようです。勝手ばかり言うので女性からも人気がなかったと言われています。しかし、戊辰戦争後の隠居生活では20人ほどの側室がいました。一部の人々からは「けいき様」と呼ばれ親しまれていたようです。

慶喜は多趣味で芸達者でした。特に手裏剣の腕前はすごく、日本でもトップクラスでした。また西洋の文化にも強く興味があり生活に積極的に取り入れていたことでも知られています。豚肉を好んで食べ、当時は珍しかった自転車を楽しそうに乗ってる姿も見られたようです。

 

うつけ者か天才か、評価が分かれる政治手腕

歴史家の中でも「時代が違えば名君だった」という意見もあれば、「慶喜でなければ動乱の世を乗り越えられなかった」というように評価が二分しています。一致しているのは「時代の礎を築いた人物である」ことです。

慶喜の手腕がわかるエピソードはいくつかありますが、今回は戊辰戦争初期、鳥羽伏見の戦いでの出来事にスポットを当ててみましょう。

戦の中、慶喜は家臣たちに「最後の一人になっても戦い抜け!」と自ら指示を出しました。しかし、その夜には重臣のみを連れて江戸城に向かってしまいます。戦は新政府軍が勝利、慶喜を追って江戸城に進軍しますが、慶喜は徳川家を守るために政府に従う意思を見せ、交渉を勝海舟に任せて寛永寺にて謹慎しました。勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の交渉によって江戸城を開城することが決まり、「江戸無血開城」として知られることになりました。このときの慶喜の行動を、「家臣のことを考えないうつけ者」として評価するか、「非難を一身に浴び、動乱や人名を救った天才」として評価するかは意見が分かれるところです。

 

利発さが垣間見える幼少期の「寝相」エピソード

慶喜は幼い頃たいへん寝相が悪かったようです。それを見かねた父・斉昭は慶喜が床につくときに横にカミソリを置くよう侍女たちに指示しました。しかし、聡明な慶喜は「自分が眠りについたら侍女はカミソリをどかして出ていくだろう」と予想したのです。狸寝入りを決め込んだ慶喜の予想通り、侍女たちは慶喜が眠りについたと思い込んでカミソリを持って出ていきました。そのことを知った斉昭は慶喜の利発さに感激し、将来は名将になると褒めたたえたそうです。

寝相に関するエピソードはもう一つあり、慶喜は横を向いて眠るときは必ず右肩を下にする、というものです。これも斉昭の教えで、「武士は右肩が命。たとえ寝込みを襲われたとしても切られたのが左肩なら利き腕の右腕で戦える」という武士ならではの考えです。こうして右肩を下にして眠るのが慶喜の生涯の癖となりました。

 

多趣味な隠居生活

慶喜は歴史上の将軍の中でもたいへん長命で、戊辰戦争後は静岡で隠居生活をしたようです。その生活では趣味を満喫し、弓道、写真、自転車、油絵、狩猟、打毬、囲碁、将棋、刺繍…他にも挙げられるほど多趣味でした。写真や油絵は現在でも残っており、慶喜がその目で何を見ていたのかが垣間見えます。油絵は非常に上手ですが、写真はそうはいかず、何度かコンクールに応募したけれどすべてダメだったそうです。自転車の方もよく溝に落ちたり壁にぶつかっていたようです。

また、慶喜は大勢の子をもうけた大家族でもありました。将軍の座についてからずっと京都で朝廷とのやり取りに奔走していたため、一度も江戸城に入ったことがなく、もちろん大奥にも入っていません。将軍になって一度も大奥に入ったことがない唯一の将軍の慶喜ですが、隠居の際には20人ほどの側室がいました。実際に隠居生活を始めるときには側室を2人まで絞っています。2人の側室同士は仲が良く、生まれた子供もどちらが母親かなどを意識することなくみんなで仲睦まじく暮らしたようです。子供は11男10女と多く、歴代の将軍の中でも子だくさんです。

趣味を楽しむ傍ら、近所付き合いも楽しんでいたようです。親しみを込めて「けいき様」と呼ばれたり、豚肉を好んでいたことから「豚一様(豚肉が好きな一橋様)」とも呼ばれていたようです。

 

まとめ

激動の時代を生き、日本の歴史に大きく名を残すことになった徳川慶喜。優れた手腕を持ちながらも200年続いた徳川幕府を終わらせる決断をした慶喜についてふれました。慶喜の行動は賛否がわかれるところではありますが、その生涯は自分を貫いた一人の侍だったのかもしれません。慶喜に関してさまざまな考察があるので、それを見るのも面白いかもしれません。

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