坂本龍馬の暗殺事件の詳細に迫る!激震の走った近江屋事件の真相は?

坂本龍馬の死因というと、暗殺されてしまったことは有名で、ご存知の方も多いかと思います。龍馬は生涯、それは精力的に活動し日本を動かしてきましたが、その分、敵も多く作ってしまったと言われています。暗殺についても諸説あるようで、事実は当人のみぞ知ると言った状況です。

今回は龍馬暗殺が起こってしまう近江屋事件の詳細から、実際に事件の黒幕についての所説をご紹介したいと思います。一緒に時代の闇の一端に触れてみましょう。

 

坂本龍馬は、いつどこで暗殺されたの?

ninja-2007576_1920.jpg実際に坂本龍馬が暗殺されることになるのは、慶応3年11月15日のことです。「近江屋事件」と呼ばれており、知名度も高い歴史上の事件かと思います。まずはなぜこのようなことが起こってしまったのかという時代の背景や、関連する事件の詳細などを順を追って解説していきたいと思います。

 

暗殺が起こる事件の背景

龍馬が行った偉業の中には大政奉還があります。これは今まで武士である幕府が持っていた政権を朝廷に返上し受け入れられた事を言います。龍馬は薩摩や長州など大藩を動かすことに尽力し、実際に大政奉還が成し遂げられることに大きく貢献しました。龍馬のこの様な姿は尊皇派からは快く思われていたようですが、一方で佐幕派からは疎ましく思われてしまったようです。大きく思想が異なるので、両方の勢力から嫌われずに物事を動かすのは厳しいですから、致し方ないことだったのかもしれません。

 

寺田屋事件について

近江屋事件の詳細をご紹介する前に、まずは寺田屋事件について解説しなければなりません。寺田屋事件と言うと、2つの事件のことを指します。

1つ目は文久2年に発生した、薩摩藩の事実上の指導者である島津久光が摩藩の尊皇派志士を始末した事件。

2つ目は慶応2年に発生した、伏見奉行による坂本龍馬に対する襲撃事件。

今回関係してくるのは2つ目の坂本龍馬への襲撃事件です。伏見の寺田屋は、京都と大阪の移動するにあたって特に船の交通の要所となっていました。同時に尊王攘夷派も移動に利用することが多く、龍馬もその中の一人でした。

襲撃される当日、龍馬は三吉慎蔵と薩長同盟成功の祝杯を上げており、気持ちよく眠りに入ろうとしていたそうです。ここで異変に気づいたのは、妻のお龍でした。入浴していたお龍でしたが、大慌てで龍馬に役人が大勢押し寄せているという異変を伝えたそうです。これによって龍馬たちは体勢を整える余裕が生まれました。

押し入る役人たちに対して、三吉慎蔵は槍で、龍馬はピストルで応戦したそうです。役人たちがたじろぐのを見て龍馬たちは何とか逃走できました。

 

運命の近江屋事件について

そして運命の日である、慶応3年11月15日に事件は起きます。当初利用していた寺田屋でしたが例の襲撃事件があったために利用できずにいました。そこで拠点を転々とさせていましたが、事件当時は醤油屋である近江屋を利用していました。

事件の日を振り返ると、まずは夕方頃にに中岡慎太郎が近江屋を訪れました。三条制札事件について龍馬と話し合いました。夜になると客も近江屋を訪れました。その中に十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと申し出るものが現れました。元力士である山田藤吉は龍馬に客を合わせようとしますが、ここで後ろから切られてしまいます。龍馬はここで騒ぐなと活を入れますが、これによって刺客に龍馬の居所を教えてしまうことなり、襲撃されてしまいます。

この刺客による襲撃で龍馬は大変深く切り込まれいくつも傷を受けたようです。ほとんど即死に近いような状態で、彼の壮大な人生はここで幕を閉じることとなります。

 

暗殺事件の黒幕っているの?

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さて、龍馬が暗殺されてしまう運命の1日を紹介しましたが、気になるのは一体誰が黒幕なのかということです。残念ながら諸説ありますが、どれが真実なのかは未だに分かっていません。ここではそんないろいろな可能性をそれぞれ詳しくご紹介していきます。是非、想像力を働かせながら読んでみてくださいね。

 

新選組犯行説

事件当時、最初に囁かれた説です。坂本龍馬は剣の腕もたいへん立つことで有名でした。そんな坂本龍馬をほとんど即死状態で暗殺できてしまうなんて、よっぽどの剣の熟練者でないとありえないと思われていました。

そこで事件当初は剣の実力者が揃う新選組が犯人なのではないかと噂が流れました。中でも坂本龍馬を暗殺できてしまう実力者なんて斎藤一ぐらいしかいないのではないかと囁かれていました。

事件後に新選組の近藤勇は幕府から取り調べを受けているようですが、関与については否定しています。実際に明確な証拠もないので、実行犯と考えるには根拠が乏しいかもしれません。

 

京都見廻組説

現在、最も有力視されている説です。京都見廻組の隊員であった今井信郎ですが、戊辰戦争や函館戦争に参加した後に降伏をします。彼は1870年に東京へ送還され取調べを受けるのですが、そこで自分が坂本龍馬を殺害したメンバーの一員であるという自供をしたのです。

この自供によると、当初より坂本龍馬を要注意人物だと京都見廻組はみていたそうです。そんな中、龍馬が近江屋に滞在しているとの情報をききつけ、実際に襲撃を決行することとなったようです。襲撃に参加したメンバーは、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、佐々木只三郎、今井信郎に加えて他2名の計7名だそうです。桂、高橋、佐々木、渡辺の4名が坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害し、残りのメンバーは1階にて見張りをしたとのことです。

ただし問題なのは、今井信郎以外の人物は、全員戦死していたので、供述の裏をとることは叶いませんでした。しかしながら京都見回り組説は最も信憑性の高い説であると言えるでしょう。

 

紀州藩士報復説

紀州藩、もしくは紀州藩士による報復行動なのではないかとする説です。

ことの成り行きを説明すると、当時、龍馬は蝦夷を開拓するために、「いろは丸」という蒸気船を大洲藩から借りていました。ところが鞆の浦の沖合で、この船は他の船に激突してしまいます。相手の船は紀州藩のものでした。いろは丸はこの衝突によって、多くの貴重な積荷も大破し、多くは沈んでしまいました。

その事を受け龍馬は紀州藩に賠償請求をします。龍馬はここでより有利に事態を収めるべく、頭を使います。世論を巧みに操り、積み荷に関しても虚偽申告をしたのです。いろは丸側にも航路上のルール違反などあったようですが、後藤象二郎や五代友厚のバックアップもあり、紀州藩側に多額の賠償金を支払わせることに成功します。

この事で紀州藩が恨みを持ったというのが紀州藩士報復雪になります。なんとも豪快な事件ですが、龍馬に一泡吹かせてやりたいと紀州藩側なら思うかもしれませんね。

 

薩摩藩陰謀説

実行犯は京都見回り組ですが、黒幕は薩摩藩だったのではないかとする説です。薩摩藩が龍馬の居場所を漏らしたのではないかというのです。

その理由としては武力によって幕府を倒そうとしていた薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通にとっては、大政奉還をおしすすめた龍馬は邪魔だったのではないかと言うことです。

しかしながら、龍馬と西郷隆盛は互いを認めあった仲としても有名です。さらに中岡慎太郎は西郷隆盛たちと同じ様な考え方を持っていたので、この説はいまいち説得力にはかけます。

 

外国陰謀説

この外国陰謀説というのは、武力倒幕により、薩長倒幕側に武器を売り込みたかった企業体であるジャーディン・マセソン系のイギリス人であるトーマス・ブレーク・グラバー、外交官であるハリー・パークス、アーネスト・サトウらによる陰謀説です。

龍馬は色々と秘密を知りすぎてしまっており、必要でなくなったので龍馬を暗殺したとするものです。作家の加治将一などが主張しています。他の説に比べると信憑性はいまいちに思いますが、もしかしたらこんな可能性もあるのかもしれませんね。

 

まとめ:坂本竜馬の暗殺を振り返る

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さて今回は坂本龍馬の暗殺事件について見ていきましたが、いかがでしたでしょうか?暗殺にも諸説あるので、実際の舞台裏を想像しながら読むと面白かったのではないでしょうか。また、これだけ多くの暗殺説が出てしまうのも、龍馬がそれだけ多くの人と関わり世の中に影響を与えてきた事の裏返しなのではないかと思います。彼の最後は暗殺という残念なものではありましたが、その人生に悔いはなかったのではないでしょうか。