織田信長の最期となった本能寺の変を解説!織田信長、明智光秀の関係とは?

 

本能寺の変とは、1582年6月21日に当時京都の本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣の明智光秀の謀反にあい襲撃された事件です。寝込みを襲われ、包囲された信長は寺に火を放ち自らは自害しました。また信長の嫡男の信忠は二条城で戦いましたが、やはり自害しました。崩壊した織田政権に変わり一時的に天下人となった明智光秀も、そのわずか13日後には羽柴秀吉に破れ命を落とします。数え年で信長49歳、光秀55歳の時の出来事でした。

最後の下剋上ともいわれる事件ですが、光秀が謀反に走った理由については定説がなく、様々な説が飛び交う状態で、「日本史の謎」、「永遠のミステリー」と呼ばれる歴史ミステリーです。今回はこの本能寺の変について解説します!

 

明智光秀はなぜ謀反に走った?

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明智光秀がなぜ謀反に走ったのか?この疑問に対しては定説がありません。ここではいくつかのエピソードや憶測を紹介します。

 

明智光秀と織田信長の関係性は?

本能寺の変は突然の謀反であり、信長を倒した光秀もすぐに命を落としてしまうという、常識的に見ると何の意味もない反乱に見えます。そこから、光秀は俗に言う「切れた」状態になった結果謀反を起こすに至ったのではないかという考えが生まれてきます。ドラマなどでは光秀はしばしば繊細な教養人として描かれます。繊細な教養人である光秀が、残忍な側面をもち、しばしば癇癪を起こす信長に耐えられなくなり、ついに謀反に及ぶことになったといったストーリーです。

明智光秀の生涯について最初に押さえておななければならない事は、彼が低い身分から身を起こし、何人かの武将に仕え、信長の家臣となってから多大の功績をあげ、それによって織田家の家臣の中でもトップクラスに上り詰めた、非常に才覚のある人物だったという事です。知性と行動力に恵まれた光秀が出世していく様を、起業家の鏡と称する見方もあるくらいです。修羅場を何度も潜り抜けてきた光秀は、信長の性格もよく理解していて、信長との付き合い方も良く分かっていたのではないでしょうか?確かに、側室を持たなかったことなど繊細な部分もあったようですが、それでもやはり心の弱い、やわなインテリといったイメージで光秀を語ることは出来ないでしょう。また、信長に仕えてから本能寺の変に至るまで10年以上が経過していて、その間破竹の勢いで出世していった事とを考えると、信長と元々関係が良くなかったと考える根拠はありません。ただ本能寺の変の近くになると、信長との関係が悪化したという説もあり、これについては次節で考えることにします。

 

解明されていない反乱を起こした理由

明智光秀は非常い優秀な人物だった事から、反乱の根源に自身の野心があったという解釈があります。戦国時代の日本に来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによれば、光秀は才知に優れ思慮深く狡猾な人物だったようです。戦争においては謀略を得意とし、計略の達人であったといいます。また、事件が近づいてくると信長が光秀と関係が深かった武将を冷遇したり責めたりしたために次第に関係が悪化してくるといった事もあったようです。次第に反乱の考えが芽生えてくる中、本能寺に滞在中の信長が無防備であったため、光秀にはチャンスと見えたのかもしれません。ありそうな話だと思いませんか?

その一方で、光秀の繊細な性格を強調し、信長から様々な嫌がらせを受け、耐えられなくなって反乱に及んだという解釈もあります。色々なエピソードがあるようですが信憑性に欠けています。しかし、反乱が近づいた頃になると次第に信長に冷遇され始めているので、光秀の繊細な性格もあり反乱に及んだのかもしれません。そうした部分で判断に曇りがあったからこそ、その後いわゆる「三日天下」で終わってしまうなったのかもしれません。

 

本能寺の変のその後

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本能寺の変がなぜ起きたのかは不明な部分が多いですが、事件自体は後世に多大な影響をもたらしました。次にそうした影響を見ていきましょう。

 

豊臣秀吉の中国大返し

本能寺の変が起こった時、当時羽柴秀吉と呼ばれていた豊臣秀吉は、織田信長の命を受け中国地方の平定を目指す軍団の長の任にありました。備中すなわち現在の岡山市周辺で、毛利輝元等が率いる毛利軍と戦っていたのです。6月3日夜から4日未明知らせを受けた秀吉は直ちに信長の元に戻る準備に入ります。情報が漏れないようにするために、道路を遮断し、自軍にかん口令を敷き、毛利側には信長の死を伏せたまま和睦を申し入れました。接待など様々な方法を用いて和睦を成立させ、10日間で200kmつまり、一日当たり20kmを移動し、6月13日には京都の山崎で明智軍と戦うことになります。

秀吉軍は光秀軍を圧倒し、落ち延びようとした明智光秀はその地の民の手にかかり死亡しました。秀吉は光秀の首を確認して京都に晒しました。そのすぐ後、秀吉は安土に入り織田信長の本拠地をあらかた固めてしまいました。秀吉がのち天下人、豊臣秀吉に成り上がっていく基盤はまさにこの時に固められたといって良いでしょう。結局、本能寺の変で一番得をしたのは、明智光秀ではなく羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉でした。

 

賤ヶ岳の戦いで散る柴田勝家

中国大返しから山崎の戦いを経て、織田家の根拠地を固め、織田信長家臣の中で特に大きな力を持つに至った羽柴秀吉でしたが、その後の天下への道は平坦ではありませんでした。

織田家の後継者を決める清須会議が開かれ、それぞれ別の子孫を推していた柴田勝家と羽柴秀吉のあいだで激しい対立が生じました。羽柴秀吉が推す三法師(のちの織田秀信)が後継者に決まりましたが、その後も対立はくすぶり続け、最終的に1583年4月に現在の滋賀県長浜市賤ヶ岳で戦闘が勃発します。これが賤ヶ岳の戦いです。人数に勝った秀吉軍が勝利し、退却した柴田勝家はしばらくし自害、勝家が推していた織田信孝も自害しました。この戦のあと織田氏家臣の多くは秀吉を実質的な主君と認める事となりました。また、柴田勝家を排除した事によって、羽柴秀吉にとって、織田信秀を補佐しつつ実権を握るうえでの障害がなくなりました。

 

ホトトギスが鳴くまで待った徳川家康

織田信長亡き後、豊臣秀吉を最も対立しそうな武将、徳川家康はこの事態にどうに対応したのでしょうか?事件当時家康は信長の招きに応じて少人数の家臣と共に京都に滞在していました。信長もろとも明智光秀に滅ぼされかねない状況にあった家康は、険しい山中を急ぎ本拠三河に戻りました。その後光秀を討つために兵を率いますが、時既に遅く、光秀は秀吉に打たれた後でした。タイミングが悪かったといえますが、この時の対応がその後の明暗を分け、家康は自分自身が天下を狙う機会を、豊臣秀吉の死後まで待たなければならなくなりました。

 

まとめ:様々な関係性が見える本能寺の変

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本能寺の変がなぜ起こったのか、明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか、起こらなかった場合織田信長は征夷大将軍になり、織田時代が始まったのか。資料が不足している事もあり、本能寺の変は沢山の疑問と憶測を生み出してきました。その後の歴史を見ると、この時の迅速な対応が豊臣秀吉の天下をもたらしたといえるでしょう。しかし、結局、天下統一を果たしたのは対応に遅れがあった徳川家康でした。歴史の皮肉を感じますね。

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