西郷菊次郎ってどんな人?西郷隆盛の長男の生まれと一生とは

西郷菊次郎という名前を聞いたことがありませんか?西郷菊次郎は2018年のNHK大河「西郷どん」の主役である西郷隆盛の長男として生まれ、政治家として一生を終えました。

彼は父と一緒に向かった西南戦争で右足を失い、その後政治家を目指し、京都市長を務めて、故郷鹿児島の金山鉱業館長を務め、67歳で亡くなりました。菊次郎がどんな人生を送ったのかを振り返ると同時に、菊次郎が生きた67年間の時代を見ていきたいと思います。

西郷菊次郎は西郷隆盛の息子として島妻愛加那との間に生まれた長男

https://sociedo.jp/?p=342西郷菊次郎

まずは西郷菊次郎がどの様に生まれたのか、誕生の背景を見ていきましょう。

西郷菊次郎は1861年、奄美大島で誕生

井伊直弼による「安政の大獄」で追われる身となった西郷隆盛は、1859年、奄美大島に身を隠していました。当時は薩摩に妻がいても奄美大島に別の妻をつくっていいという薩摩藩の島妻制度という制度がありました。西郷隆盛は奄美大島の中でだけの妻、愛加那と結婚します。

そして1861年に生まれたのが、西郷隆盛の長男「西郷菊次郎」です。

長男だけど菊次郎だったわけ

西郷隆盛は当時、自分の身を隠すために入水自殺で死んだことになっていました。当時、西郷隆盛は偽名の「菊池源吾」と名乗っており、そのために生まれた菊次郎の名前にも「菊」の文字が入っていたと言われています。

本来なら菊次郎は長男なので、二人目の男の子を示す「次郎」を使うべきでは無いのですが、母の愛加那はしま妻といういわば妾。西郷隆盛には別に正妻がおり、嫡男ではなかったため、あえて「菊次郎」と名付けたようです。

西郷菊次郎の幼少期。父との別れ、母との別れ

西郷隆盛

西郷菊次郎と西郷隆盛、母の愛加那は何度も別れを繰り返しました。父との最初の別れは菊次郎が物心がつく前です。父親である西郷隆盛は菊次郎が生まれて2年後に、井伊直弼が暗殺されたことで赦されて薩摩に帰ってしまいます。そんな西郷菊次郎の親子の関係性をみていきましょう。

西郷隆盛の鹿児島への帰還により母との二人暮らしに

1862年、井伊直弼の暗殺を受けて、奄美大島から鹿児島への帰還を命じられた西郷隆盛は、2歳の菊次郎と愛加那、お腹の中の菊草を残して鹿児島へ帰っていきます。当時、薩摩藩では奄美大島の人間を鹿児島に連れてくることを許していませんでした。子供はその限りではなかったものの、菊次郎も母と奄美大島に残り、二人だけの生活が始まります。

島流しになった西郷隆盛に西郷菊次郎は会いに行く

西郷隆盛が2度めの島流しになったのは、奄美大島から帰ってきてから2ヶ月あまりが経った頃でした。島流しの原因は「西郷隆盛の命令違反」。

2度めの島流し先は徳之島でした。その際、西郷隆盛は自分が徳之島に流されたことを知ると愛加が追いかけてくるだろうと考え、奄美大島の島役人に対して「愛加那が徳之島に来たいと言っても来させないように」という内容の手紙を出していました。

しかし愛加那は菊次郎の妹である菊草を生んだ後、徳之島へ西郷隆盛を追いかけます。一方、その頃、西郷隆盛は徳之島から沖永良部島に移動していました。

結局、菊次郎と愛加那、菊草の3人が西郷隆盛と会うことが出来たのは、西郷隆盛の罪が許され、鹿児島へ戻る前のわずかな時間だけだったようです。

母、愛加那との別れ。そして鹿児島へ

明治2年(1869または1870)。9歳になった西郷菊次郎は妹の菊草とともに母の愛加那と別れ、鹿児島の西郷隆盛の元に引き取られました。

西郷隆盛の本妻の名前は糸。菊次郎と菊草にとっては義理の母だった糸は、自分と西郷隆盛の間に出来た寅太郎、午次郎、酉三の三人と菊次郎と菊草を分け隔てることなく育てました。

1871年、東京に出る西郷隆盛について上京した西郷菊次郎は、上京した次の年、12歳でアメリカに農業を学ぶために留学をします。

2年6ヶ月間の留学で英語や風習、アメリカの農業を学んだ西郷菊次郎は、日本に戻ってきた後に父である西郷隆盛が作った全寮制の農業学校「吉野開拓社」へと入ることになります。

父、西郷隆盛と向かった西南戦争

西南戦争

1877年。西南戦争が起こります。

西南戦争の原因となってしまったのは西郷隆盛が行った薩摩での私学校の設立でした。明治政府の方針により仕事を失った武士たちが暴動を起こすことがないように、教育や訓練を通して武士たちを統率しようとした西郷隆盛と、薩摩で反乱が起こることを恐れた新政府の間で衝突が起こり、西南戦争が起こります。

西郷菊次郎は、反政府の旗頭となった西郷隆盛ともに、西南戦争に参加をします。西郷菊次郎はこのとき17歳でした。

西郷菊次郎、怪我を負い、右足を切断

17歳で父と一緒に向かった西南戦争で、西郷菊次郎は右足に銃弾を受けてしまいます。

当時の医療技術では銃弾を摘出することは少なく、壊疽によって命を失うことを避けるために西郷菊次郎は右脚の膝から下を切断しました。

普通の生活もままならない西郷菊次郎の様子を見た西郷隆盛は、菊次郎に新政府へと降伏するように伝えました。

このときすでに西郷隆盛は西南戦争での敗北を覚悟してしたようです。

西郷菊次郎が西南戦争で失ったもの

父である西郷隆盛に降伏するように言われた西郷菊次郎は、新政府軍側についていた叔父である西郷従道に降伏します。西郷隆盛の弟である西郷従道は菊次郎の降伏をとても喜んだそうです。

そして1877年、9月24日。西郷隆盛は自刃しました。享年49歳。

西郷菊次郎は西南戦争で右脚とともに父親も同時に失うことになったのです。

その後の西郷菊次郎は

西郷菊次郎の故郷

西南戦争で父を失い、右脚を失った西郷菊次郎。西郷菊次郎はその後、どんな人生を送ったのでしょうか。見ていきましょう。

西郷菊次郎、留学経験を活かし、外務省へ

脚と父を失った菊次郎は、妹の菊草が結婚した後、奄美大島で数年間母の愛加那と暮らしました。父、西郷隆盛の7回忌が過ぎた頃、西郷菊次郎は明治政府から語学力を認められ、外務省へと入りました。

外務省に入省した西郷菊次郎はアメリカ留学の経験を生かして、アメリカ公使館などに勤務します。12歳のときの一度目の留学では、言葉を習得するので手一杯だった西郷菊次郎でしたが、1887年6月には二度目のアメリカ留学を果たし、帰国後の1888年1月からは宮内省で式部官として勤務しました。

日清戦争後の台湾総督府へ赴任し、様々な功績を残した

1895年、日清戦争後に下関条約によって台湾が日本の領土になった際に、35歳だった西郷菊次郎は台湾へ渡り、「台北県支庁長」や「宜蘭庁長」を歴任しました。

西郷菊次郎が特に力を入れたのは河川工事だったといいます。

西郷菊次郎が赴任していた台湾宜蘭市内の宜蘭川は毎年のように氾濫しており、多くの市民が自然災害の被害にあっていました。

菊次郎はその宜蘭川に巨額の費用と17ヶ月の年月をかけて堤防を作り、市民の生活を守りました。

この堤防は「西郷堤防」と呼ばれ、いまでもその業績を称える石碑が残されています。

日本に戻ってきた西郷菊次郎は京都市長を勤める

帰国をした西郷菊次郎は1904年から1911年までの任期の期間、京都市長を務めました。

市長時代には「第二琵琶湖疏水の開削」「上下水道整備」「道路構築及び市電敷設」という「京都市三大事業」と呼ばれる事業に取り組み、今の京都の基盤を築きますが、西南戦争で負った右脚の怪我の後遺症のため辞職しました。

京都市長の辞職後、西郷菊次郎は、、、

京都市長辞職後、西郷菊次郎は鹿児島にある永野金山で鉱業館長に就任し、17年後の1928年に67歳で亡くなりました。

死因は心臓麻痺で、鹿児島市の自宅での急死でした。西郷隆盛の子供としては2番目に長い一生でした。

今でも活躍している西郷菊次郎の子孫

西郷菊次郎には4人の子供がいました。中でも菊次郎の4男、西郷隆泰の息子に当たる西郷隆文氏は陶芸家として有名で、2011年に「現代の名工」を受章されています。

まとめ:西郷菊次郎の一生

菊次郎の故郷

西郷隆盛の子供である西郷菊次郎の一生、いかがだったでしょうか。

西郷隆盛の子供として名前を知られている菊次郎ですが、本人も偉大な功績を残した人物だったことがおわかりになられたかと思います。

また、2018年の大河ドラマ「西郷どん」では、西郷菊次郎が京都市長に就任し、菊次郎が語り手となって西郷隆盛の人生を語っています。

西郷菊次郎から見た父、西郷隆盛は偉大な人だったのでしょう。一方で、西郷隆盛も西郷菊次郎を誇りに思っていたのではないでしょうか。

広告