西郷隆盛の妻はどんな人?なぜ三人の女性と結婚してバツ1になった?

西郷隆盛は、とても魅力的な人だったと言われており、生涯で3人の妻を娶りました。

1度目の結婚はわずか2年で破綻してしまい、2度目の結婚も長くは続きませんでした。今回は西郷隆盛が一生涯で愛した3人の妻にスポットを当ててみたいと思います。

西郷隆盛が愛した3人の妻とは

Saigō_Itoko
西郷糸 / wikipediaより引用

西郷隆盛が愛した3人の女性の名前はそれぞれ「須賀」、「愛加那」、「糸」といいます。西郷隆盛が最初に須賀と結婚したのは1852年、西郷隆盛が24歳のときでした。まず、西郷隆盛の3人の妻とはどういう人だったのかを見ていきましょう。

一人目の妻「須賀」

西郷隆盛が最初に結婚したのは薩摩藩士伊集院兼善の娘、須賀でした。結婚当時須賀は20歳で、当時としては少し遅めの結婚でした。当時の西郷隆盛の身分は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる下級藩士だったので、薩摩の有力豪族の伊集院家の分家の1つだったと言われている須賀の実家は目上の存在でした。身分違いの西郷隆盛と須賀が結婚したのは、一説にはの西郷隆盛が須賀に一目惚れしたという説や、親から勧められた縁談だったという説がありますが、実際のところ何が本当なのかはわかっていません。

二人目の妻「愛加那」

西郷隆盛が二度目の結婚をしたのは31歳のときでした。西郷隆盛は、井伊直弼が1858年から1859年の間に行った安政の大獄で追われる身となった際、同じく追われていた京都清水寺成就院の僧である月照と共に海へ身を投げました。しかし西郷隆盛だけが生き残ります。

その後西郷隆盛は「菊池源吾」と名前を変えて奄美大島に身を隠しましたが、その際に奄美大島の限定の妻として結婚したのが愛加那です。愛加那は奄美大島・龍郷の有力者だった龍為志の娘で、西郷隆盛が奄美大島にいる間の世話をしていました。西郷隆盛と愛加那の間には菊次郎と菊草という二人のこともが生まれています。

三人目の妻「糸」

西郷隆盛の三度目の結婚は1865年、西郷隆盛が37歳のときになります。糸は薩摩藩士岩山八郎太の娘で、西郷隆盛とは15歳の年の差婚でした。西郷隆盛も3度目の結婚でしたが、糸も一度上役の海老原家に嫁いだもののすぐに離縁されていたのでお互いに再婚同士の結婚でした。実は西郷隆盛は最初結婚に乗り気ではなかったと言われています。しかし、薩摩藩士の有川矢九郎が妻の従兄弟として西郷家に糸を連れてきた上、そのまま結婚させてしまうのです。この際、糸は西郷隆盛をうっとりと見つめていたという話が残っています。西郷隆盛と糸の間には寅太郎、午次郎、酉三の3人の息子が生まれました。

西郷隆盛はどうして3度も結婚したの?

愛加那
愛加那/wikipediaより引用

では、西郷隆盛は3度も結婚をしたのでしょうか。次は西郷隆盛の結婚が長続きしなかった理由を見ていきたいと思います。

一度目の結婚は貧困と西郷隆盛と須賀のすれ違い生活のために破綻した

西郷隆盛と須賀の間はわずか2年で破綻してしまいました。離婚の大きな理由は「貧困」でした。二人が結婚した1852年から、西郷家には不幸が続きました。西郷隆盛の祖父、竜右衛門、父、吉兵衛、母、政佐子が相次いで他界してしまい、西郷隆盛は弟妹5人と祖母の面倒を見なくてはならなくなりました。その上、西郷隆盛自身は島津斉彬に認められ、1854年に島津斉彬の庭方役に大抜擢されて江戸詰めになってしまいます。そのため、須賀は一人で6人の大所帯を切り盛りしなくてはならなくなってしまうのです。また、西郷隆盛が江戸に向かうためにも多額の出費をした西郷家はお金に困っていました。そんな状態でいつ帰って来るかわからない夫を待ちながら、家族6人を支えていくのは並大抵のことではありません。見るに見かねた伊集院家と西郷家が話し合いの結果、西郷隆盛と須賀は円満に離婚をすることになるのです。西郷隆盛はこの後も須賀との離婚を悔やんでおり、須賀のことを気にしていてたといいます。

二度目の結婚は奄美大島限定の島妻だったので続かなかった

安政の大獄で西郷隆盛が奄美大島に身を隠していた際、西郷隆盛は島民から「大和のフリムン(狂人)」と呼ばれるほど奄美大島に馴染めていませんでした。大木を相手に相撲を取り、木刀を振り回す西郷隆盛の姿は奄美大島の島民にとって奇異に見えたのでしょう。対して西郷隆盛自身も奄美大島の島民を「けとう」と呼び、一段下に見ていました。しかし、島の生活が1年ほど経った頃には島の子供たちに学問を教えるなど、西郷隆盛と奄美大島の島民との間の距離は縮まっていきました。そんなある日西郷隆盛に「島妻(あんご)を娶ってはどうか」という話が持ち上がります。当時、薩摩藩では正妻がいる場合でも、奄美大島に滞在する場合には島限定の妻(妾)を持ってもいいという藩の法律がありました。この制度で西郷隆盛は愛加那を妻にしました。しかし、島妻は薩摩に連れて帰ることは出来ず、1862年に西郷隆盛は愛加那と息子菊次郎、まだお腹の中に居た菊草を置いて鹿児島に戻ることになりました。

三度目でやっと西郷隆盛は一生をともにする伴侶を見つけた

西郷隆盛の三度目の結婚相手、糸は、西郷隆盛が1877年9月24日に西南戦争で自刃して果てるまで、西郷隆盛を支え続けました。新婚生活は長く続かず、西郷隆盛は糸との結婚から8日後には福岡と京都に出張し、一年の大半は家を留守にしていました。その上、当時の西郷家は借金苦で家を手放し借家住まい。借家には西郷家の次男西郷吉二郎と妻と子、四男の西郷小兵衛、使用人が数名という10名近い人間が同居していたのです。もし、糸が須賀のような人だったとしたら、西郷隆盛はまた離婚をしていたでしょうが、糸はしっかり者で西郷家の大所帯を切り盛りし、西郷隆盛の帰りを守りました。西郷隆盛も糸を良妻だと褒めたそうで、冗談が好きで明るい性格だった二人はとても気があっていたようです。西郷隆盛と糸との間には寅太郎と午次郎、酉三の三人の息子が生まれたほか、奄美大島に居た愛加那との間に生まれた菊次郎と菊草も引き取った糸は、5人の子供を分け隔てなく育てました。

西郷隆盛の妻たちのその後は?

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西郷隆盛と3人の妻たちについていろいろと書いてきましたが、西郷隆盛と別れた後の3人は一体どうなったのでしょうか。次は須賀、愛加那、糸の生涯について書いてみたいと思います。

須賀のその後はわからない

西郷隆盛と円満離婚した須賀のその後についての文献は残っていません。実家である伊集院家が須賀についての情報を隠したという話も残っていますが、真偽の程はわかっていません。

愛加那は奄美大島で一人息を引き取る

愛加那は西郷隆盛が島津久光の怒りを買い、徳之島に流された際、菊次郎と生まれたばかりの菊草を連れて会いに行ったのが西郷隆盛との別れとなりました。その後、1868年に長男の菊次郎、1875年に長女の菊草が鹿児島にいる西郷隆盛に引き取られ、愛加那は一人奄美大島に残って生活することになります。その後、大人になった菊次郎が奄美大島に1年ほど里帰りをしましたが、菊草は愛加那が亡くなるまで1度も里帰りをすることなはなったそうです。1902年8月に愛加那は雨の中農作業をしている最中に倒れて、そのまま息を引き取りました。享年65歳、死因は脳溢血でした。

愛加那の墓は、息子である西郷菊次郎の子供、西郷隆治の手によって1930年に奄美大島の龍郷に建てられました。

晩年の糸は次男の牛次郎のもとで余生を送った

1896年5月に糸は長男の寅太郎の結婚式に出席するために上京します。その後糸はそのまま鹿児島を出て、寅太郎の家に身を寄せました。1898年には上野にて西郷隆盛の銅像の除幕式に参加し、「やどんしは、こげなお人じゃなかったこてえ」(あの人はこんな人じゃ無かった)と言ったという逸話が残っています。この発言の後には、「浴衣で散歩はしもさんど」(浴衣で散歩をするような人ではなかった)という言葉が続いていたそうで、どうやら西郷隆盛像の顔が似ていないという話ではなく、当時浴衣は外を歩く服装ではなかったため、「そんな浴衣の格好で外を歩き回るような人ではなかった」という意味で行ったのではと言われています。

1919年には寅太郎がスペイン風邪によって自宅で亡くなり、浪費癖のあった寅太郎の妻、信子が家から出されると、糸と寅太郎の子供たちは家を売って、西郷隆盛と糸の次男であり、実業家だった牛次郎のもとに身を寄せるようになりました。その後糸は亡くなるまでの3年間を牛次郎の家で過ごしたそうです。糸は「食事に何を差し上げましょうか」と問う牛次郎の妻に、いつも「芋粥でよか」と答えて、さつまいもご飯を幸せそうに食べていたといいます。1922年6月3日、糸は79歳でこの世を去りました。糸の墓は東京の青山霊園にあり、中央の西郷糸子墓の向かって右には長男の西郷寅次郎の墓が、左には1903年に結核で亡くなった三男の酉三の墓が並んでいます。

まとめ:西郷隆盛は人を引きつける人だった

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NHK大河ドラマ、「西郷どん」で注目を集める西郷隆盛。西郷隆盛が男女問わず好かれる人だったと言う話はよく聞きます。今回は3人の妻に焦点をあててきましたが、激動の時代に、西郷隆盛を支えた妻達の生涯はそれぞれ波乱に満ちたものでしたね。

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