織田信長を支えた9人の妻。戦国武将の正室の正妻、濃姫はどんな人?

織田信長と聞くと「天下人」というイメージのほかに「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という残虐なイメージがありますよね?しかしそんな織田信長にはなんと9人もの妻がいました!この記事では天下人である信長を支えた9人の妻たちをご紹介します。

織田信長には9人の妻がいた?

  

資料を紐解いてみますと織田信長には9人の妻がいたことになっています。とても多いですね。いったいどうやって生活していたのでしょう妻たちが互いに喧嘩したりといったことはなかったのでしょうか?一夫一婦制の現代日本の常識からは大きく隔たっている事態ですが、具体的に理解するためには戦国時代の結婚制度を理解しそのうえでそれぞれの妻たちの立場や、夫である信長の立場を理解する必要があります。そうした点について、ひとつひとつ見ていきたいと思います。

戦国時代は一夫多妻制だった?

豊臣秀吉をはじめ、戦国武将は多くの女性を側に置いていました。この事から戦国時代は一夫多妻制だったとされますが、厳密にはそうではありません。平安時代は一夫多妻が認められていましたが、戦国時代は複数の妻を持つことは認められていませんでした。そのかわり認められていたのは複数の妾(めかけ)、つまり側室を持つことでした。戦国武将にとって、自分の家を代々の子孫に繋げ栄えさせていくことは主要な関心事でしたが、戦乱のなかでそれを達成するのは容易な事ではありませんでした。自分にせよ子供にせよ、いつ死んでしまうかわかりません。その結果、たくさんの子供が必要となり、そのためにはたくさんの妻を持つことが必要とされました。しかし、同じ立場の妻が多数いる場合、今度は家系相続の争いが起きてしまいます。そこで、子供の立場に優劣をつける必要が生じ、結果として妻の立場に優劣をつけることが必要となりました。戦国時代の妾制度、側室制度はこうした背景から生まれてきたといえます。

誰が本当の妻?正室、側室、継室とは?

戦国時代の側室制度を理解するうえで、正室、側室、継室の区別を正しく理解することが重要となります。まず正室ですが、これは本妻、第一婦人といった意味で、妻の中で最も重要な一人に与えられる称号です。ここで最も重要なことは正室が生んだ男子は家を継ぐ資格をもつということです。歴史上の武将の正妻の例を挙げれば、織田信長の場合は「濃姫」、豊臣秀吉の場合は「ねね」、徳川家康の場合は「築山殿」という事になります。危険がいっぱいの戦国武将はたくさんの子供を必要としたのですが、家系継続紛争を防ぐ必要もあったので、妻の中で第一位の存在を決めておく必要がありました。また当時の結婚は政略結婚がほとんどで、二つの家が互いに助け合うために姻戚関係を結んだ訳ですが、やはりここでも正室の立場はもっとも重要となります。両家の子孫が家系を継ぐというのがもっとも強力な姻戚関係となるのは間違いないところです。逆に言えば、当時の正室はほとんどすべてが政略結婚の結果だったので、妻としての立場は強かったものの、男女の愛情といったことはほとんど顧みられませんでした。正室が強いといっても現代の感覚とはかなり違ったものになっていると言えるでしょう。

次に側室ですが、これは正室ではない妻全員を指します。側室以外の呼び名としては「妾(めかけ)」「側女(そばめ)」「手懸(てかけ)」といったものがあります。再び戦国武将の実例を挙げれば織田信長の側室は「よし乃」、「お鍋の方」そのほか、豊臣秀吉の側室は「淀殿」、「南の局」そのほか、徳川家康の側室は「養珠院」、「西郷局」そのほかといったところになるでしょうか?側室に期待されていたこともまた子供をたくさん産むことでした。正室の子供がいる限り側室の子供は家を継ぐ事は出来ませんが、そもそも正室が必ず男児を生むとは限りませんし、衛生的にも当時は子供の死亡率が高く、また戦乱もあり、生まれた子供が成人にまで成長できる確率はかなり低かったので、側室もまたたくさんの子供を生んで家系を絶やさないようにする必要がありました。

調べてみると江戸時代の将軍家ですら生まれた子供の約半数は5歳までに死亡していたようです。正室に子供ができなかったり、できても死亡してしまったり、あるいは使い物にならなかった場合、側室の子供に家系を継ぐチャンスが生まれます。沢山の側室が沢山の子供を生んでいると、何かと争いごとが起きそうではありますが、誰が家系を継ぐかは当主が決定すれば良かったのかもしれません。そうはいっても、戦国時代には家系を継ぐ段階で様々な争いごとが起こっていたようで、この記事に出てくる織田信長や斎藤道三もまさにそうした争いに勝利することで、一方は尾張の、他方は美濃の支配権を確立していったのでした。

最後に継室ですが、これは正室が死亡したり離婚したりした場合に後から貰った奥さんの事で要するに後妻という事になります。側室が沢山いるのだから当主が誰かを選んで継室に据えれば良いようにも思われますが、実際にはそうした事例は少なかったようです。側室とは要するに妾であり、身分を低く見られていたのかもしれません。一方の継室ですが、正室を選ぶ時と同様、あるいはそれ以上に政略結婚の色彩が強くなっていたようです。徳川家康の継室「旭」が有名ですね。豊臣秀吉と徳川家康が政略結婚した訳です。

9人の妻のそれぞれのプロフィール!

9人の妻はそれぞれどんな女性だったのでしょうか、一人ひとり見ていきます。

・正室の濃姫。尾張の織田信長と美濃の斎藤道三の間で行われた政略結婚で信長の妻となりました。濃姫については後段で詳しくまとめます。

・側室の生駒吉乃。父は馬を使って荷物を運搬する業者でしたが、信長に見初められ側室となりました。信長には愛されていたようです。信忠・信雄・徳姫といった子供たちの実母となりましたが、産後の肥立ちが悪く死去しました。

・側室のお鍋の方。出生については諸説あるようですが良く分かりません。本能寺の変の後は豊臣秀吉の保護下に入り、晩年天寿を全うしました。

・側室の坂氏。信長の三男、信孝を生みました。本能寺の変のあと、信孝は秀吉と敵対し、最終的に殺されるわけですが、母である坂氏はその争いに巻き込まれ、殺されてしまいました。

・側室の養観院。信長との間に産んだ子供は秀吉の養子となり、羽柴秀勝と名乗りました。秀勝が病死した後、養観院は出家し、信長や秀勝の菩提を弔いました。

・側室の土方氏。九男信定を生みました。土方氏の父は、信長と信雄の二代に仕え、後に豊臣秀吉の家臣として仕え1万石を与えられました。

・側室の慈徳院。信長の息子の乳母となったことから側室に上げられ、信長の寵愛を受けました。本能寺の変の後は出家し、自分が生んだ息子信忠の菩提を弔いました。

・側室の原田直子。織田信政の母であるとされています。しかし信政の実在性には疑問があり、本人は古渡城に移り住んだとされていますが、その前に古渡城が廃城となったという説もあり、詳しいことは分かっていません。

・側室の春誉妙澄大姉。前田利家の長男利長(としなが)の正室である永姫を生みました。1618年に越中で亡くなり、春誉妙澄大姉という戒名を授けられたとされています。

正室とされる濃姫ってどんな人?

織田信長の正室は濃姫とされています。しかし実際のところ濃姫に関しては確認できる資料が少なく、どんな人か分からない部分が多いです。まず「濃姫」という呼び名ですが、これは正式な名前ではありません。現在の岐阜県南部にあった美濃の国の姫なので「濃姫」と呼ばれていたにすぎません。当時女性は名前を明かさないのが普通であり、美濃の戦国大名、斎藤道三の娘として生まれた女性が「濃姫」と呼ばれるのは自然な事でした。本名は「帰蝶」だったという説もありますが、この説が出てくるのは江戸時代の書物のようで確実な事は分かりません。

マムシとして恐れらた斎藤道三の娘

濃姫の父、斎藤道三は美濃の国の戦国大名でした。通説によると名もない境遇から様々な職業を経験し、最終的に戦国大名に成り上がった、戦国時代に典型的な下剋上大名でした。道三はマムシとして恐れられていました。マムシは毒蛇で、要するに怖い存在という意味です。道三がマムシと呼ばれていた事についてはいくつか理由があります。道三は、父とともに活動し、美濃の国の支配者になっていくのですが、その中で敵を毒殺したり追放したりしました。こうした情け容赦ない活動により道三はマムシと称されるようになったのでした。美濃の道三と尾張の信長は、互いの協力関係を確かなものにするため、姻戚関係を結ぶ事になりました。つまり濃姫の結婚は政略結婚だった訳です。美濃の国の大名に成り上がる過程で、織田家と親交を深めてた道三は濃姫を信長に嫁がせる事で美濃と尾張の関係の安定を図りました。

詳しい記録が残っていない謎の女性

濃姫に関する記録は極めて少ないのでその生涯については推測するしかない部分が多いです。まず、濃姫は戦乱の中で亡くなったという考えがあります。織田家の記録に濃姫が出て来なくなったので、結婚したとされる1549年から本能寺の変があった1582年までの間に病気などの理由で亡くなったという説です。次に早世して実は信長と結婚しなかったという説があります。この説によると信長の正妻は濃姫ではなく別の人物だったということになりますが、この説もまた信憑性を欠くとされています。さらに本能寺の変の後も生き延び天寿を全うしたという説もあります。こうした諸説にはそれぞれ根拠となる資料が無い訳ではないのですが、全体として十分とは言えず推測の域を出ません。多くの場合当時の女性についてはあまり記録を残さなかった為にこうした謎が残ってしまう事となりました。

まとめ:織田信長を支えた妻達

以上、ここまで織田信長を支えた妻達について、そして戦国武将はなぜたくさんの妻たちを持っていたのか、その背景についてみてきました。正室とは政略結婚を、側室とは必ずしも政略本意ではない結婚をしたいたことが分かります。また正室の濃姫が子供を生まなかった為でもありますが、側室は信長の重要な息子たちを生みました。結局織田家は信長の代、より正確にはその息子の代で途絶える訳ですが、たとえば濃姫が正当な男子を生んでいれば、織田家の基盤はより強固なものとなり、織田家はさらに栄えたのかもしれません。織田信長を支えた妻たちは、戦国の世の中でそれぞれ重要な役割を演じたといえるでしょう。

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