西郷隆盛は写真が大嫌い!現代に残る西郷隆盛の本当の姿は?

NHK大河西郷どんでお馴染みの西郷隆盛。西郷隆盛の数あるエピソードの中に写真が大嫌いだったという話があります。その嫌悪の仕方は並大抵ではなかったようです。なぜそんなに写真が嫌いだったのか?今現存している西郷隆盛が写っているかもしれない写真について、そして現代に伝わる西郷隆盛の姿は本当の姿なのか。写真が嫌いな西郷隆盛の写真に関するエピソードを見ていきましょう。

西郷どん、西郷隆盛はどうして写真が嫌いだったのか?

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西郷隆盛の写真嫌いに関するエピソードは多く残っています。いくら写真が嫌いでも、普通の人間なら我慢するだろうという場目で、西郷隆盛は写真には写らないという信念を貫き通していました。

写真が嫌いだった西郷隆盛の仰天エピソードその1

明治天皇が西郷隆盛の写真を所望したとき、西郷隆盛はそれを頑なに断ったと言います。明治天皇といえば、当時の国民にとって神様とも言える存在だったはずですが、その明治天皇が自分の写真を欲しがったのに、西郷隆盛は最後までそれを拒み続けたそうです。臣下として不敬罪にも問われかねない状況でも、写真を撮ることだけは絶対に嫌だったんですね。

写真が嫌いだった西郷隆盛の仰天エピソードその2

「尚々貴兄の写真参り候処如何にも醜体を極候間もふは写真取は御取止下さるべく候

誠に御気の毒千萬に御座候」

西郷隆盛が親友である大久保利通に送った手紙の一文です。

内容は、西郷隆盛と違い写真を撮ることに嫌悪感のなかった大久保利通が、サンフランシスコで撮った洋装で髪を切り、髭を伸ばし背広を着た写真を送られた西郷隆盛が、「醜態を極まる、もう写真を撮るのはやめなさい」と茶化したという内容だそうです。

大久保利通は西郷隆盛が自刃してから数ヶ月後に暗殺されますが、その際にもこの手紙を持っていたと言われています。明治天皇が所望しても断り、親友だった大久保利通には写真を撮るのはやめなさいという内容の手紙を送る。西郷隆盛は相当写真が嫌いだったようです。

もちろん嫌いだっただけではなく、当時西郷隆盛は幕府側と敵対することもあったため、暗殺を恐れて自分を特定できる写真を撮影しなかったのではないかとも言われています。

西郷隆盛が写っていると言われている写真は4枚

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本当に現代には西郷隆盛の姿は残っていないのでしょうか?実は、これが西郷隆盛なのではないか、と言われている写真は残っているのです。しかし、確証がない上に、当の西郷隆盛は亡くなっているので確認が取れない。そんな写真を次はご紹介します。

今現在現存する西郷隆盛が写っていると言われている写真は4枚確認されています。

しかし、4枚すべてが集合写真で、写っている人間全員が特定できていないものもあります。

西郷隆盛が写っていると言っても多分この人がそうだろう、という曖昧なものもあり、これが西郷隆盛であると確定している写真は今のところ見つかっていないのです。

フルベッキ群像写真

フルベッキ群像写真(フルベッキ写真)
フルベッキ群像写真(フルベッキ写真)/wikipediaより引用

まず一枚目の写真は、「フルベッキ群像写真」という写真です。この写真はオランダ出身のグイド・フルベッキという宣教師と、彼の子供、そして44人の武士が写った写真です。44人の武士は佐賀の学生たちとだけしか説明がなく、この写真を見た学者たちは44人の武士の名前を特定しようとします。同時に写真自体が本物かどうかの論争も繰り広げられたようですが、現在は本物ということで決着したようです。学者たちの努力の結果、44人の武士全員に名前が割り振られましたが、その44人の名前の中に西郷隆盛の名前も含まれているのです。ただ、この写真は撮影されたのが明治元年とされているのですが、すでにその年には亡くなっているはずの人物が写っているとされる鑑定結果があり、この写真の信憑性は未だ謎のままです。

13人撮り写真

13人撮り写真
13人撮り写真/世界の謎と不思議より引用

次の写真は「13人撮り写真」という会津藩で見つかった写真です。この写真に写っているのは宮之城家当主の島津久治と島津総家に仕える家臣団だと言われています。

この13人の中に西郷隆盛が写っており、上記のフルベッキ群像写真の中の西郷隆盛とされている人物と同一の人物ではないかと言われていますが、研究者によってその人物は島津家の家臣である床次正蔵という人物で、西郷隆盛ではないだろうという結果が出ており、この写真も信憑性に欠けると言えるでしょう。

スイカ西郷

スイカ西郷
スイカ西郷/世界の謎と不思議より引用

3枚目の写真は、表に出るたび議論の的になると言われる「スイカ西郷」と呼ばれている写真です。

江戸藩御用達の写真家内田九一が撮影した、薩摩藩士の集合写真と言われているこの写真ですが、複数の人がこの写真に写っているとされる西郷隆盛は別人だ!と言っているのです。

この人物は、当時の江戸藩のお抱え医師だった小笠原瑞哿(おがさわらずいか)という人物で、頭がスイカのように大きかったためにずいかではなくスイカと呼ばれていた人物なのだと複数の人間が証言しており、ずっと西郷隆盛ではないと言われてきました。しかしその後、この写真の人物が西郷隆盛であるという有力な証拠が発見されました。明治4年に西郷隆盛が出席した「高知会議」の際に、西郷隆盛が宿にした家の当時の書付が見つかったのです。その書付には西郷隆盛の個性的な耳の形のことが書かれており、その書付と写真の西郷隆盛らしきひとの耳の特徴が一致したため、この写真に写っている人物は西郷隆盛なのではないかという結果が出ました。しかし結局本物を見て確認を取ることも、写真撮影に関わった人間に確認することも出来ず、この写真の西郷隆盛が本人であるとは言い切れませんでした。

大坂造幣寮前写真

大坂造幣寮前写真
大坂造幣寮前写真/ジャパンアーカイブズより引用

最後の写真は大阪造幣局に保存されている「大坂造幣寮前写真」という写真です。

この写真、2018年の4月から造幣局の特別展で公開されていました。

1872年に明治天皇が造幣局に訪れた際に撮影されたこの写真は、1921年に造幣局が発行した「造幣局沿革誌」で左端に写る旗を持つ人物が西郷隆盛だと紹介されているのです。

当時の新聞でも「錦旗を手に天皇をご先導した」との記述があるようです。

特徴的なのが写真の左下に犬が寝転んでいることで、造幣局側も「本物である可能性は捨てきれない」との見解を示しているのですが、しかしながら、専門家の鑑定では西郷隆盛だろうとされている人物は別人であるという結果が出ている写真でもあり、真偽の程はまだわからない写真でもあります。

この世には本当の西郷隆盛の写真があるのだろうか

西郷隆盛が写っているとされている4枚の写真。

しかしこれが西郷隆盛だと確定している写真は一枚もないのです。

当の西郷隆盛がもう亡くなっていること。

確実に西郷隆盛の写真だと言えるものが見つかっていないこと。

この2つが写真が本物の西郷隆盛を特定できない原因だと思われますが、西郷隆盛という人はとても謎の多い人だったのですね。

今、教科書などで見ることができる西郷隆盛の写真は一体何?

西郷隆盛
西郷隆盛/wikipediaより引用

現在私達が西郷隆盛という人物の姿を知っているのは、教科書などで西郷隆盛という人物の写真を見ているからではないでしょうか。

社会科の授業で一度はお目にかかったことのある西郷隆盛の姿ですが、西郷隆盛と確定している写真は無いはずなのにどうして見ることができるのでしょうか。

実は写真じゃなく肖像画だった。

誰もが一度は見たことのある西郷隆盛の写真。実は写真ではなく肖像画だったことをご存知ですか?

あまりにも精巧に書かれているため、写真だと思っていたのですが、この肖像画は明治天皇の肖像画を書いたことでも知られるエドアルド・キヨッソーネというイタリアの画家が書いたものになります。

何度も何度も複写されていく過程で、どうやら肖像画と写真が混同してしまったようです。

和装の西郷隆盛が描かれた肖像画の他に、軍服姿の西郷隆盛の肖像画も出回っていますが、そちらの方はエドアルド・キヨッソーネが書いた肖像画をもとに服装を軍服に書き換えたというのが本当のところのようです。

西郷隆盛本人を見ながら描いた絵ではない

西郷隆盛としていろいろなところに出ているこの肖像画ですが、実はこの絵を書いたときにはすでに西郷隆盛は西南戦争で戦死しており、本人をモデルにすることができなかったのです。

では、どうやってこの絵を書いたのか。エドアルド・キヨッソーネは西郷隆盛に顔が似ているとされていた弟の西郷従道と、従兄弟の大山巌の顔をモデルにしたのです。

肖像画の上半分を西郷従道の顔、下半分は大山巌の顔を参考にして書いたとされているのですが、それが本当なら私達が知っている西郷隆盛の顔は弟と従兄弟の顔をもとにした合成画だということですね。

写真がないなら上野の銅像はどうやって作ったの?

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西郷隆盛といえば、一番最初に思いつくのは上野の銅像ではないでしょうか。あの浴衣姿で犬を連れた姿。

待ち合わせ場所としても有名なあの銅像ですが、モデルである西郷隆盛の姿がわからない状態でどうやって完成させたのでしょうか。西郷隆盛像がどうやって作られることになったのか。実際の除幕式でのエピソードなど、上野公園の西郷隆盛像についてを見ていきましょう。

西郷隆盛像ができたのは亡くなってから21年が経ったのちです。なぜ亡くなってからそんなに時間が経ってしまったのでしょうか。実は西郷隆盛は西南戦争で明治政府に抵抗したため、逆賊としての汚名が着せられていたのです。赦されたのは明治22年の大日本帝国憲法交付の際の大赦でのことで、西郷隆盛が罪人ではなくなったことで薩摩藩の出身者が銅像を作る計画を立てたのが始まりになります。

西郷隆盛像はどうして上野に作られたのか? 西郷隆盛と上野の関係

西郷隆盛像が上野公園に作られた理由としては、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺があるからだといわれています。江戸無血開城の際に徳川家の家臣たちは開城に反対し、彰義隊を結成し寛永寺に立てこもりました。

西郷隆盛はその彰義隊を倒すための指揮をしました。今西郷隆盛像が立っている場所は、西郷隆盛が攻め込んだ場所だとされています。だからこそ選ばれたのでしょうね。

実は結構いい加減? 西郷隆盛の奥さんの糸さんが言った「これは西郷さんじゃない」

最初の計画では西郷隆盛像は馬に乗っていたそうです。ではなぜ浴衣姿で犬と一緒になったのか。

答えは、資金不足です。仕方がなく、次の案を練り始めた薩摩藩士でしたが、陸軍の正装姿ではどうかと考えた際に明治政府の軍服を着せることに対して猛反対を受けます。

結局落ち着いたのは浴衣に犬を連れた今の姿だったというわけです。銅像の犬についてもこんな話が。西郷隆盛像の横にいる犬のモデルは西郷隆盛が生前に飼っていた薩摩犬のツンだと言われています。

しかしこのツン、実は女の子だったとか。実際の西郷隆盛像製作時にモデルにした犬が雄犬だったため、そのまま雄犬として作られてしまったそうです。

銅像のサイズの関係で大きさも実際より大きく作られているらしいので、実際の犬とは少し違うようです。

除幕式の際には西郷隆盛の3人目の奥さんである糸さんも出席しましたが、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」(うちの人はこんな人じゃなかった)と言ったという話が残っています。

どうやらこの話は西郷隆盛の顔が違うという話ではなく、当時浴衣は人前に出る服装ではなかったために「こんな服装で散歩する人ではなかった」という意味だったようです。

まとめ:西郷隆盛は本当に写真が嫌いだった

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西郷隆盛がいなければ明治は来なかった。そんな彼が写真嫌いで自分の姿かたちを残すのを嫌がった理由は一体何だったのでしょうか。単に写真が嫌いだから、自分の容姿を気に入っていなかったから、暗殺を恐れて、いろいろな推測が建てられます。

また、西郷隆盛は汽車に乗ることも嫌がったとされているので、もしかしたらただの文明開化嫌いだったのかもしれません。

それにしても徹底的に写真に写ることを嫌い、親友の大久保利通に写真をとるなという内容の手紙を送るなど、西郷隆盛には彼なりの信念があったのは確かでしょう。

現代の私達が西郷隆盛の姿を確認することはもはやできませんが、西郷隆盛の人となりや、功績から西郷隆盛がどんな人だったのかを想像することも面白いかもしれませんね。

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