「篤姫」「西郷」、両者の視点から見る「江戸無血開城」

2008年にNHKの大河ドラマで放送された宮崎あおいが演じる「篤姫」、そして現在放送中の大河ドラマ「せごどん」で鈴木亮平演じる「西郷隆盛」。この2つの作品には役者こそ違えどこの二人がそれぞれの作品に登場しています。何故こうも同じ人物が登場する題材がドラマに選ばれのでしょうか?それは、二人が生きた時代が現代を生きる私達の心を掴んで離さない、魅力溢れる時代だったからに違いないでしょう。二人が活躍したのはペリーが来航、幕府はアメリカと日米和親条約(1854年3月31日)を結び、経済は大混乱、幕末と呼ばれる混沌とした時代です。そんな時代に二人は同じ薩摩藩で産まれ育ちますが、後に篤姫は幕府側、西郷は倒幕側と全く逆の立場でそれぞれの役目を果たさんと奮闘する事になります。

 

二人を産んだ国、歴史を動かす国「薩摩」

薩摩藩は現在の鹿児島県と宮崎県南西部、さらには沖縄県の大部分(当時の琉球)を服属とさせるほどの領地を有する大きな藩で、「加賀百万石」で有名な加賀藩に次ぐ大藩です。それだけ領地を有していれば日本の歴史において重要な場面で度々登場する事にも頷けます。それでは、どのようにしてそれほどの領地を有するほど強い藩になったのでしょう、その藩を支えた薩摩の人達とは一体どのような強さを持っていたのでしょうか?そこから「篤姫」「西郷隆盛」の生まれ育った背景が見えてくる事でしょう。


「薩摩隼人」、薩摩藩の強さはどこから?

「薩摩隼人」という言葉耳にした事があるのではないでしょうか?現代では単に鹿児島県出身の男性を指す言葉ですが、古代(奈良時代といわれています。)から薩摩に住む、勇ましく勇猛果敢な「隼人一族」が由来といわれています。この言葉から分かるように、薩摩は古くから武士の国だったのです。戦国時代には薩摩地方を本拠地としてきた島津氏が戦国大名として活躍。豊臣秀吉の九州征伐に合うも、武功を称えられ薩摩地方の領有を認められます。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて西軍につき敗北するも、徳川氏の家臣、井伊直政の取り計らいにより領土の領有権をそのまま幕府は認めます。これをもって正式に薩摩藩の成立とされています。


困窮する薩摩藩、倒幕へと至る理由

関ヶ原の戦いの結果幕府(徳川家)は薩摩藩に対して弱体化政策を行います。特に1753年(宝暦3年)木曽川改修工事では普請現場が遠いため、多大な出費と多くの犠牲者を出してしまいます。江戸幕府との関係を良好にするため、8第藩主島津重豪は娘の茂姫を第11代将軍徳川家斉に嫁がせます。(後述する「篤姫」も同じ目的です。)これにより薩摩藩は全国的に発言力を持ったものの、あいかわらず財政は苦しいままでした。その後、砂糖の専売、琉球貿易の拡大などの改革をもって困窮状況を回復しますが、決して裕福ではありませんでした。

そして、幕府に対しての不信、不満は燻り続けています。薩摩藩家来が横浜でイギリス人を殺傷した「生麦事件」を端に発するイギリスとの「薩英戦争」が起きます。この戦争の発端からは開国したものの不平等条約を結ぶ弱腰外交の幕府、活発になっていく攘夷論(外国人を日本から追い出そうという運動)など複雑な時代背景が伺えます。

しかし、薩摩はこの戦争を通じてイギリスと急接近、交友関係を結び貿易と新しい兵器を手に入れます。薩摩藩士の攘夷思想は開国、いつまでも閉鎖的な国づくりをおこなう幕府を倒さねばならぬ、と考えを改めていきます。詳しくは後述しますが、西郷隆盛らの新政府は「戊辰戦争」で旧幕府勢力に勝利し、15代、約260年続いた江戸幕府を倒すことになります。


江戸を「守る」篤姫

天璋院/wikipediaより引用

幕末で倒幕を果たす薩摩藩。篤姫はそんな薩摩藩に生まれ、第13代将軍徳川家定の正室として「徳川家」の人間となります。それこそドラマのように西郷と直接対決!、なんて事はなかったのですが、故郷の人間と今の家の人間が争っている篤姫の心境は決して穏やかなものではなかったはずです。結果を先に言ってしまうと篤姫は「徳川家を守る」立場を貫きます。それは明治維新のターニングポイントとなる「江戸城無血開城」に深く関わっています。故郷の為に故郷を離れ、その故郷との争いに飲み込まれ、二度と故郷の地を踏む事はなかった篤姫、その壮絶な生涯とは?


島津家から徳川家へ、島津斉彬から受けた「密命」

篤姫は1836年(天保6年)島津家の分家、今和泉家に生まれ幼名を一(かつ)と名付けられました。1853年(嘉永6年)従兄弟で薩摩藩藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)の養女となり、鹿児島県城(別名鶴丸城)へ迎えられ、篤子の名をもらいます。(篤姫は通称。)島津斉彬は篤姫を第13代将軍の「徳川家定」の正室として輿入れさせます。この時、幕府は14代将軍を誰にするかの争いが起きていました。前述の通り薩摩藩は幕府に対して発言力を持っており、他の有力な大名と結託、水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた「一橋慶喜」を次期将軍として擁立しました。これに対して徳川家に縁深い譜代大名や大奥の保守派は家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主「徳川慶福」を擁立します。島津斉彬は今後も幕府での発言力を更に強め、開国路線での幕府の改革を目的にしていました。そのために篤姫を大奥に輿入れさせ、徳川慶福派の大奥で一橋慶喜の「表集め」工作を指示していました。


大奥、政争

一時一橋派が有利に動いたものの、老中阿部正弘の急死で阿倍の政治に不信感を感じていた保守派、譜代大名が巻き返し、大奥もこれに同調します。篤姫の一橋慶喜擁立工作は当然難航、また篤姫自身も次第に徳川慶福が将軍をにふさわしいという考えに至り、故郷と大奥(徳川家)の間でゆらぎ、苦悩します。1858年(安政5年)家定が重態となり、井伊直弼を大老に据えた保守派は徳川慶福(後に家茂を名乗る)を14代将軍とすることを決めます。これに対し篤姫は、「輿入れしたからには私は徳川の人間である」と夫の家、徳川家の意向を受け入れる事を決め、島津斉彬の願いを果たす事は叶いませんでした。


徳川を「故郷の脅威」から守る、「江戸無血開城」

徳川家定は1858年(安政5年)35歳の若さで病死します。(家定死後、篤姫は仏門に入り名前を「天璋院」と名乗ります。)徳川家茂が14代将軍に就任、家定から将軍を後見するよう遺言を受けた篤姫は徳川家、大奥を護る立場となっていきます。篤姫は大奥へ介入せんとする大老井伊直弼との対立、大奥内の女官と女中の対立などに巻き込まれますが、これらをおさめまる活躍をみせます。しかし、家茂は長州討伐の最中病死、一橋慶喜(徳川慶喜)が15代将軍となりますが、篤姫の故郷薩摩藩は慶喜と決別、本格的に倒幕へと動き出します。

篤姫は再び「故郷」と「徳川家」の間に立ち苦しむ事になります。新政府樹立を掲げた薩摩藩は密かに江戸城下で工作活動を企ていて、それに篤姫が加担しているとの嫌疑をかけられるまで篤姫の立場は苦しいものでした。ついに、慶喜は政権を天皇に返上(大政奉還)、篤姫は大いに困惑、それでも大奥と徳川家は自分が護ると宣言、混乱する人々をまとめ上げます。

薩摩藩ら新政府軍が大阪、甲州を落とし、いよいよ江戸に総攻撃の気配が立ち込めます。そんな緊迫した状況でも篤姫は奥女中たちに、全責任を以て全員の安否を約束すると強く宣言します。まず、朝廷に対し徳川家、なにより徳川慶喜の救済を申しいれます。次に、故郷ながら敵方にある島津家、そして「西郷隆盛」にも救済嘆願の書状を届けさせます。江戸総攻撃直前まで徳川家を護る事に尽力し、ついに篤姫は開城の直前に大奥を立ち退く事になります。

その後、新政府と徳川家の必死の交渉により江戸の総攻撃は中止、徳川家は抵抗する事無く江戸城を明渡します。これを「江戸城無血開城」といい、影に篤姫の徳川家に対する深い忠義の心がその一翼を担っていたといっても過言ではないでしょう。


薩摩には帰らず

新政府軍は幕府軍との戦争に勝利し(戊辰戦争)、明治政府を樹立します。篤姫はその後薩摩には帰らず、名を江戸から改められた東京、千駄ヶ谷徳川邸に身を寄せます。その住まいは決して裕福ではありませんでした。篤姫の窮状を知った島津家は度々援助を申し出ますが、篤姫はこれを拒否します。倒幕に加わった島津家からの援助は受けない、あくまでも自分は「徳川家」の人間であるという心を崩しませんでした。それでも元奥女中達には約束どおり、少ない生活費の中から惜しみない援助をしていました。49歳で亡くなった時の所持金は今の価値にして6万円というつつましい暮らしぶりの篤姫。葬儀の見送りには1万人も人々が集まったといい、その多くは元大奥の女中、そして「徳川家」の人間だったとされています。篤姫は薩摩、島津家から徳川家に嫁ぎ、時に板挟みになりながらも、最後まで「徳川家」の人間として激動の時代を強く生きていたのです。



江戸を「攻める」西郷

次は江戸を「攻める」、「江戸城無血開城」を「西郷隆盛」の視点で見ていきます。生まれは下級武士、その行く末は国を動かし一時的ですが明治政府を預かるほどに成長します。九州の南端、薩摩からどんな視点で覗けば国づくりを志すほどの人物に成長するのでしょうか?それは全て西郷の内から出たものだけでなし得た事ではありませんでした。西郷の才能を早くに見つけ出してくれた人物、幕府の家臣ながら幕府に逆らう事に背中を押してくれた人物、様々な人との関わりが西郷を強く成長させてゆくのです。


下級武士から薩摩藩士へ、

1828年(文政10年)薩摩国鹿児島城下鍛冶町で生まれた西郷。幼名は小吉、通称は吉之介と呼ばれた。西郷家の島津家の家臣、格は下から2番目の下級武士です。1839年(天保10年)友人の喧嘩の仲裁に入り、仲裁相手の持つ刀で右腕の神経を切る大怪我を負い、3日間寝込みますが一命を取り留めます。この怪我で西郷は刀を握れなくなってしまいます。武術の道を諦めた西郷は学問の道を志すようになります。元服し(現在でいう成人の扱い。およそ12~16歳。)薩摩藩士となります。そして、西郷の人生に最も影響を与えた人物に拾われる事になります。

 

才人、島津斉彬

その人物こそ篤姫の義父でもある島津斉彬です。薩摩藩第11代藩主、薩摩藩の富国強兵に努めた幕末の名大名です。西郷を幕末の世で活躍できる人物に育てたのは正にこの人です。斉彬は黒船来航以来、難局を打破出来ない幕府の政治に改革を訴えます。日本は本格的に開国し、富国強兵を以て諸外国、露・英・仏に対処しようと考えていました。

西郷はそんな斉彬に徐々に才能を見出され、直接教えを請うまでに藩内で昇進していきます。前述の通り篤姫を使い、第14代将軍に一橋慶喜を擁立する活動の際は斉彬の手足となり各地を奔走します。この頃の西郷は薩摩と江戸を行き来し、様々な有識者と面会、政治にについて学びます。1858年(安政5年)大老・井伊直弼は家茂を第14代将軍とすると、安政の大獄を開始、一橋派を弾圧します。これに対し斉彬は兵を率いて上洛する準備をしていたと言われています。しかし、その準備の最中、突然急逝してしまいます。これには当時日本でも流行していたコレラによる病死説と、斉彬の嫡子も突然の死をとげていることから後に薩摩藩の実権を握る島津久光らによる毒殺説もありますが、いずれも推察の域を出ていません。

この時西郷は京都にて斉彬の訃報を知ります。西郷は斉彬の後を追い自刃しようとしますが、京都の尊皇攘夷派の僧、月照に「あなたが斉彬の遺志を継ぎなさい」説得され再び立ち上がります。

 

薩長同盟と戊辰戦争、「江戸無血開城」必死の交渉

再び立ち上がった西郷ですが、斉彬の後ろ盾を失い失脚し、藩の事実上の権力者島津久光ともり合いが悪かったために2度に渡る島流しを経験します。しかし、斉彬の下で動いていた時に交友をもった大久保利通、小松帯刀らの後押しにより復帰します。直後京都の皇居守護にあたっていた西郷ら薩摩藩と長州藩の勢力が激突、これを撃退します。朝敵となった長州の討伐を幕府から命ぜられる西郷でしたが、大阪で幕府の家臣「勝海舟」の意見を参考に妥協案を長州藩に提示、双方兵を引かせます。その後も、幕府からの長州征伐には拒否するべしと藩命をまとめ、坂本龍馬の協力を得て薩長同盟を結びます。この同盟は「共に幕府を倒そう!」というものではなく、「薩摩は長州を支援するよ!」というもので、この同盟に基づき西郷は第2次長州征伐を拒否します。ですが、この同盟により仲違いが続いていた両藩は友好関係を築く事になります。

1867年(慶応3年)、大勢が悪くなった幕府は権力を朝廷に返上する「大政奉還」を提出します。翌年1868(慶応4年)、江戸幕府の廃絶、新政府の樹立を宣言した「王政復古の大号令」を発し、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争に突入します。西郷は鳥羽・伏見の戦い、八幡の戦いに快勝、大阪から江戸に撤退した徳川慶喜を追撃します。東海道の要所箱根を占領し、江戸を目と鼻の先に捉えます。そしてついに西郷に江戸総攻撃の命令がくだります。

西郷は本陣、池上本門寺に入ります。その直後から勝海舟との江戸城明渡しの交渉がはじまります。この交渉内容、西郷側の主張は熾烈を極め、「慶喜の首を取る」「江戸城と城下は全て燃やし尽くす」と主張。旧幕府の全権を託されていた勝はあくまでも平和的解決を望みます。攻める側である西郷の強硬な主張を跳ね除けるほどの材料は旧幕府軍にはありませんでした。しかし、西郷は勝の提示した条件をのみ、総攻撃を中止します。これには様々な要因があったとされ、先に触れた篤姫の書状、英国の圧力などがあったとされています。何より一番大きく影響を与えたとされるのは、西郷の勝への信頼です。長州征伐の際に受けた助言、閉鎖的な幕府にいながらも世界を広く見ていた勝への信頼が「江戸無血開城」へと導いたのです。この交渉で両軍の兵士、そしてなにより何百万もの江戸の市民の命を救ったのです。


明治維新、戊辰戦争

江戸幕府滅亡させた西郷ら新政府軍ですが、新政府に対し抵抗を続ける勢力との戦いは続きます。いくつかの東北地方での戦争の後、蝦夷の地まで敵を追い詰め「箱館戦争」にて戊辰戦争は終結します。西郷は鹿児島に戻り県の政治改革、兵士の教練、整備に努めます。安定しない新政府からの説得を受けた西郷は上京、再び国政に参加します。国政陸軍大将・近衛都督兼任するまでの活躍を見せます。さらには条約改正の為に政府主要人物が欧米諸国へ出向いた際には西郷が政府を預かりました。(留守政府と呼ばれています。)しかし、外交から帰国した政府と対立し、西郷は鹿児島に戻ります。西郷は鹿児島で私学校を設立、教育事業に専念していきます。そのころ、九州では各地の士族が新政府に対し反乱が起きます。1877年(明治10年)には西郷の私学校の学生のクーデターを発端に「西南戦争」が勃発。新政府軍に対して指導者としてこの戦いを率います。この戦争は士族が起こした反乱の中でも最大の規模で、激しい銃撃戦の爪痕は九州各地の史跡で未だに見ることができます。この激しい戦争の末に鹿児島の城山で新政府軍に完全包囲された西郷、生まれ故郷薩摩の地で自刃というかたちでその生涯を終えます。その死を味方はもとより敵軍の中の兵士、そして明治天皇まで悲しんだと言われています。

 

まとめ

幕末に倒幕の為政略結婚で大奥に嫁ぎ徳川家としていきた「篤姫」、薩摩藩の名君島津斉彬のもとで世界を広く見聞しよりよい国づくりを目指した「西郷隆盛」。明治維新のターニングポイント「江戸城無血開城」に関わった二人。はじめに何故この二人が、この時代がよく題材として取り上げられるのかと問いかけましたたが、ここまで読んだ方は少しわかるような気がしてきませんか?現在でも不安な事はたくさんあります。過去の大きな混乱の中で諦めず力強く生き、他者の為に力を尽くした二人に憧れるからこそ、「篤姫」「西郷隆盛」はいつまでも物語の主役として描かれ続ける事でしょう。

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