戦国最強の武将!甲斐の虎・武田信玄の名言に学ぶ人生訓!

戦国時代最強の大名と言われた武田信玄。彼は現在の山梨県(甲斐)から長野県(信濃)にかけてを治める「大大名」でした。信玄は戦の天才の誉れ高く、生涯において数々の戦で多くの勝利をおさめています。そんな彼を恐れて人は彼を、「甲斐の虎」と呼びました。この記事では、そんな武田信玄の名言を紹介していきます。

甲斐の虎!武田信玄の部下が付いてくる名言集!!

まずはリーダーとしても大変優秀だった信玄の部下や人に対する想いが感じられる名言です。戦国と現代はまるで違った環境ですが、素晴らしい組織を作り上げるために参考になる言葉もあるのではないでしょうか。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

武田信玄はその本拠地である居城として、今の甲府市に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を構えていました。この建物は、館と呼ばれることからも分かるように、城というよりも簡素な武家屋敷でした。当時の戦国大名の城は、守りを固くし、華美で飾ることが常でしたが、信玄はそうしたものを好みませんでした。事実、信玄の城である躑躅ヶ崎館は非常に質素で守りもさほど固くないものでした。城と言えば普通なら鉄壁の防御を固めたいと思うものですが、信玄はそれをしませんでした。ではなぜ、信玄の城は簡素なものだったのでしょうか。その理由が垣間見えるのが、上で紹介した「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の言葉です。信玄は人を非常に大事にした武将で、城の守りを固める代わりに、自分の部下を大切にすることで、部下が自分を守ってくれると考えていました。この哲学が、人は城のようであり、石垣のようでもあり、堀のようでもある。だから城は簡素でよいという信玄の信念を生み出しました。

渋柿は渋柿として使え

信玄の部下の扱い方に関する名言として、「渋柿は渋柿として使え」というものがあります。これは、人それぞれに得意なこととそうでないことがあり、無理に苦手なことをさせるのではなくて、本人ができることをさせようという、現在にも通じる考え方です。たとえば、泳ぎが得意だけど走るのが苦手な侍がいたとします。こうした部下を戦で使うときに、わざわざ走らせて戦わせるよりも、水中戦や泳ぎを活かして敵地に潜り込ませることを信玄は考えました。部下の個性を見極め、そしてそれを活かしてあげた信玄。現在でいえばまさに理想の上司といえそうですね。

信頼してこそ、人は尽くしてくれるものだ

この言葉は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」のなかの「情けは味方」とかぶるものだと思います。部下を信頼して、情けをかけて接すると、部下はその上司のために力を発揮してくれるものです。武田信玄は先に述べた通り、非常に人を大事にした武将でした。当時は現在とは違い、身分社会です。自分の領地のお殿様に、褒められたり、大切にされたら、この人のために命を懸けて戦いたいと思うでしょう。信玄は当時としては珍しく部下を本当によく信頼しました。その信玄の信頼に部下たちは全力で応えたため、武田軍団は戦において無敵の強さを誇ったのです。

自分のしたいことより、いやなことを先にせよ

この言葉は耳が痛くなる人も多いのではないでしょうか。誰だって自分のやりたいことだけをやりたいと思うものです。しかし皆がそんなことをしていたら、世の中は回らなくなってしまいます。信玄のこの言葉はそうしたことへの戒めです。また、面倒なことを先に片づけることで、その後気持ちよくスムーズに仕事に取り組める経験は誰にでもあるのではないでしょうか。信玄はそうした人のさぼりたい心や、怠惰な心に喝をいれているのかもしれません。

我、人を使うにあらず、その業を使うにあり

とても素晴らしい格言だと思います。これは、ただ人を使うのではなくて、その人のできることを見極めて仕事をさせるということでしょう。人にはできることと、できないことがあります。できない仕事を任されても進度が滞ってしまうだけで、チーム全体としてマイナスです。チームがより円滑に仕事を進めるためには適材適所に人材を配置し、ただ人に仕事をさせるのではなく、個々人の才覚を見抜き、それぞれが力を発揮できる部署に置くことが重要です。信玄は、こうした一人ひとりの才能や能力を見抜く力に秀でていたのでしょう。

戦の天才!軍神・武田信玄の軍略はこれだ!!

武田信玄は軍事の天才で、生涯の戦の勝率は九割を超えていたといいます。終生のライバルである上杉謙信との長きにわたる死闘や、隣接する北条、今川といった強豪勢力との競り合い。そして後の天下人である徳川家康を完膚なきまでに叩くなど華々しい戦歴を誇る戦国最強の大名です。そんな信玄の戦い関する哲学を表わす言葉を紹介していきます。

疾きこと風の如く、徐かなること林の如く

全文は、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如」です。これは武田信玄が大変好んだ言葉で、それぞれから一文字ずつとった「風林火山」という旗を、戦場に持っていくことを常としていました。この「風林火山」こそ、信玄の理想とする戦い方でした。では、「風林火山」の意味とは何でしょうか。解説していきます。まず、疾きこと風の如くとは、攻め込むときには風のように素早く攻めかかるという意味です。徐かなること林の如くとは、戦いの準備をちゃんとして、機会が来るのを林のように静かに待ちましょうということです。侵掠すること火の如くとは、侵攻するときには、火のように猛烈に攻めまくれという意味です。動かざること山の如しとは、自分たちの陣地を守るときには、山のように落ち着いて、ただ堅守するということです。この四か条が、信玄の掲げた戦いの鉄則です。

 

勝敗は六分か七分勝てばよい

全文は、「勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。」です。武田信玄は生涯で多くの戦に勝ち、勝率は九割を超えていたといいます。しかし、その信玄の戦に対する哲学は、六分か七分勝てばよいというものでした。普通なら、相手を完膚なきまでに叩きつくしたほうが良いと考えると思います。しかし信玄は違いました。彼は、勝ちすぎることを良しとしませんでした。何故なら、勝ちすぎると軍団が冗長したり慢心して、敵に対して油断をして、そのことで痛い目にあう可能性があると考えていました。そのため、勝敗は六分か七分勝てばよいとしたのです。

 

戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる

上で既述したように、信玄はほどほどの勝利こそ良い勝利と考えていました。勝ちすぎることでかえって味方が油断してしまうため、五分の勝利で十分すぎると考えたのでした。この考え方はとても興味深いものです。私たちは勝利を意識するとき、できることなら圧倒的に勝ちたいと思うでしょう。しかし信玄はこうした考えを戒め、むしろ「十分をもって下となる」と断じています。

 

戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳以後は負けないように

全文は、「戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。」です。当時は人生五十年と言われた時代ですから、四十歳という年齢は晩年の生き方を示唆しているのではないのでしょうか。戦いは晩年以前の若い頃は勝つようにして、晩年以後は負けないようにすることだ、ということでしょうか。そして読み進めていくと、ここでも「勝ちすぎてはならない」とあります。やはり信玄の哲学は、ほどほどに勝つことが最良で、勝ちすぎて慢心してはいけないということではないでしょうか。

 

勝って兜の緒を締めよ!決して油断しない武田信玄!!

戦国最強の武将である武田信玄の名言をみてきました。無敵を誇る武田軍団への戒めとして、勝ちすぎてはいけないという言葉がとても印象にのこりました。普通なら、戦となれば相手をコテンパンに叩きつくすことが勝つことのように思われますが、信玄は勝ちすぎることは大敗を招く下地を作るようなものだと語っています。もし圧勝してしまうと慢心して敵を侮り、それが危険に陥ってしまうのだと述べています。常勝将軍であった武田信玄は豪胆なイメージをもっていましたが、勝って兜の緒を締める慎重さも持ち合わせた武将であっようです。他方、人を大切にして家臣たちから非常に慕われたという一面もあり、まさに武田信玄は理想の上司のような武将であったといえるのではないでしょうか。

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